道の長手をへし折って

折原ひつじ

プロローグ

「どうして世の中の人はこんなにも万葉集に興味がないんでしょうね?」

 それは、放課後の夕暮れに浸された静かな部室にぽつりと落とされた疑問だった。蜂蜜色の光に照らされた少女の横顔はまだ幼なげで無垢であり、神聖ささえ感じられるような気がした。

 けれど、よく見ればその唇は不満げに尖らされている。だから俺は小さくため息を吐くと読んでいたブラッドベリに栞を挟んで閉じた。

「……佐野さんだって、SFに興味あんまりないだろ。それと同じようなもんだ」

 そう伝えれば佐野さんはちょっとバツが悪そうな顔をしたあと「『夏への扉』は読みました」と小さな声でつぶやいた。有名どころも有名どころじゃないか。

「だって、こんなにも面白いんですよ。百人一首はみんなに読まれているのに万葉集が読まれてないのは不公平です」

 そうぶつくさ文句を言う彼女の手には文庫本が収められている。やわらかな黄色のブックカバーに包まれたそれは万葉集巻十五だった。挟まれてる栞から察するに、後ろの方。だから俺は苦笑混じりに言ってやった。

「自分で言うなんてナルシストなんじゃないか?」

 そうすれば佐野さんは一瞬キョトンとしたあとにこりと笑って答える。

「いいじゃないですか。『私』が書いた和歌が一番好きなんですから!」

 いきなり何を言うのかと思うだろうが、俺が一番問いたい。何を隠そう、この後輩である佐野さん……佐野橘花さんは自身を「万葉集に出てくる歌人である」と主張しているのだ。

 最初聞いた時はギョッとしたものだが、彼女も立派な中学二年生。そういう時期だと思って受け入れ、今ではすっかりお馴染みの「設定」となっている。

 だから今更深く突っ込むこともなく俺は適当にいなすと、一つのアイディアを口にした。

「万葉集は敷居が高くてとっつきにくいんだよ。それならいっそ、自分で紹介してみるっていうのはどうだ?」

 最近では自身の考えをインターネットを通じて発信することも珍しくない。彼女一人だけじゃ厳しいかもしれないが、まあ手助けくらいなら……

 そう考えた末での発言だったが、どうやら佐野さんのお気に召したらしい。下の方で結ったツインテールをぴょこぴょこと揺らしながらうんうんと大きく頷いた。

 けれど次の瞬間、彼女は俺の予想とは大きく異なるセリフを口にする。

「じゃあ、まずは手始めに先輩に紹介してみます!」

 待て、なんで俺なんだ。

 彼女の万葉集談義にすこし辟易した上での発言なのに本末転倒じゃないか。俺は古典よりSF派だ。

 そう思って口を開こうとする前に、佐野さんはずずいと一歩分距離を縮めると俺に向かって頭を下げる。

「お願いします。先輩にチェックしてもらいたいんです!」

 黒髪の合間のその左向きのつむじを見つめながら、俺はまた小さく嘆息した。昔っから後輩という生き物に弱いのだ。面倒見がいいと言われるタイプであり、頼られるとついつい世話を焼いてしまう。

 だから彼女も例に漏れず、俺のおせっかいセンサーが反応してしまったのだ。こうなればもう仕方ないだろう。俺は心の中で小さく決意を固めると、彼女の小さな頭にぽんと手のひらを乗せる。

「いいよ。俺でよければ話聞いてやる」

 この文芸部できちんと活動している部員は俺と彼女だけだったのだ。中等部に至っては彼女一人。だからそのたった一人の後輩に頼られれば悪い気はしないし、前々から何度か話は聞かされていた。そう思えば今更だし、大した負担にもならないだろう。

 そう思って承諾をすれば、佐野さんは大きく目を見開いたかと思うと次の瞬間花が咲くように笑った。

「いいんですか?」

 そこまで喜ばれれば悪い気もしないってものだ。だから俺も笑って「楽しみにしてる」と伝えてやればますますご機嫌になった彼女がセーラー服のリボンを揺らして跳ねる。

「やったぁ、じゃあ精一杯準備してきますね!」

 ……そこまで熱を入れられると、怖いのだが。

 こうして俺と佐野さんの万葉集の日々は幕を開けたのだった。

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