エピローグ
終章
*
── 一ヶ月後……
高層ビルとタワーマンションの隙間から青空が垣間見える。
次々と鳩の群れ合間を横切ってゆく。これから何処へ行こうと云うのか。さっと眼鏡の位置を調整したものの、次の瞬間には居なくなっている。
しず江は歯に噛むようにアイスティーをゆっくりと啜り、年々悪化する近視に溜め息をつく。そろそろ眼鏡も買い替え時だろう。スマホに目線を戻しつつ、窓から賑やかな外の雑踏に目を向けた。
容赦なく降り注ぐ夏の日差しと、茹だるような暑さ。田舎より湿度も高く、不快指数はうなぎのぼり。じっとりと肌に貼り付いてくる湿気に嫌気が刺す。お気に入りのカフェに来たはずなのに、ちっとも気分が冴えなかった。
おまけに、魔女から充てがられた都心の一軒家も駅までは遠く、静かな住環境であるものの自転車や徒歩での移動が非常に面倒くさいのだ……。
憧れていた都会生活とは大分差異があったせいな気がする。これなら、青海村でもC葉市のマンションでもあまり大差がなかった。むしろ車で移動をする分、郊外のほうが快適な暮らしと云えたのだった。
この手の大きな繁華街は、時々訪れるから良いのだろう。大体の買い物もネット通販で済む時代でもある。東京は仕事をする場所であって住むところではないのかもしれない……と、今更ながら再認識するのだった。
特にすることもないせいか、しず江はもう一度外に目を遣る。容赦なく降り注ぐ夏の陽射し。目にしているだけでも汗ばんできそうだ。
この炎天下の中で電気工事をする作業員には頭が下がるばかり。真っ黒に日焼けをしながらも黙々と労働に取り組み、いくら仕事とはいえ、その献身的な姿勢に冷たいものでも差し入れしたくなってしまう。
──すると、テラスの向こうから只ならぬ気配を感じる。
ゆらゆらと立ち昇る陽炎の中から弁護士の「結子」が現れたのだった。全身を汗だくにさせ、ハンカチで首元を拭いながら落ち着きなくカフェに入ってくる。本来であれば、部下に任せればいいものの律儀な性格だ。
店内の清涼とした空気に恍惚の表情を浮かべ、きょろきょろと隈なく周囲を探す。しず江が小さく手をあげると、和やかに挨拶をしながら結子がやってくる。愛嬌を振り撒くわけではなく、気を遣わせない自然体でもあった。
「どうもすみません。お呼び立てしてしまって」
「いえ、ちょうど買い物もあったんで」
と、しず江は小さな紙袋を掲げて微笑んで見せる。
……それにしても、高そうな化粧品だ。モダンで上品な柄が目を引く。羽振りが良いとは聴いていたが、魔女と関わりを持ってからは余計なのだろう。身につけているアクセサリーや時計にまで高級な志向が冴え渡っていた。
結子は注文を取りにきた店員にテイクアウト用のアイスコーヒーだけを注文して、急かせかと鞄から書類を取り出す。長居をするつもりはないらしく、この余裕が一切ない感じは相変わらずだ。この調子で本当に大丈夫なのだろうか。
次いで、テーブルにペンとバインダーを置きつつ、お冷を手にして一気に飲み干す。結子がしず江に会うのこれで四回目となる。初日の対面では紆余曲折があったが、それを差し引いても感慨深かった。
だが、初回の成り済ましがよく出来ていた為、翌日に会えた「本物」のしず江が初対面に思えなかったりする。あの日の記憶がいまいち払拭できないせいか、非常に複雑な気分だった。
「西園寺家への養子縁組の手続きは、これで最後になりますので……」
と、バインダーを開き作成した書類を相手側に向ける。
「そこに署名と捺印だけお願いします」
しず江はポーチから印鑑を取り出す。「鉛筆で薄く囲ってるとこですね?」
「はい、残りの二枚は保証関連の書類になりますので……」
書かれている項目に目を通しつつ、しず江は結子に云われたままに署名をしてポンポンと印鑑を押してゆく。もう少し疑って掛かってみるのも良さそうだが、しず江はあまり欲と云うものがなかった。というより、強欲な人間の接し方を熟知しているような気がする。
……まあ、それもそうだろう。巷では伝説のホステスやキャバ嬢として囁かれていたほどの逸材だ。噂によれば、太客から何億円も引っ張っていたとも聞く。話の真相は兎も角として、此方が心配するような身分でも立場でもなかった。
「ええと、最終的な確認ですが……。いち華さんを養子に出のされるのに、ご不明な点やご不満はありませんか?」
しず江は目をぱちくりせて不思議そうに云う。「えっ? どうしてですか?」
「いえ、一応の慣例といいますか、聴くことになってまして……」
「大丈夫ですよ。本人、いち華にとってはベストな選択だと思いますから」
と、少し寂しそうな顔をする。そして続け様に言葉を繋げた。
「それに、エリスさんの話だと、魔女は十三歳を迎えたら親元を離れて独り立ちする……とかいう慣習なのですよね?」
「えっ? そんなんですか?」
「それで、新しい街に移り住んで修行するみたいです……?」
どこかで聞き覚えのある話の設定のような……。しかし、気に留める必要はないだろう。どうせ、口からの出任せであり、魔女なりの冗談に違いない。
結子は見落としや書類の不備がないかを慎重に確認する。ただ間が持たないのか、しず江は何処となくソワソワしている様子だ。折角の機会なのもあってか、娘の近況の話題でも振ってみることにした。
「ところで、いち華さんとは、その後は如何お過ごしですか?」
「はいっ? ええっと、そうですね……。あれから魔女さん達のとこに入り浸りみたいでして、週末になるとヒミカちゃんと泊まりに来る程度ですね。散歩をしたり、買い物にいったりとかです」
ヒミカと云う名前を聴いて、結子の手元が止まる。
確か、ユキが可愛い後輩が出来たと自慢気に話していたのを思い出したのだった。……可哀想に、彼女もゆくゆくは〝カラス〟のメンバーになるということだろう。
「そういえば、ヒミカちゃんも同じ学校に転校したのでしたっけ?」
「……ええ。でも、いち華は村の方が過ごしやすかったみたいで。夏休みは一時的に戻るらしくて、長老やチサキさんのところで厄介になるそうです」
と、いつものおっとりとした口調。癖なのか、首をほんの僅かに傾けて頬に手を充てて「なんだかちょっと困っちゃったな」というような顔をする。
魅惑的な瞳に、その振る舞いは妖艶な限り。まるで花魁のような色気まで漂う。きっと、無意識の内に異性を誘惑してしまう特性なのだ。……まあ、それも仕方あるまい。何を隠そう、しず江の正体は『狐』でもあった──。
それならば、彼女が飛び抜けて魅力的なのは合点のゆく。それも青海村では、手の負えない「異能の孤児たち」を引き取っていたという話だ。しず江もまた、そういう子供の一人だったのだろう。ただ、独狼という組織が一枚岩ではないのは、それらの多様性に富んでいたという証でもある。
故に、子育ては村総出で執り行う。そこには、男も女も関係ない。それが良い悪いの問題ではなく、そういう伝統や仕来りなのだろう。
手の空いてる者から優先的に子供の面倒をみてゆく。即ち、この村では親と呼べるような大人や老人がそこら中にいると云う訳だ。別に育ての親など何人いても良いという発想らしい。それに、皆で育てたほうが何かと効率がよい。
とりわけ、異端児や問題児の扱いについては長期的な戦略や十分なノウハウがある。尤も、数多の困難や軋轢は産んだに違いなかったが、みな意外と素直に育っている現状……。才能あるものは、出生に関係なく上に取り立てる。それが、この村の本質でもあった。
そういう背景があるせいか、養子に出すことにもあまり抵抗はなかったらしい。なんせ、いち華は魔女であり、あと十年も経てば同世代たちとの変化に気付くだろう……。それを見越しての養子縁組であり事前的な処置だった。
やがて、いち華もその孤独や喪失感を体験することになる。育ての親を含めて自分の過去を知るものは誰一人としていなくなってしまうのだから。
そうなってしまった時、傍で寄り添えるのは魔女しかいなくなってしまう。
……だからこそ、成長する前に逸速く魔女の子供を回収する必要性があったのだ。魔女としての自覚を促し、彼女はこの世界での生きる術やルールを学ばねばならなかった。
そして、結子は書類を鞄にしまい丁寧に微笑みかける。
「……はい。それでは、これで全ての手続きは終了です」
しず江は、ホッと胸を撫で下ろす。「よかったぁ……。これであたしも、やっとひと安心できます」
そう云うと、しず江は結子に向かって左薬指の指輪を見せるだった。
「あらまっ!? ご結婚なされたのですかっ?」
しず江はやや恥ずかしそうに頷く。「あっ、相手は之彦さんじゃないですよ。あの人は、歳の離れた兄妹で幼馴染みたいなものですから……」
……とはいえ、かなりの急展開だった。結子は思わず婚約指輪を二度見してしまう。相手が誰なのか、色々と想像できてしまうだけに苦笑いを浮かべてしまった。婚約者はマーケット小池の店長あたりだろうか……。
あの異常なまでのモテ具合だったことから、羨ましい限り。そして誰がしず江のハートを射止めたことやら、結婚相手も選り取り見取りだったに違いない。
「この指輪なんですけどね。アヤメをモチーフにしたのですよ」
「……アヤメって? 花のでしょうか? それとも──」
「ええ、まあ。あたしが自分で勝手に選んだのですけどね?」
と、頬に手を充てて薬指に嵌めた指輪をうっとりと見つめる。
忘れていたが、しず江は初婚でもあったはず……。
一応、娘のいち華を一人育てあげてるだけあって、なんとサイクルの早いことか。例えば、結子の同級生に至っては、もう孫が出来てる人もいたりと。たとえ、同じ時間を過ごしていたとしても、展開されている「環世界」がまるで違うのだと、まざまざと実感してしまう。
続けて、しず江が嬉しそうに話す「これって〝アヤメさま〟のアヤメにも因んでいるのですけどね。花言葉もまた素敵なんですよ……」
「花言葉ですか? 申し訳ない、そういうの本当に疎くて」
これも結子らしいと云えば結子らしかったが、しず江もまた、花言葉に詳しいわけではなかった。偶々、店員に聴かされた蘊蓄話に過ぎない。加えて、最初から花に興味を抱くほどの知性や感性も持ち合わせてはいないのだ。
「……それで、なんだと思いますか?」
結子は察していたが、態と的外れな感じで云う。「そうですね……。長寿と繁栄とかでしょうか?」
「ふふふ、ちょっと惜しいかも」
と、しず江はゆっくり立ち上がり、財布から透かさず千円札を置く。
──「アヤメの花言葉は〝未来への展望〟です」
不思議と、しず江は嘯くように不敵に笑う。そして視線を少しだけ窓の外に向けて、踵を返したように席を後にするのだった。小走りで、その仕草は居ても立っても居られない……と、いった具合だ。ある種の解放感を伴い、この場から逃げ去る少女のように──。
いや、彼女にとっては未来に進んでいるだけなのかもしれない……。
懸命にその歩を進めるだけ。彼女の人生は彼女だけのものである。幸せに向かうその後ろ姿、結子が呆気に囚われてしまうほどに美しくみえたのだった。
咄嗟に千円札を手にして追おうとしたものの、既に雑踏の中に溶けこんでいる。仕方なさそうにしず江の背中を見送り、結子は小さなため息を漏らす。
そしてはしゃぐように横断歩道を渡ると、しず江は路側帯に待たせている白い車の助手席に乗り込む。此れから何処へ向かうのやら。何とも幸せそうな笑顔、運転席の男が車のウィンカーを出し、照れ臭そうに車を出す。
やがて大きな構造物の隙間にある首都高への入り口へと向かってゆく。それは天に向かって伸びてゆく幸福の階段のようにも思えた。二人を祝福し、果てしない未来へと運ぼうと云うのか。なんとも、羨ましい限り。
ただ、少し思い返してみれば、しず江もまだ三十路そこそこの女性だった。
彼女の人生はこれからで、いくらでもやり直せる年齢。結婚だけが幸せとは限らないが、再び今日から新しい人生のスタートを切るつもりなのだろう。
夏も本格的な到来を告げ、暑い季節もいよいよ本番となる。
素早く会計を済ませ、店で涼む暇なく外に出る結子。まだ今日の仕事が終わったわけではない。再び纏わり付いてくる不快な暑さと湿気。じっとしてても、徐々に汗ばんできそうだ。そんな心情とは裏腹に、空は吸い込まれそうになるほどに透き通ってみえた。正直、嫌味なほどに。
夏を謳歌するかの如く、青空を自由に回遊する鳥たち。真っ白に沸き立つ入道雲、青く澄み渡る空が絹糸のように煌めきながら視界いっぱいに広がった。
次第に加速してゆく夏色の風景……。
それでも街中を照りつける眩いばかりの日差しが降り注ぎ、咽せ返るような熱気を彷彿とさせた。これしきのことで、へこたれてはいられない。結子は太陽の暑さを拒むように、持ち帰ったアイスコーヒーを一口だけ喉に流し込む。
──そして、裏路地から心地よい
──ほんの一瞬だけ、夏の暑さを忘れさせた。
〈 リッチ・マリア 〝クラン〟 〉了
*祖母の「秋子」と 愛猫の「フギ」を偲んで。
リッチ・マリア〝クラン〟 重永東維 @vexled
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