第2話 雑音の主
この死ぬほど下手糞極まりない雑音の主はどこのどいつか。
ごくりと息を吞んで、俺はそっと音楽室のドアを開けた。
ふんわりと茜色が差し込んだ第一音楽室。黒板のすぐそばにある大きなグランドピアノに目をやると、かなり小さめのシルエットが目に付いた。
腰まで伸びた艶やかな黒髪が静かに揺れて、彼女は突然の来客に微塵も動揺することなく、ぱちりと俺の瞳を捉える。
小柄で華奢な体格。そしてこのミステリアスな無表情に浮かぶはちみつ色の大きな瞳。
「あなた、誰?」
「あぁ、えっと……B組の、飯島——飯島圭太」
「そう。私、C組」
「
「知ってるのね。へんなの」
「はは……」
——俺は彼女、藤村結を知っている。
俺はというか、大体みんな知っている。
藤村は二年ではそこそこ有名人なのだ。理由は至ってシンプル。藤村はかなりの変人であるからだ。
まず、たまに猫を抱いて登校してくる。はい、この時点でかなりおかしいね。
これは噂なのだが、本人いわく、なんでもかんでも拾う癖があるのだとか。
校門で待ち構えている生活指導の先生に、通学路で猫を拾いました、と淡々と言い放つらしい。そこでなぜ学校に連れてくるのか。不思議で仕方がない。
そして、とにかく無表情。感情が薄いタイプの人間なのだろうか。ここだけ見れば音楽家にはかなり向いていないタイプの人間である。
常に周囲とは違うオーラを放っているため、同級生たちはとっつきづらくて仕方がないのだという。藤村自身もそもそも人間に興味が無さそうなので、いつも一人だ。
好き好んで孤立している、というようにも見て取れる。今時珍しい女子だ。
あとはまぁ、これは一部で盛り上がっている話なのだが、藤村は小さくて可愛いと評判である。あくまで一部でだが。俺は違うぞ、とここで一度しっかりと主張しておきたいところではあるのだが。
「めちゃめちゃかわいいな……」
「けーた、何か言った?」
「へ? あ、いやいや! なんでもない!」
「そう」
ぎーこぎーこ。
うっかり口が滑ってしまった。
しょうがない。近くで見たらマジで美少女なんだから。フィギュアみたいだ。
つーかこいつ、初見で下の名前で呼ぶのかよ。すげぇ対人スキル持ってんな。
スキルというか、最早特殊能力のレベルだな。思春期とかあんのかなこいつ。無さそうだな。
——ぎーこぎーこ。
にしてもへったくせぇ。
俺が予想してた通り、藤村のバイオリンの構え方はかなりいびつなものだった。
というかよくそんな持ち方できるな、と逆に尊敬してしまう。
なんてまじまじといびつな藤村をガン見していると、藤村がまた演奏を止めてこちらを向いた。
「けーた、バイオリン弾けるの?」
「お、俺? 弾けないけど……」
女の子に下の名前で呼ばれるとか、いつぶりだろう。微妙にむず痒くて困るのだが。
「じゃあ何しに来たの?」
謎にもじもじ視線を泳がせている俺を、藤村が問い詰める。
ほんと、何しに来たんだろうな俺。
まぁでも、正直に答えるなら、一つだけだ。
「……聴きたかったから」
嘘じゃない。本気だ。俺の本心だ。正直に答えたい気分なのだ、今は。
「そう」
たった一言、藤村が返す。
そしてまた何事も無かったかのように、ぎっぎこぎっぎこ。
「なぁ藤村、一個だけ聞いてもいいか?」
「なに?」
「その、言いづらいんだが、曲名は何だ」
先ほどから藤村が弾いている、もとい弾こうとしているその曲は何なのか。そもそも曲なのかという話にもなってくるし、もっと言えば『その音は何の音?』レベルだが。
「カノン。有名なやつよ。けーたは知らないの?」
「あ、あぁ! カノンねカノン! 知ってる知ってるー!」
聞いたことねぇよそんな地獄の旋律みたいなカノン。ヨハン・パッヘルベル大先生に土下座をしてくれ。そうじゃなきゃ俺の気が済まない。
——なんて、口では言えても。
「……ちょっとここで、聴いててもいいか」
「どうぞお好きに」
顔色一つ変えずに即答し、藤村は演奏を再開させた。
このどうしよもなく下手糞で耳障りなカノンに、俺は一瞬で心を鷲掴みされ、挙句の果てには涙の栓までこじ開けられてしまったのだ。
理由はよくわからない。
どうして急にあんな夢を見たのかも。
そしてその夢の続きが見たいから、俺は今この場所にいるのだと思う。
この音が、藤村がそれを見せてくれる気がするから。
根拠はないが、そんな気がするのだ。
けれども、やはりその謎の拳法みたいな構え方。それは辞めた方がいいぞ藤村。
ぎーこぎーこ。ぎこっ。
「あの、藤村。ちょっといいか」
俺が呼び止めると、演奏は止んだ。
「持ち方、それじゃああまりいい音が鳴らない」
おせっかいだとは知っているが、見ていると言わずにはいられなかった。
「けーた、知ってるの?」
ここで初めて、藤村の瞳が少し大きく瞬いた。興味があるのだろうか。
「まぁ、それぐらいなら。ってか持ち方ぐらい、ネットで調べれば出てくるだろ」
「私、スマホもパソコンもラジオも持ってないわ」
「……あぁ、なるほど」
興味無さそうだもんな。イン〇タとか。
っていやいや、普通それぐらい誰でも持ってるだろ。まぁ藤村がいいならそれでいいけど。
あとラジオは俺も持ってねーぞ。
「ちょっとそれ貸してくれ、見本やってみるから」
バットでも持つみたいに、藤村がバイオリンを差し出してくる。バイオリンが可哀想。まじで可哀想。
受け取り、俺は一度見本として構えてみる。
年季の入った木の匂いが鼻に着いた。なんだか懐かしい。この独特な楽器ケースの香りも、あの頃を思い出す。
脳裏に浮かんだのは、スポットライトを独り占めした小さな天才の横顔。
踊るように、舞う様に、音に魂を乗せる音波の姿。
——なんで死んじまったんだよ、音波。
記憶を振り払うように、俺は藤村に視線を移す。
「まず、両足は肩幅。楽器は左肩甲骨の少し下の部分と左顎の間に挟むように構える」
「うんうん」
「そんで弓。まず右手を身体の前でだらんとさげて、親指の第一関節を軽く曲げる。そして中指の第一関節を近くに寄せる」
「うん……うん」
「やってみる方が早い。ほれ」
バイオリンを返すと、藤村が早速実践に取り掛かる。
「そう。そんな感じ。肩の力はちゃんと抜けてるか? 力むとダメだぞ」
正面から見た感じ、少し窮屈そうだった。
「少し窮屈だわ」
「形はそのままで、少し位置を微調整して楽なポジションを探ってみるといい。無理に顎と肩で支えようとすると余計な力が入る」
「……こう? こんな感じ?」
さっきよりもやや楽そうに構える藤村。ようやくバイオリンを持ってる感が出てきた。
まだぎこちないが、最初はこんなものだろう。肝心なのは音だ。
「そのまま弓を置いて、ゆっくり弾いてみろ」
多分、これでさっきよりは少しはまともな音が出るはずだ。
俺の合図で、藤村がそっと目を閉じ、ゆっくりと右手を動かす。
……~♪
弾いた弦が一番細い弦だったのは、恐らくただの偶然だろう。
けれどもそれは、さっきまでの雑音とはまるで違う。
森の奥深くに木霊した、金糸雀のさえずりのようなもので。
「わぁ……」
藤村の瞳が、一段と大きく瞬いた。
「D.C.」って、なに? 亜咲 @a_saki
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