「D.C.」って、なに?

亜咲

第1話 前奏曲

「私は世界一のバイオリニスト。そんでけーちゃんは、世界一のピアニスト!」

 

 ——またそんな大げさな。

 病室の真っ白なベッドの上。儚げな笑顔で幼馴染の音波おとはがそんな大それたことを言った。


「……」


 こんな時、俺は何て言ってやったっけ。

 大げさだろ。そんなの無理だ。無茶だ。お前はともかく、俺には絶対無理だ。

 出てくる言葉のそれぞれが断定的なものばかりなのは、どうしてなのか。

まるで全てを知ったような、見てきたような、そんな気分だ。

実際無理だったんだから。とも言ってしまいたくなるのは、どうしてなのか。

まだ小4、10歳なのに。目の前のこいつぐらいにビッグマウスなぐらいがちょうどいいはずなのに。

 ふわり。窓の隙間から入り込んだ風が、一瞬だけ大きく病室のカーテンを揺らす。

 俺の頬をさらりと撫でて、視界が遮られた。

 この病室に来たのは何度めか、もう憶えていない。

 音波がバイオリンを弾けなくなって、俺がピアノを弾く理由がなくなって、数カ月が過ぎた。

 ——いや、もっと過ぎた。

 ふわり。風が止んで、カーテンが俺の視界からいなくなる。

 今さっき、俺以外のやつが聞いたら鼻で笑うような、そんなばかでかい夢を語った音波もどこかへ消えてしまっていた。

 目の前には何もない、奇麗に整えられた白いベッド。

 不思議と違和感はない。

 音波がいない世界が、まるで俺にとって当たり前になってしまったような感覚。

 どうせこんなのは悪い夢だ。そうにちがいない。

 そんなことはわかっているはずなのに、どうしてこんなにも暖かくて、心地良いのか。

 願わくば、ずっとここにいたい。


 この夢の中で、もう一度音波が目の前に現れてくれるまで、ここで寝ていたい。



 *



「——と……は」


 寒い。

 どうやら寝ていたらしい。それも放課後、帰宅せず、教室で。

 昨日の夜、遅くまでゲームをしていたせいだ。言うまでもない。

 ぐっと伸びをして、ちらりと窓の向こうを見やる。


「奇麗なもんだな……」


 柄にもなくそう呟いてしまうほど、今日の夕日は見事なものだ。

 大きなオレンジの丸が、ずっと遠くでやわらかに燃えている。

 まだ4月ということもあってか、これだけ立派な夕日を拝める時間ともなればワイシャツ一枚じゃ肌寒い。

 ぶるっと身体が震えて、椅子に掛けてあったブレザーを羽織る。

 ブレザーのポケットに手を伸ばし、スマホを取り出す。

 18時。現在時刻が表示された。


「まじか」


 授業が終わったのは15時30分。ざっと二時間は寝ている。さすがに寝すぎだ。

 だというのに、欠伸が出た。

 これは帰宅してからもすぐに布団に潜り込んで、夜中目を覚まして朝まで眠れなくなるというパターンな気がする。

 そんで明日も寝不足、と。

 おいおい飯島圭太17歳——まじめにやれ。


 机にかけていたカバンを取って、俺は気だるげに教室を出た。

 廊下の空気はもっと冷たくて、凝り固まった体の重さも相まって、これから外に出るのかと思うと億劫で仕方が無い。

 そんなことを考えつつも一歩一歩歩みを進めていたわけだが、なんとなく立ち止まってしまった。

 寄り道をしたかったからでも、寒くて外に出たくなかったからでもない。


 ギィ~……。ギギィ~。


「へったくせぇ」


 ——バイオリンの音が聞こえたからだ。


 ド下手すぎて聞いていられない。

 最早雑音。耳障りでしかないと言っていい。

 なら無視して帰ればいいだろと、きっと世界はそういうだろう。

 まずそもそも、放課後の夕方、なんで学校でバイオリンなんか弾いてるやつがいるのか。その時点でちょっとおかしい。

 うちの学校には吹奏楽部と合唱部はあれど、オーケストラ部なんか無かったはずだ。

 趣味なら家でやればいい。わざわざ学校に持ってくるな。

 弾けるならまだしも、こんなのは素人も素人。今初めてバイオリン触りました、みたいな音だ。

 音色のなっていない。ボーイングの角度、力の入れ具合、弦の抑え方、そもそも楽器の構え方、全てにおいてめちゃくちゃに違いない。見なくてもわかる。こりゃひどい。

 だというのに


「……っ……はぁ」


 どうして俺は泣いているんだろうか。


 ぼろぼろと大粒の涙が流れ落ちて、視界はじんわりと滲んでいく。

 なんだか微妙に、息苦しい。


 さっき変な夢を見ていたのも、恐らくこいつのせいだろう。

 このどうしようもなくへたくそなバイオリンの音のせいだと思う。

 7年前、幼馴染が死んだ。名前は沢城音波。俺と同い年で、生きていたら、今年の6月で17歳だった。

 生まれつき心臓に病を抱えていて、生きながらえても10歳が限界。

 その事実を知ったのは、俺と音波が9歳を迎えた頃。

 音波がバイオリンを弾いて、俺がその伴奏のピアニストをやっていた頃。

 二人で立った最後のコンクールでは最優秀賞を受賞した。

 そうして俺たちは神童コンビとしてメディアに取り上げられ、それからの将来に期待されていた。

 まだまだこれからだった。

 夢の中で音波が言っていた通り、俺たちは二人で世界一になることをずっと夢見ていた。

 でも無理だった。

 音波は死んだ。

 俺だけの世界一のバイオリニストは、もういない。

 その伴奏ができないなら、俺がピアノを弾く理由なんてもうない。

 なのに今更あんな夢を見るなんて。


 ぎこ、ぎこ、ぎぎぎ。


 どこぞの誰かの雑音が相変わらずうるさい。

 音波が初めてバイオリンを持った時よりも、断然酷い。今考えても、あいつは本物の天才だった。


 それなのに懐かしくて、温かくて、どうしようもなく心地が良い。

 夢の続きを見せられているかのようで、ここから動く気にはなれない。

 それどころか、俺は気付けば音のする方へと向かっていた。

 身体が、勝手に動いた。


 階段を上がって、3階。雑音は近づいた。多分第一音楽室だろう。

 濡れた頬を袖で拭いながら、導かれるように廊下を闊歩する。


 そうして、音楽室の扉の前にたどり着いた。

 

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