第10話 金閣は赫奕たり

 鹿苑寺ろくおんじは人が少なかった。特に、観光客らしき者はほとんどいなかった。最も見るべき建物がないのだから至極しごく当然のことである。警戒すべき人間の少ないことに、粍野みりのは僅かに安堵した。


 資材置き場の近くで、彼はひたすらうろついていた。人のいない瞬間を見計らっていたのである。短期間で建てた計画は詳細を詰めることができず、緻密とは程遠いものになった。けれどそれは確実に実行されなければならなかった。一年前の火災の後、防火体制が強化されていることは疑いようがなく、この上今日失敗したとなれば、再度の放火は実質的に不可能となってしまう。すなわち放火に「次」はなく、此度こたびで成功させなければまやかしの金閣を止める機会は永遠に失われてしまう。挙動不審と見えるほど粍野が神経質になっていたのも、無理からぬことである。


 完全に誰一人いなくなる瞬間を、粍野はひたすら待ち続けた。雲が行き、日が降下を始めても鏡湖池きょうこちのほとりに佇んでいた。自分は庭園の新たな石になったのではないか。そんな心持ちがし始めた頃、誰かが急に呼びかけた。


「あなた、随分見てますねぇ」


 何気ない風に呼びかけたその人間は、服装から明らかに鹿苑寺の者であった。閉門の時刻を迎え、巡回に来たのであろう。二人一組で現れた彼らは、一見にこやかに装ってはいるが、細い目から射す眼光は鋭く、既に何かを探ろうとしていることが粍野にも容易に察せられた。彼は一瞬ひるんだが、努めて冷静に振舞おうとした。けれど彼の返答より早く、次の問が投げかけられた。

「さっき駅前で喋ってた方ですね? 金閣の再建に、何やら大層ご立派なお考えをお持ちとか……」

 あの場にも、確かに演説を聞いた者がいたのだ。であればこれから自分が何をしようとしているか、恐らく露見している。一旦逃げなければならぬ。瞬時にそう判断した粍野は、彼らが遮っていない方へ走り出した。「順路」とある看板の真逆の方へ駆けた。順番などどうでも良い。気にしている場合ではない。


 けれど、逃亡は惨めな失敗に終わった。数メートルも行かぬうちに二人に腕を掴まれ、身動きが取れなくなったのである。学内を少し走っただけで一日の運動可能量を使い果たす程度の蜻蛉かげろうの如き生体である彼にとっては、夏の午後に大声で演説した時点で既に命の危機に瀕していたのである。この上砂利道を全力疾走する余裕など、あるはずもなかった。彼が不審な人物であることは確定的となり、たちまち背中の荷物が調べられた。中からは燐寸マッチ、檄文、その他木材や簡単な工具など、計画の裏付けとなる物品が露わになった。

 かくして、ただ一人の大義を持った粍野の目論見は、脆くも崩れ去ったのであった。


 両腕を押さえられ、彼は寺務所へ引張られていった。目的を達成し得ないことが明確になった今、彼は何もない伽藍堂がらんどうになってしまった。砂利の鳴く音さえ聞こえなくなってしまった。


 寺務所への道すがら、ふと、もう一度金閣を見たいと思った。なぜであろうか。彼は、自身がこの次来ることはないと考えていた。新しい金閣が建ったとして、どうせ偽物である。見る価値はなく、能動的に見に来ることは金閣に対する冒涜ぼうとくであると考えていたのである。何もなくとも今日この時が生涯最後であるから、もう一目見ておこうというのである。

 振り返ったとて何もないはずの所へ、粍野は体を向けた。


 その瞬間、彼の目には、尺貫法で建てられた鹿苑寺金閣が、赫奕かくやくと映った。庭園は夏の夕方の日を浴びて、しんとしていた。……

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五十七フィート四インチの金閣寺 べてぃ @he_tasu_dakuten

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