CRIME

海月ゆき

CRIME

 誰も知らない街が、確かにそこには存在する。

 全世界の人々に忘れ去られた、地図にも載っていない街――クライム。


 あたしは何かの間違いで、ここに居る。




 あたしは今日、家族で旅行に行っているはずだった。だけど車から降りた瞬間、車の中からみた風景とは全く違う景色が目の前に広がっていたのだ。


「……何これ……お父さん、お母さん? ……どこ!?」


 叫んでも返事はなく、ただ風が虚しく道の砂をさらさらと運んでいくだけ。

 後ろを振り向くと、身の丈ほどの標識が立っていた。外国の標識のようにいくつかの矢印が掛けられている。そのほとんどが朽ちて腐りかけていたが、その中で辛うじて読める矢印を見つけた。


≪ C R I M E ≫


「クライム?」


(そんな街、知らない)


 疑問に思いつつ、あたしはとにかくそこへ行ってみようとバックを肩に掛け、歩き出した。



 その街は、一言で言えば寂れた街だった。ほとんどが街の機能を果たしていないだろうと思われた。


(……変な臭いがする)


 あたしは顔を顰めた。今は昼間のはずなのにどこか薄暗い。時折見かける人たちの目は生気はなく、ちらちらとこちらを盗み見ているのは気のせいか。

 居心地が悪くて、あたしは出来るだけ足早に歩いた。


 いくつの角を曲がったのか、もう覚えていない。その途中であたしは微かな呻き声を耳にした。辿るとそれは建物の陰から聞こえてくるようだ。

 覗いてみると、一組の男女が情事を貪っている姿が見えた。


(うそ……こんな所で……)


 顔が赤くなる。しかし目は釘付けになって動かない。

 その間にも情事は激しさを増しているようだった。女が高い嬌声を上げると男は動きを止めた。荒い呼吸がこちらまで聞こえてくるようだ。お互い何かを言い合っていたが、男はまた動き始めた。再び聞こえ始めた嬌声。


 あたしはその光景から無理矢理目を剥がして、その場を後にした。

 ああいうのを目の当たりにしたのは初めてだったあたしは、少なからずショックを受けていた。



「――――お嬢ちゃん、一人か?」


 不意に声をかけられた。たむろしている男たちの横を通り過ぎようとしていた所だった。


「え? そうだけど……」


 突然だったので、つい足を止めて返事をしてしまった。しまった、と思っても後の祭り。声をかけた男はくつくつと不気味に笑ってあたしに近付いてくる。あたしはじりじりと後退りをした。


「あかんなァお嬢ちゃん、早よお家帰り? ……その荷物を置いてな」


 刃物を突きつけられる。鈍く光る刃先があたしに向けられているのだ。あたしは恐ろしさに足が竦んでしまった――その時。


「止めろ」


 低く鋭い声と共に、先ほどまで刃物をあたしに向けた男が今度は青い顔をして固まっていた。

 ギロリ、と背後の男を睨みつける。


「テメェ……!」

「……止めるんだ、ショウ」


 ショウと呼んだ男の頭に銃口を押し付け、その男は静かな声で繰り返した。男は舌打ちして刃物をあたしから引く。それを見るともう一人の男も銃を懐の中に仕舞い込んだ。


「獲物横取りしやがって」

「そう言うな。これをやる」


 男は酒瓶を刃物の男の前にちらつかせる。刃物の男は鼻で笑って、半ば奪い取るようにその酒瓶を受け取った。


「足んねェよ」


 男も口端を歪めて笑うと、不意にあたしの方に視線を向けた。


「こっちだ」


 それだけ言うと、踵を返してその男は歩き出す。あたしはついていくべきか迷った。だけど此処には居たくない。慌ててその男の後についていった。

 刃物の男からの視線が妙に気持ち悪い。くつくつと笑う男たちの前を足早に通り過ぎた。



「あの……さっきはありがとうございました」


 まもなく表の道に出た。あたしは先行く男に頭を下げた。一応助けてもらったのだからお礼をするのが礼儀というものだ。

 男は振り返ると、先程とは打って変わって和らいだ顔つきをしていた。


「とりあえず無事で良かった。俺はタクマ。君は?」

刹那せつなといいます」

「刹那ちゃんだね。よろしく」

「あ……よろしくお願いします」


 どうやらこの人は思ったよりも悪い人じゃなさそうだ。あたしはそう判断すると、思い切って尋ねてみた。


「あの、これからどこへ行くんですか?」


するとタクマはクイ、と親指で後方の建物を示した。


「安全な建物の中だ」



 そこは酒場のような、バーのようなお店だった。聞いた事のない曲が耳障りな音を立てて店内を満たしている。棚には割れた酒瓶が陳列しており、その前には曇ったコップが転々と置かれた、傷だらけのカウンター席がある。

 タクマはそれらには目もくれずに奥の部屋へと進んでゆく。


 ふと、あたしは床に転がっている酒瓶に埋まるようにして座り込んでいる人が目に入った。自然、足が止まる。

 微動だにしないその人の横には猫が横たわって死んでいる。その人は時々思い出したように猫を撫でていた。


「あの人……大丈夫なのかな……」

「ああ、まだ生きているなら問題ないよ」


 タクマは軽く一瞥するだけ、何事もなかった顔でドアの前へ立ち止まった。あたしはその物言いに引っ掛かったが、このドアの先への興味が勝ってしまっていた。


 タクマはドアを数回ノックするとドアを開けた。何の変哲もない、ただの殺風景な部屋。

 しかし注射器や空の小さな包み紙がテーブルや床に沢山散らばっている。それに縋るようにして男女が二人、何かを必死に探したりぐったりしていた。

 タクマを見るや否や、一人がおぼつかない足取りで近付いてきた。その腕にはいくつもの注射跡。


「あらタクマァ、結構早かったじゃないの」

「あまり手に入らなかったがな」

「いやねぇ、今度来るときはもっと沢山頂戴って言ったのに」

「ところでセイヤの様子は?」

「知らないわよぉ、めちゃくちゃラリってたけど、さっき突然動かなくなったみたいだし。――――ねェ、薬頂戴?」


タクマは薄く笑うと、懐から小さな包みを取り出して、床にばら撒いた。女は目の色を変えてそれらを拾い始めた。



 ……何、この異常な光景は。何、この異常な会話は!?


 ひょっとしてこの人も危険な人なのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎったが、今、タクマに見限られるとあたしはどこへ行ったらいいのか分からない。

 にっちもさっちも行かずただ立ち尽くしていると、回収し終えた女が包みを開けたその時に――目が合った。


「アンタもヤル?」


 あたしが固まっていると、女はすぐにあたしに興味を失い、手元の薬を吟味し始めた。たちまち恍惚とした表情を浮かべ、訳の分からないことを口走ったり笑い出す。

 どうしたらいいのか分からないあたしはタクマを呼ぼうとし――銃声でかき消された。

 耳を劈く音に続いて、人の倒れる音が耳に届く。血溜りが広がる、さっきまで生きていた人の手からタクマは銃を抜き取った。


「……今、何したの?」

「ただ、こいつに俺の銃を貸しただけだよ。こいつは自分で自分を殺したのさ」


 震えるあたしの声と対照的に冷静な、タクマの声。


 今、はっきりと分かった。この人は危険だ。

 早く逃げなければ――!!



あたしは身を翻して、この場所から、タクマから離れようと走った。


「――――!!」


 後ろからタクマの声が聞こえたけど、無視した。

建物を出て、どちらに行こうか少しだけ躊躇う。しかし追いかけてきている気配がして、咄嗟に狭い路地の方を選んだ。

 それからは懸命に走った。出来るだけ遠く、あの狂った人から遠く。



「……行き止まり……」


 息が切れ、壁に凭れかかる。流石にここまでは追いかけては来ないだろう。そう思い、逃げてきた方向に目を遣る。


「――――う、そ……」


 居た、のだ。そこに。何事もなかったかのように、平然と。

 タクマは一歩、足を踏み出した。


「いきなりどうしたんだ、刹那ちゃん? 俺から離れたら危険だろ」


 また一歩。

 あたしはタクマの纏う雰囲気とは裏腹なその明るい声色が怖ろしかった。にじり寄るタクマに、自然と後ずさりしていた。


「さぁ、戻ろう?」


 コツ、と踵が壁に当たるのとタクマが手を差し伸べるのがほぼ同時。伸べられた手を見つめた。


 ……戻る?あの異常な場所へ?


 先程の部屋での出来事を思い出す。

 薬、それに魅入られた人、銃、血溜まり、動かない人――――!


「いやよ、この人殺し!!」


 その手を跳ね除け、タクマに向かって叫ぶ。叫んで、あたしは見てしまった。――彼の瞳に暗澹とした光が宿っているのを。


「……では、無理にでも連れて行くか」


 言うなり、タクマはあたしの腕を掴み、引き寄せたかと思うと――横の壁に思いっきり叩き付けた。

 顔を強かに打ち、肩が悲鳴を上げた。弾みでバックが地面に転がる。呼吸を求めて顔を僅かにずらした所へ、後ろから胸を乱暴に鷲掴みされた。


「痛っ! 何するの!?」

「折角だし楽しもうと思ってな」


 タクマの声が耳元で聞こえた。生ぬるい息がかかり、ざわり、と体中総毛立つ。密着したタクマの体は熱を持ち、指が這う度に自分の体もだんだん熱が帯びているのが分かる。ただ体を揺すられ、痛みと熱さに支配され、もう何も考えられなかった。


 肌寒さに意識が戻され、あたしは目を開けた。見えたのは、素っ気のない壁と濁った空だけ。……タクマはいなかった。

 あの建物に連れて行かれなかった事にまず安堵し、そして腰の鈍い痛みを思い出した。裏切りも信用も何もそれ以前に、あたしは都合の良いカモなだけだったのだ。

 その証拠に、あたしのバッグはなくなっていた。


 何で私がこんな目に遭わなくちゃいけないの?

 どうしてあたしだけ……!


 しばらくこみ上げる嗚咽に任せていたが、お腹が空腹を訴え始めた。そういえば何も食べてない。のろのろと起き上がると、食べ物を求めて歩き出した。

 ……だけど、何か変だ。世界が回っている。視点が定まらない。そのくせ体は妙に軽くて、ふわふわと浮いているような感覚が付きまとう。

 その初めての感覚が楽しくて先程の失望感はどこへやら、怪しげな足取りで当てもなく歩いていると、フェンスが見えてきた。鍵は掛かっていない。

あたしはふらりとそのフェンスの向こう側へと足を踏み入れた。



 そこは食べ物の宝庫だった。果物が沢山入った箱が灰色のアスファルトの上に沢山積まれていたのだ。一部は崩れて中身があちこちに散らばっているものもある。


 あたしは一番手前の箱を開けてみた。その中には、林檎が入っていた。まだ青いもの、熟れているもの、大小様々だ。

 真っ赤に熟れた林檎をひとつ手に取ると一口、口に含んでみた。甘酸っぱく爽やかな味が広がる。果汁が滴り落ちるのも構わず、あたしは無我夢中で食べた。

 幾つか平らげると林檎に飽き、別の箱へと視線をさ迷わせていると、いつの間にいたのか箱の一山向こうの少年と目が合った。


「あなたもお腹が空いたんですね」


 その少年は果物を片手に、無邪気な笑顔を浮かべてあたしの方へと近付いてきた。

 あなたも、ということはこの少年もお腹が空いてここまで来たのだろうか。


「こんな所に林檎とか沢山あるから助かったよ」

「……林檎、ですか?」

「うん。色々種類があるみたいだから、次は何を食べようかなって思って」

「それは林檎ではありませんよ。……よく見て下さい」


(林檎じゃない?)


 それは――死体、だった。今まで箱だと思っていたのは人間の死体で。林檎だと思って食べていたのは、つまり――――


 なんてこと!

 あたしは人として取り返しのつかない事をしてしまったわ…!


 しかし食べた時の、あの味はどうしても人間のものとは思えなかった。そしてこの少年は“それ”と知っていて食べているのだろうか。


「どうして君は、平気な顔で食べていられるの……?」


 少年は困ったように笑った。


「食べないと死んでしまいますから」

「そう……」


 正論だ。しかし共喰いなど、倫理に反する行為。へなへなと、その場にへたり込んだ。この街のどこにも、正常なものなんてないのだ。

 あたしの目の前で少年はちょこんと座った。


「あなた、この街の人じゃありませんよね?」

「……どうして」

「僕、ずっとこの街に住んでいるから分かるんです。時々迷い込んでくるんですよ、あなたみたいな人が」

「それなら、帰る方法を教えて……!」


 少年は目を伏せて、悲しそうに首を振るのみ。


「そんな……」


 このまま、一生ここで暮らしていかなければならないのか。狂っているこの街で、死ぬまでずっと。

 暫く嗚咽を黙って聞いていた少年が、静かに口を開いた。


「あなたが何をされたのか、あなたの腕を見れば大体分かります。多分、ひとりでいたらまた同じ目に、いえ、もっとひどい事をされるでしょう」

「じゃあどうすればいいの? あたし、他に行くアテなんてない……っ」


 知らない場所で、ひとりぼっち。


「あなたが良ければ、ですけど……僕と一緒に行動しませんか?」


 思わぬ申し出にあたしはまじまじとその少年の顔を見つめた。

 一緒に、行動する。その申し出を信じてもいいのだろうか。……また裏切られはしないだろうか。

 警戒を感じ取ったのか、少年は首を竦めた。


「僕だって行くアテなんてありませんよ。それはこの街の誰もがそうだと思うんです。でもどうにか生き延びなきゃいけない。僕も明日生きていられるか分からない。一人でいるより二人の方が、生き延びる確率は高くなります。……勿論、無理にとは言いませんけど」


 利用じゃなく、共に生きる方法を見つける。少年はそう言っているのだ。


「……分かったわ。あたしは刹那。あなたは?」

「僕はノエルといいます」


ノエルは笑顔をあたしに向けると、周りを見渡した。


「そろそろ行きましょう。ここも安全な場所とは言い切れませんから」

「そうね」


 立ち上がり、“果実”を跨いで歩き出す。どこへ行くかなんて知らない。ただ、生き延びる為には前へ進むしかないのだ。


 ……大丈夫、今のあたしにはノエルがいる。ひとりじゃない。

 生きて、いつか絶対家へ帰ろう。


 いつか、きっと。

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CRIME 海月ゆき @yuki_kureha36

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