ポルノグラフ

 スマートフォンの画面をつうと指でなぞる。寒風に苛まれた指先に、液晶はほのかにあたたかい。常と変わらず、知人らのくだらない愚痴で構成されたタイムラインをさかのぼる。退屈な日常のなかで、ひとつビビッドな画像が目についた。

 薄暗くて画質の悪い写真だ。しかしながら、その映されたものはハッキリと分かる。暗がりの中でぬらりと、爬虫類の腹のように艶めいて光る青じろい肌だ。青光りするほどの見事な黒髪を敷いているから、いっそう白じろとしてみえる。身体が仰反るかたちになっているから、肋がそのかたちのままに肉を隆起させている。若々しさの漲った胸元と、その顔を隠すように持ち上げられた手はピースサインをつくっている。長く伸ばされた、しかしその先はまるく整えられた女爪だ。白……あるいはシルバーだろう。わずかな光を反射して光る。そのピースサインのしたで、小作りだがまるみを帯びた鼻がやや潰れている。ふっくらとした唇はいかにも好色そうに弧を描いていた。まだらな珊瑚いろをして、そのまわりまで朱い。情事の残滓だろう。唇の右下に、ちいさなほくろがある。目元こそ窺い知れないが、それでもその顔だちはあまりにあらわだった。彼女を見たことのある人間はすぐそれが彼女だとわかるだろう。わたしはだまって液晶をなぞる。いや。彼女の写真はタイムラインを流れていく。

 つう、指はしかしもう一度、先ほどとは逆向きに滑らされる。彼女の裸体がもういちど液晶に映し出される。写真を、保存。タップ。栄養状態のわるさを反映した白く乾いた素爪が、音もなく動くのを無責任に眺めている。


 漸く教室に着いて、空いた席に着く。授業開始前の教室は騒がしい。わたしはルーズリーフとペンケースを机上に取り出す。不意に声をかけられる。

「おはよう。ここ、大丈夫?」

写真の女だった。

 ながい黒髪をゆるやかに巻いて、胸元へと垂らしている。きょうは深紅に塗られた唇が動くたび、それに合わせて唇右下のほくろも動いた。

「あ、うん。おはよ。」

日に当たったことが一度もないのだと言わんばかりの真白い頬が、わたしの左隣にならぶ。卵型の顔には先ほど見た写真のままの鼻と口が配置されている。唇は血のように赤く、ぬめぬめと輝いている。やや分厚いそれは彼女の皮膚の内側の、肉の熱さを思わせた。まぶたも睫毛も重たげで、ややねむたげな目をしているけれども、しかし印象が強いのは、その瞳のくろさと、大きさのせいだろう。黒目がちな目は、どこにその視線を向けているのかが分かりにくく、すこし不気味ですらあった。

「なあに、こっち見て。」

「なんでもないよ。」

彼女がそう言うや否や、教員が緩慢な足取りで教室へと入ってくる。初老の、ひどい猫背の男だ。教育など本意ではないのだろう、いかにも気のなさげな彼は、授業内容も試験問題も数年はおなじものを使いまわしていると聞く。すでに試験の過去問題が出回っているものだから、授業中の学生は大抵が上の空だったりいわゆる内職をしたりしている。わたしも彼の単調な話に頬杖をつく。ふと隣に目をやると、彼女のシルバーの爪が、ルーズリーフの下でスマートフォンの画面をなぞるのが見えた。肉づきが悪いわけではないけれど、苦労を知らないからそうなのだと見える、節のないすんなりとした細さの手だ。不まじめなしぐさすらどこか品があるように感じられる。

「どうしたの。」

ひそめられた彼女の声が耳朶をくすぐった。悲鳴が出そうになる。蒸気にあたったみたいに頭がぼうっと熱くなる。ちいさくかぶりを振る。


 その瞬間にスマートフォンが震えた。わたしは反射的に画面に指を滑らせて、ロックを解除する。そこで表示されたのは、彼女の写真である。その白い裸身は惜しげもなく曝け出されている。彼女はその腕のむこうから、レンズをとおしてわたしを眺めている。彼女はわたしの左隣から、その視界にわたしのスマートフォンの画面を収めながら、わたしを眺めている。

 ふうん。

 彼女は得心がいったように小さく息を吐いて、再度「どうしたの。」と言った。もはや問いではないのだとわたしは思った。その口調は尻上がりで、質問の体をなしてはいるけれど、彼女はわたしが「どうした」のかを、きっと完全にわかっていたし、それを隠す素振りも微塵もなかった。それは確認だった。

 深紅の唇のふくらみ、その中心部に蛍光灯の白い光が溜まっている。


 授業終了のチャイムが鳴るやいなや、彼女はわたしの手を引いた。教員が何やら喋っている気がするけれど、彼女の声ばかりがわたしの頭を占めている。

「お昼、いっしょに食べよ。」

耳元をぬるく空気が動く。彼女の表情が、動きが、吐息が、言葉が、不可思議な強制力をもっていた。きっとわたしがそう望んでいるからなのだろう。すぐに振り解ける。若い女の細腕である。わたしは返答のつもりになさけない声を出して首肯する。彼女はにっこりと笑った。唇はその皺が伸ばされて、紅い静かな湖みたいだった。

 昼休みの学生食堂は混みあっていて、彼女はわたしの隣に座った。申し訳ていどにネギが乗せられただけの、一番安価なかけそばを頼むと、彼女もおなじくそれを頼んだ。彼女は何も言わないで、静かにそばを啜っていた。器を褐色のつゆのみにすると、彼女は

「学食でかけそばって、初めて食べた。」

と言って笑った。笑いかたは思いのほか子供らしく、細められて目はほとんどが睫毛と瞳によってくろく塗りつぶされたようになった。歯並びがきれいなのがなんだか無性に腹立たしかった。歯並びのきれいな人間というのは、それにかんして遺伝的にすぐれているか、共生のできる経済力のある家庭に生まれたかだと思っている。だからだろう。一本残らず抜き去ってしまって、手を差し込む妄想なんかをした。一番先に彼女の口腔にはいるのは中指である。それは、彼女の胎内と同じにじっとりと濡れて温かい。唾液が指に絡みつく。わたしの手は徐々に彼女に飲み込まれていく。誘引されるように、その喉の奥へ。彼女はえずくけれども、噛みつく歯をもたない。咳き込むように喉が動く。苦しそうな息をする。彼女の瞳は淫靡にひかって、わたしを映す。幾度目かの咳き込みにあわせて、粘っこい唾液が彼女のちいさな顎を伝っていく。

「レズなの?」

唐突な問いにわたしは咳き込んだ。

「……、え、っと、あんまり、そういうの、わかんなくて。」

ええと。なるべくわたしの思うところを正しく表現できるように、言葉を探す。その場しのぎに適当なことを言っても、それが彼女にはわかられてしまう気がしたからだ。彼女は頬杖をついて、わたしの言葉を待っている。

「そもそも恋ってなんなのか、わかんなくって……。」

ようやく口に出されたそれだけの言葉に、彼女はふむと息を吐く。

「だけれど欲情はする。そういうこと?」

直截的な物言いにわたしは当惑して、目を逸らして、食堂のメニューなんかをながめて、しかしながら、逃れようもないことを知って、観念したようにうなずいた。彼女はいかにも好色そうな微笑を浮かべている。いや、それはわたしが彼女に欲情しているからそう見えているのかもしれなかった。

「こんや、さっきの教室で待ってるね。」

するりと、彼女の手がわたしの手を撫ぜた。思っていたとおりに、湿ったようになめらかな質感をした、冷たい肌であった。爪先から指をたどり、指の股、てのひら。その指先で、ごくかるく、愛撫するようにわたしに触れる。

「21時。」

そう言うが早いか、彼女はお盆を下げると、友人らしき女に声をかけて去っていく。わたしはひとり取り残されて、器の底にちぎれた麺の影をみつめている。


 21時ともなると、構内はしいんと静まり返っている。サークルも解散して、その場を部員の私室や飲食店に移している時間である。わたしは夢遊病患者のように、ふらりとその重たい扉を開ける。ぎい。静けさのなかにやけに響く音だ。扉の隙間から、こちらを振り向く彼女の背が覗く。薄い鞄を長机において、その隣に彼女も腰かけている。昼間と同じに、白い薄手のニットにペールブルーのタイトスカートを合わせている。薄い黒ストッキングの下には、やわらかそうな脚がみえる。彼女はこちらを向いて、小さく手を振った。

「来てくれたんだ。」

化粧したてのように、完璧に塗られた唇がうごく。グロスが閉まり切らない扉の隙間から差し込んだ街灯のひかりを反射してひかった。

「あんまりに強引だったから、無視されるかもって思ってたの。」

「ほんとうに?」

「ちょっとだけ。」

彼女はわたしの腕に自らのそれを絡ませると、わたしが開けたばかりの扉を再度開ける。ぬるく澱んだ室内から、澄んだ夜気がつめたく感ぜられる。彼女の手も、はっとするくらいには冷えていた。わたしのほうが外気に浸っていたはずなのに、目が覚めるくらいだ。彼女はぐるりとその視線をわたしのほうに向けると、

「変温動物みたいって、よく言われるの。」

と言った。

「どこに行くの?」

「いいところ。」


 行きついた先は小さなアパートだった。二階建ての、学生街では目立たないつくりの建物だ。周りの建物と区別がつかないから、ここに自分ひとりでは来られないだろうと思った。彼女は鞄の外ポケットから鍵を出すと、がちゃりと二階の一室の鍵を開けた。鍵はキーホルダーもなにもつけられていない。よく失くさないと思ったけれど、どうやら所有物が少ない性質の人間らしい。鞄のなかもそうだけれど、室内もごく片付いている。というよりもはや、生活感がないほどであった。小さな冷蔵庫と、白い丸テーブル、カバーの掛けられたおおきなハンガーラック、整えられたベッド。使っていないからそうだと見える、きれいなキッチンにはグラスやマグがいくつか、空き瓶、白いプレート皿のうえにペティナイフが置いてある。食品棚が置かれるであろうところに鎮座しているのは靴棚である。

 彼女は室になだれ込むが早いか、わたしにキスをする。その肌の冷たさに反して熱い舌が、わたしの唇を開かせる。慣れたしぐさで、わたしの舌を彼女のそれでなぞった。撫ぜた。甘くてぬるりと粘度の高い、熱い唾液だった。思考のとまった脳が、彼女は桜桃のヘタを舌で結べるんだろうなとか、くだらないことを考えていた。とろみのある液体がかき混ぜられるような音がするのを聞いている。

 期待したままのことが起こっているくせに、わたしはなにか狼狽していて、頭のどこかが現実逃避みたいに冷えてのろのろと動いている。しかしじきにそれも、どきどきとうるさい鼓動に浸食されて、溶かされて、なにもわからなくなっていく。


「……あなたって、男の人が好きなんだと思ってた。」

「どういう意味?」

彼女のねむたげな瞳がわたしを捉える。すっかり乱れたシーツのうえでその黒髪が波打っている。すっかり汗もかわいた肌はひんやりとして、しかし濡れたような光輝はそこを去らずいる。

「いや、言葉通りの。えと……その。なんというか……。」

「ビッチ、っていいたいの?」

強調するようにゆっくりとうごく。やや色の落ちた、深紅と肉色のまだらの唇のあわいから覗くのは、別のいきものみたいにぬらぬらとうごいていた舌だ。砂糖菓子の歯だ。彼女のうちがわ、肉と骨である。

「そんなつもりじゃ、」

彼女は瞬いて、こちらをじいっと見つめた。重たげな一重まぶたの下で、俯いた睫毛がすこし充血した目に影を落としている。瞳は瞳孔のおおきさがわからないほどに全体が黒い。彼女にとってはただ意味もなく目をひらいているだけでも、わたしにはなにか意味深に感じられて、わたしは彼女が恐ろしかった。

 いいのよ。吐息とともに彼女はそう言った。

「ばかな人が好きなのよ。無自覚に他人を消費できる人、結構好きなの。」

彼女はにっこりと笑う。肉厚な唇がきれいに引き伸ばされて、三日月みたいだった。


 彼女は枕元からわたしのスマートフォンを取り上げて、わたしの指を持ち上げると指紋認証センサに押し付ける。カメラアプリを起動する。そして、それをわたしの手に押し付けた。

「罪悪感なんて、もつ必要ないんだから。」

彼女は掛布を落として、その身体をあらわにする。真珠いろの乳房が、重力にしたがってこぼれそうだ。わたの詰まった腹、早春の野のような恥丘、やわらかいが弾力のある腿、ほっそりとした脛、器用にくるくると動く足。彼女はわたしの頭をおさえて、もういちどキスをした。そのどれもが、わたしの頭をくらくらと麻痺させる。

「ねえ、きれいに撮ってね。」

スマートフォンの画面越しに、彼女はこちらをじいっと見つめている。

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