墜落

 根尾ちゃんは、猫ではなかった。


 わたしが高校生だったころの話だ。たしか二年一組で、わたしと根尾ちゃんが同じクラスだったのは後にも先にもその年だけだった。わたしは幽霊部員ばかりの美術部に所属していて、根尾ちゃんは帰宅部だった。わたしたちは特段仲がいいわけではなかったけれど、それはわたしがもともと社交的な生徒ではなかったのと、根尾ちゃんが人をあまり寄せ付けない生徒であったためだった。わたしはむしろ孤高に見える根尾ちゃんに一種憧れのような感情を抱いていたし、根尾ちゃんはよく放課後に、美術室に遊びに来た。根尾ちゃんの目的はけっしてわたしではない。ここは夕陽のはいりぐあいがいいのというのが彼女の言だった。その言葉どおり、彼女はよく晴れた日にしかやってこなかったし、わたしと会話をすることも殆どなかったし、めずらしくほかの部員のいる日は何も言わないで部屋を出て行ってしまった。わたしはそれに対して懐かない猫が自分にだけ懐いているみたいな、密かな優越感をもっていた。根尾ちゃんに自分だけが許されていると思った。実際のところ根尾ちゃんは、きっと誰のことも許していやしなかったのだろうし、わたしはそのことをわかっていたはずなのだけれど。


 美術室は校舎の西端にあって、移動教室時の評判はすこぶる悪かった。作品の制作や鑑賞を好まない生徒が多かったからでもあるだろう。つねに人気が少なくて、ぽつねんとした、置き去りにされたような雰囲気の教室だった。美術教師は個性的といえば聞こえがよいけれどどちらかというと陰気そうな、気味のわるい人間であったから、美術の授業中でさえも教室は静かだった。その教室前の廊下の、西側の扉からは、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下へと、錆びた鉄製の階段が伸びていた。非常階段らしいのだけれど、ちょうど下駄箱にほど近いところに降りるものだから、少しの移動も億劫がって、こっそりと使う生徒もしはしばいた。生徒たちの間でなかば慣習化していたから、それを見かけた教師もあまり怒らなかった。根尾ちゃんもその階段をよくつかう生徒の一人で、階段を降りてゆくいかにも身軽そうな後ろ姿をわたしはよく覚えている。

 その日も夕陽はきれいだった。根尾ちゃんの髪は鏡面みたいに夕陽のオレンジ色を映した。部活の終わる時間は混みあうから、根尾ちゃんはきまって部活終了のチャイムのなる少し前を見計らって教室を出る。わたしも筆をとめて、立ち上がって根尾ちゃんの背中を追った。華奢な、野生の動物みたいにまるまった背中はわたしのことに気づいたようだけれど、根尾ちゃんは何も言わないで、ぎいと外階段へ繋がる扉を開けた。そして足を踏み出した。根尾ちゃんは足音を立てない。わたしは息を潜めて駆け寄って、両手で根尾ちゃんを突き飛ばした。初めてさわった根尾ちゃんの背中は、骨の感触はたしかにあるのだけれど、思ったとおりにやわらかかった。根尾ちゃんの身体は宙に浮いて、そのまま地をめがけて落ちていった。根尾ちゃんの黒髪と、制服のプリーツスカートがふわふわと宙を漂って、わたしのずっと想像していたとおりに幻想的な光景だった。しかしそれもすぐにおわって、根尾ちゃんの身体は、渡り廊下をはずれてコンクリートの地面に叩きつけられた。くぐもった悲鳴がきこえた。根尾ちゃんの血は赤かった。根尾ちゃんは、猫みたいに身軽に空中で翻って、足から着地することはできなかったみたいだった。根尾ちゃんは頭から地面とキスをした。根尾ちゃんはただ猫みたいというだけで、ただの人間らしかった。根尾ちゃんは、猫ではなかった。

 根尾ちゃんは状況を把握できていないみたいで、ただただ目を見開いている。荒い息をする。根尾ちゃんはいつもすました顔をしていたから、人間らしい、あるいは生き物らしい顔を見たのは、おそらくそれが初めてのことだった。根尾ちゃんは獣みたいな、言葉にならない掠れた声を漏らす。わたしは失望した。くだらないことだった。根尾ちゃんの長い髪は地面にひろがっていた。

 わたしは美術室に戻ると、絵筆とバケツを片づけた。バケツのなかの濁った水は夕陽を受けてうす赤く、重たそうに波打って、ちょうど血みたいだと思った。これが全部根尾ちゃんの血であったのならよかったかもしれない。人間の身体から出る血は思いのほか少なかった。落ちた高さの問題かもしれない。それはすこし少し残念だった。根尾ちゃんはただの人間だったけれど、それでもわたしは彼女の見目もたしかに好ましく思っていた。きっと赤はよく映える。わたしが根尾ちゃんにいちばんに望んでいたのは、落ちたのでなく降りたのだとでもいうような、何事もなかったような反応ではあったのだけれど。そんなことを考えながら、わたしはいつも通りに美術室に鍵をかけ、帰宅した。



「こんにちはー。根尾ちゃん、元気?」

わたしは病室にはいる。返答がないことなんて知っている。根尾ちゃんはわたしのことなんてどうだっていい。すべてが根尾ちゃんの閉じた世界にはいっさい関係のないことだ。以前の根尾ちゃんは気分さえよければ返事をしてくれることもあったのだけれど、もう根尾ちゃんはなにも喋らない。根尾ちゃんはもう何も考えていないからだ。根尾ちゃんは白痴みたいに黙り込んで、ぼうっとどこかをみつめながら、白い寝台に身を横たえている。根尾ちゃんはうごかない。根尾ちゃんは人だった。だけれど、いまの根尾ちゃんは感情なんかなくなったみたいで、よく眠る、昼間の陽だまりのなかの猫みたいにやすらかだ。


 根尾ちゃんは、猫ではなかった。

 でもそれもすべて、もう遠い過去のことである。

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