傷の味

 谷原はわたしの中学からのひとつ下の後輩だった。ひょろりと細長い体型をしていて、軽薄というか、生意気なふうな喋り方をする。きっとわたしのことを先輩だと思っていないのだろう。先輩だなんてらしくないし、むしろ谷原の態度は好ましかった。谷原はわたしとおなじ吹奏楽部の部員であって、吹奏楽部がわたしたちの通う中学校で唯一の文化部であったからという所属理由を同じくした、無気力な生徒だったから、そこそこに馬が合った。

 その谷原と会うのは、わたしが高校を卒業して以来のことだった。


 鄙びた駅舎のベンチに座る。わたしの通う大学は遠方にあり、不精のせいもあるけれど、帰省するのは盂蘭盆が初めてのことだった。帰省するだなんて、大人になったみたいですこし期待感をもっていたのだけれど、なんともないことだと知った。

「来たよ」

わたしは谷原にそれだけ、メッセージを送る。履歴を見ると七月ぶりだった。谷原からは、すぐに「すこし待ってください」と返ってきた。谷原はわたしと会話する際は人を小馬鹿にしたようなタメ口をきくけれど、文面では敬語をつかう。わたしは既読を返事に代え、メッセージアプリを閉じる。いくらか地域のイベントなどのビラの貼られた駅舎を眺めている。

 踏切の警報音が聞こえてくると、数人の高校生がぱらぱらと降りてきた。

「先輩〜、久しぶり。」

谷原は右手を上げて、高校指定の革靴を鳴らしてわたしのほうへと歩み寄ってきた。涼しげな半袖の夏服を着た生徒らの中で、谷原は一人長袖を着込んでいる。暑くない? と尋ねると、彼女はあいまいに頷いた。

「暑いのに待たせてごめんね。夏期講習でさ、ほんと最悪。結局寝ちゃったし。」

谷原はへらへらと笑って、わたしを先導する形で駅舎を出た。先月に、夏休みに帰省する旨を話すと、中学生時分に入り浸っていた彼女の部屋で、会おうと谷原は言ったのだった。


 蝉の声がうるさかった。入道雲のかたちも、空の青さも、蝉の声色も、どこでも夏は夏だった。谷原は緩慢な仕草で首筋の汗を拭っていた。袖口はおろし、ボタンまできっちりと締めているのに、襟元はだらしなく寛げられている。わたしは彼女が自傷でもしているのだろうということにとうに勘づいていた。谷原はもともと、いわゆるメンヘラ傾向のある少女だったからだ。

 アパートの前に着くと、谷原はリュックをおろし、鍵を取り出した。中学生時分と変わらない、星型のキーホルダーがついている。じゃっかん傷が増えたかもしれない。

「先輩、入って。」

「お邪魔します。」

想像通り部屋は無人で、がらんとした室内にはわたしのそう大きくない声もよく響いた。谷原は変わらない生活をしているらしかった。わたしが谷原の家に入り浸っていた当時から、谷原の両親は共働きで、有能で仕事好きらしくつねに忙しげで、家に居着かないひとだった。こどものある家庭にしては殺風景で、置いてあるものも少ない。棚にはうっすらと埃が層をつくっていたし、観葉植物は枯れかけていた。手入れの行き届いていない家、目の届いていないこどもという印象は変わらないものだった。

 谷原の私室も、机の上に赤本が増えたくらいでそう変化のないものだった。中堅私大のものがいくつかと、わたしの通う大学のものがおいてある。けなげなものだと思ったら、それを察したのか「どこでもよかったから、なんとなく頭に浮かんで挙げたら、なんか志望校みたいになってただけ。」と谷原は言った。谷原は空調をつけて、冷蔵庫から麦茶を出してくる。

「先輩、大学どう?」

谷原は麦茶をグラスに注ぎながら、興味なさげにそう訊いた。実際興味がないのだろう。

「まあ、ふつう。特に面白いこともないけど、高三よりは楽だよ。」

谷原はふうんと言って、グラスをわたしの前に置いた。その手つきが乱暴なものだから、数滴テーブルに麦茶がこぼれた。谷原はそれを気にも留めず、わたしの表情を窺うような目つきをして口を開いた。

「先輩、見たい?」

「は?」

出し抜けな台詞にわたしはただ呆けていた。何を? そう問うと、谷原は自らの左の袖口を示した。焦れたような手つきで、ボタンをはずす。ごく近いものだから、わずかな衣ずれも鮮明に聞こえる。わたしは声も発せないで、ただそれを見つめている。

「見たいでしょ。秘密なんだよ。」

谷原は袖口を捲り上げる。彼女の手首の白さには、幾筋もの傷跡が走っていた。まだ新しいらしく、赤黒い色をした筋もある。谷原はそれをわたしに見せつけるようにして、わたしの反応を待っているようだった。

「どうしたの?」

「反応わるー。切ったの。」

「いや、そうだろうけど。なんで?」

谷原は考え込むようなそぶりを見せる。麦茶を一口飲んで、うーんと言った。

「ストレス? かなあ。」

正直わかんないんだ。まあでも、いいでしょ。陳腐な理由。半袖、着れないけどね。谷原はそう続けた。なんでもないような口調だったから、きっとなんでもないことなのだろう。わたしは谷原と特別親しいわけではない、ただの先輩であるに過ぎないから、彼女のことなんてなにひとつわからない。わたしが彼女の傷跡を見て感じたものは、ショックでも痛ましさでもないことだけは、わかりきっていた。それはきっと高揚だった。あるいは興奮。

「ねえ、キスしていい?」

わたしは谷原の答えを待たずに、彼女の手を引っ掴んで、傷だらけの手首に口づけた。唇に、谷原の自分でつくった傷の凸凹を感じる。汗ばんで湿った皮膚は、ほんのすこし、人間の体液らしい塩辛い味がする。谷原は生きている。

「先輩、答える前にしてるし……。つーか、そこかよ。悪趣味。」

谷原は露骨に顔をしかめる。

「唇ならよかったの?」

「まさか。あたしら、そういうんじゃないじゃん。」

「そだね。わたし、谷原のことべつに好きじゃないし。」

「ひでえ言い草。」

谷原は拗ねたように右手で頬杖をついてそっぽを向く。短い茶髪が伸びた爪にかかっている。不健康的な、筋の目立つ白い爪だ。わたしは彼女の左手を掴んだまま、つとめてやさしい手つきで傷跡を撫でた。傷口がわずか開きかけたらしく、赤く血が滲んでいる。

「恋の話ね? でも、リストカット、超いい。そそる。」

「身体目当てかよ……。」

谷原は嘆息する。呆れたような口調だ。この傷フェチ、変態。とかるく罵るように言う。

「谷原さ、死ぬならわたしとにしてね。」

わたしがそう言うと、谷原は呼ぶから絶対来てよと小声で言った。なんとなくこどもじみた口調で、微笑ましささえあった。わたしは谷原がかわいかった。わたしは傷ついている谷原のことは、結構好きなのかもしれない。すくなくとも、唇にだって、きっとキスできるくらいには。まるく整えられた爪にするどい刃を重ねて、わたしはもう一度、谷原の手首をゆっくりとなぞってみる。

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