月光

 月光は白い色をしている。生活のうちに薄汚れはじめたレースのカーテンを透かして、しかし真白い光は彼女のしみひとつない頬をより白く照らし出す。ぴったりと閉じられた濃い睫毛のしたに、くらく影が落ちている。つくりものみたいな、爬虫類の腹みたいな、人間じみない質感の肌だ。その頬はひんやりとして、わたしのてのひらに吸いつくようだった。平温およそ三十六度五分。彼女曰く。眠る人間の体温は概して平温よりはひくい。だけれど、たしかに生きている人間の体温の範疇にある。わたしは努めてそうっと、彼女の頬を撫ぜる。そうして自分の手のうごくままに、彼女の唇に指を這わせた。生気のない肌色をしているくせに、紅も引かないでみごとなまでの朱唇である。彼女は鑑賞用にうまれたいきものだったのかもしれない。そうして、わたしの指は彼女のやわらかな唇からとがった顎をたどり、首筋に至る。ほそい首だった。両手でつかんで、ゆるく力を籠める。しかしすぐに離してしまった。眠る無抵抗な人間の首を絞めるだなんて、むろんのこと褒められたおこないではないからだ。

「殺さないの。」

出し抜けに彼女の声をきいて、わたしは反射的にちいさく謝った。彼女の頭のほうに目をやると、彼女のくろぐろとしておおきな瞳はぱっちりとひらかれていた。

「ごめんなさいじゃあなくって。どういう気持ちなの。私が憎い? 愛しい? それともなにか、ほかのことを考えていた?」

辰砂の唇がうごく。いかにも清潔そうな白い光をうけて、濡れ光るそれはいやに煽情的だ。彼女はわたしの手を取って、もういちど、彼女の首筋にあてがった。冷たいてのひらだった。首筋はすこし温んでいて、血のめぐる感触がする。

「ああそれとも、キスがしたかった?」

「えっ、」

「唇、撫でたでしょう。」

彼女はその体勢のままに、笑みを浮かべてみせる。私、キスしたいとか、そういう感覚、よくわからないんだけど。そう続けた。あなたがしたいのならばしてもよいというポーズだ。彼女はいつもそうで、わたしを暗に誘惑する。否、わたしが勝手に誘惑されているだけなのだ。彼女はそういうものとして、ただここに存しているだけなのだから。

「……ただ、ええと、その、あんまり、きれいだったから。」

「そう?」

彼女はわたしの手の甲を、手首を、するりと撫ぜる。わたしとおなじ種のいきものとは考えられないくらいになめらかな肌をしている。そんなことを考えていると、急に手首に力を籠められて、ぎゅうと引っ張られる。そうして、耳元でささやかれた。彼女の息が、うなじをくすぐる。産毛が逆立つのを肌で感じた。

「ねえ、したいでしょ。」

わたしは気圧されたように、こくんと頷いた。ほんとうは彼女に口づけたかったし、彼女の首を絞めたかった。許されるのならば命まで奪ってしまって、わたしだけのものにしたかった。実際するとなると怖気づくのだろうけど、わたしがそのような願望をもっていたことは確かであった。

 わたしは身を起して、彼女の唇に自らのそれをあわせた。唇は先程指先で触れたとおりにしっとりと濡れてやわらかかった。それが鋭敏な唇で感ぜられるものだから、わたしの心臓は思春期の少女みたいに早鐘を打って、くらくらとめまいがするほどだった。

「殺したいのならば、殺してしまってもいいのに。」

唇を離してから、彼女はそう言った。呟くような声も、静けさと月光ばかりに満ちた狭いワンルームにはよく響く。彼女の浮かべるのは、妙に婀娜っぽくて、それでいてごくごく凪いだ、おだやかな微笑だった。あたりを照らす月光が、眩しいほどに感じられた。

 わたしは彼女の首筋に手をやる。薄い皮膚に、青く血管が透けている。脈を打っている。心なしか、先ほどよりも早まっている。彼女の黒い瞳はわたしを見据えている。わたしは彼女の首筋を両の手で包み込んで、しかし、やはりすぐに力なくてのひらを離した。彼女の潔癖なまでに白い首筋には、なんの痕跡ものこっていない。わたしは目を逸らして、何事もなかったみたいに口をひらいた。

「眠ろう、まだ夜だし。」

彼女はだまって首肯する。ふたりとも、もう一度ブランケットにくるまりなおして、目を閉じる。わたしはきっと、彼女をわたしひとりのものにする機会を永遠に失ったのだろう。そんな確信をもちながら、わたしは彼女の隣でまるくなる。きっと、後悔と安堵だった。これまでとかわらずに、彼女はずっとうつくしく自由なものとして、わたしは何者でもないただの女としてあり続けるのだろう。聞こえ始めたやすらかな寝息は、わたしの呼吸と合わさることなく、わたしはひとりきり夜の明けるのを待っている。

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