破滅の色を知る

 ゆいさんは、わたしたちの途切れ途切れのボソボソした会話に一切はいらないで、いかにもつまらなそうな顔つきで車窓を眺めている。車内は締め切られて、風はなく、澱んだ空気が充満している。わざわざ目張りなんかして、一酸化炭素なんか発生させずとも、わたしたちを殺し得るくらいに空気が悪い。そのなかで、ゆいさんの黒髪のボブカットは車の揺れに合わせて涼しげに揺れる。よく手入れがされているのだろう、艶のある髪だ。きっと手触りも良いのだろう。わたしは自分の癖毛に手をやりながら、小声でゆいさんに声をかける。

「ゆいさんって、わたしと同い年でしたよね。」

彼女はこちらに一瞥をくれると、うんとだけ言って頷いた。女性にしてはすこしひくめの、ハスキーな声をしたひとだ。ゆいというハンドルネームを使っているこのひとは、わたしとおなじ高校三年生らしい。SNS上で話をしていた時も思っていたけれど、こうしてゆいさん自身を前にしてもわたしと同い年にはとてもみえなかった。悪い意味でなく、彼女がいやにあやしく、艶っぽくさえあったからだ。たんにわたしが子供すぎるだけなのかもしれない。わたしは自分の膝の上で手をひろげ、短い指と、まるい爪を見ながらそんなことを考えた。

 幾度か話しかけようとしてみたけれど、結局ゆいさんは車中では殆ど黙り込んだままだった。周りも自殺しようだなんて考える連中なのだから、ゆいさんのそんな調子を特段気に掛けるわけでもなく、しかし沈黙は怖いらしくて依然として低い調子で会話は続いていた。


 サービスエリアの駐車場に車を駐めると、同乗者たちは散り散りに車を降りて行く。休憩ということらしかった。暢気なものだと思いながらわたしも遅れて車を降りようとドアを半分あけると、手首を掴まれた。ゆいさんだった。鍵かけといてくださいね、そう言いかけたところで、手首を掴む手には力が籠められ、わたしの身体は彼女に引き寄せられる。口づけられた。

「どうしてこんなこと、」

頬が紅潮していくのが自分でよくわかった。頬から耳、首筋、唇、すべてが熱い。辛いものでも食べたときみたいだ。開けたドアから流れ込んでくる熱気のせいだろうか。そんなわたしとは対照的に、ゆいさんは澄ました顔をしている。白い頬は白いまま、温度を感じさせない。

「みうさん、あたしに気があるんでしょう?」

きれいにカールされた睫毛の下で、ゆいさんの黒い瞳がきらきらとひかっていた。黒曜みたいだ。破断面は貝殻状、破片はするどく、わたしを傷つける。皮膚を裂いて、肉に刺さって、身体じゅうに血のめぐっていたのを、神経の通っていたのを、わたしに思い出させるのだろう。ゆいさんのまなざしは、わたしを見透かすまなざしだ。おまえの絶望も、劣情も、なにもかもすべてわかっているのだとでも言いたげな。

「……なんで。」

「あたしのこと見てたでしょ。やらしーんだ。こういう女が好きなの? 悪趣味。」

「いや、その、ええと……。ゆいさんに言われたくないです……。」

わたしはひどくたじろいだ。きっと目は泳いでいるのだろう。必死に言葉を探して、薄っぺらな反論を返す。ゆいさんは悠然と笑みを浮かべたままだ。やはりわたしはおろかで、不覚にも見惚れてしまう。ああだめだ。きっとこのひとはわたしを破滅させる。だけれどわたしは自殺オフなんかに参加するような人間であって、ずっと長いこと破滅を待ち望んでいる。だからきっと、ゆいさんはわたしの望むものをわたしにくれるのだろう。それはきっと、このまま練炭なんかを焚いてよく知りもしない人間と死んでしまうよりも、ずっとたくさんの甘い苦痛をわたしに与えながら。

「そうかな。まあ、でもさ、みうさんが少しでもあたしのこと好きなら、それに付け込んじゃおうと思って。だからキスしてみたんだけど。」

どうだった? ゆいさんはそう言って小首をかしげる。黒髪がまるく曲線を描いてゆいさんの華奢な肩口におちる。あかるい陽射しの下でゆいさんの浮いた鎖骨は白く、その窪みは真っ黒で、ひとつづきの肌のうえで強いコントラストを描いていた。きっちりと紅の引かれた唇が笑みのかたちをとる。かわいらしいしぐさも様になるのが悔しかった。ゆいさんは腹立たしいくらいに一挙手一投足が絵になる女だった。

「……それって、どういう意味ですか。」

「あたしはみうさんみたいな娘が好きなの。うじうじしてて、すぐ傷ついて、かわいい。あたしのせいで傷ついてくれたらいいなって思ってたよ。会ってみたら、見た目も好みだったし。」

「あたしみたいな娘ですか?」

「みうさん。」

ゆいさんは、わたしの目を覗き込んでそう言った。睫毛の生えかたも虹彩のかたちも映り込む間抜けたわたしの姿も、はっきりと見て取れた。わたしは目を逸らす。もとより理性的にものを考えることなんかできやしない出来損ないの頭が、ゆいさんと対面していると茹ってさらにだめになってしまいそうだった。

「……わたしは、ゆいさんが好きだった娘に似ていたから、見てて。いや、……要するに、そう、たぶん、ゆいさんがタイプだったからなんですけど。」

それは事実だった。わたしがハンドルネームとしてつかっていた“みう”というのは、わたしの好きだったクラスメートの名前だった。彼女は髪を背中までながく伸ばしていたけれど、気だるげな伏し目がちの目元も、細く通った鼻筋も、その下できゅっと結ばれた、やや厚めだが小ぶりの真赤い唇も、ゆいさんと似通っていた。わたしは彼女をその顔だちのために好いたわけではないけれど、彼女の顔を盗み見るのは好きだったし、ゆいさんにも一目で惹かれてしまったのは事実であったので、きっとその手の顔立ちをわたしは好むのだろう。

「ずるい言い方するんだ。あたしはすきって言ったのに。」

「言ってませんよ。」

「好きだよ、みうさん。」

ゆいさんは平静な口調でそう言った。瞳は変わらずに射し込む陽光を反射しながら、不思議にひかっている。その光がわたしの目を刺すから、わたしは眩しくて痛かった。わたしみたいな人間は責め立てられているようでさえある、純粋なかがやきだ。わたしは苦し紛れに、目を逸らして口を開く。

「惚れっぽいんですね。」

「みうさんだけだよ。みうさんもあたしのこと、好きでしょ?」

「ずるい人。」

「それは肯定?」

からかうような微笑だった。わたしがとうにゆいさんのことを好きになってしまっていることくらい、彼女はもうわかりきっているのだろう。この短時間で、なんてことのない接触で、しかしもう後戻りなんかできやしないくらい。わたしとゆいさんの歩くことのできる道はきっと暗い道だけだ。街灯も人影もひとつもない、うら寂しい細い道。しかも袋小路。どこにもたどり着けやしないまま、わたしたちは行き止まりでおわるのだ。

「……好きに捉えてください。」

わたしが観念して言うと、ゆいさんはわかったと笑う。ゆいさんの立てるのは、ごくひそやかな笑い声だった。そして、ゆいさんはもう一度わたしにキスをした。彼女の手はわたしの髪を撫ぜ、するりとやさしい手つきで頭蓋をたどって頬を撫ぜる。白くて細長い指だ。この暑さのなかで嘘のように冷たい。ゆいさんはどこもかしこもきれいで、生きているものではないみたいだった。そのなめらかな皮膚を切りひらいても熱い血なんかこぼれないように思われた。白磁のなかみは空洞で、血液も肉も骨も、なにもかも存在しない。ゆいさんはわたしの頭を抱き締めて、逃げちゃおっか、そう囁いた。わたしはゆいさんの鼓動を聞いた。ゆいさんの胸元は暖かく、やわらかだった。


「あたしらなんかいなくたって気にしないよ。あいつら勝手に死ぬでしょ。それか、やめちゃうかもね、死ぬの。」

ね、二人で死の。あたしたち、二人だけで。ゆいさんは、いまだひらいたままのドアの外、もう同乗者らの後ろ姿も見えなくなったサービスエリアのたてものを眺めながらそう言った。呟くような、すべてがもうどうでもよいみたいな、ごく凪いだ口調だった。

「……あのひとたちはよくっても、わたしたち、どうするんですか?」

「ダムがあるよ、このへん。知ってる? 水面がさ、キレーな水色してるんだよ。見に行くだけでもどう? よかったら死ねばいいし、いやだったらみうさんがなんか提案してよ。」

わたしの渋々といった調子の首肯にゆいさんは満足げな顔をした。わたしたちは鍵をあけたままに車を降りて、乱暴に扉を閉めた。外へ歩き出していく。ゆいさんは慣れたようすでタクシーに乗り込んだ。運転手に目的地を告げると、シートに座ってわたしの手を握る。ゆいさんの指はわたしの手をやさしく、同時に官能的な手つきでするりと撫ぜた。

 車中でゆいさんはわたしにダイレクトメッセージを送ってきた。口頭でいって運転手に聞かれると面倒ごとがおこるような会話が発生しうることを考慮してのことだろう。入水の話なんか、かたちだけでも止められるにきまっている。それと、わたしはほんの少しの期待もあった。他人に聞かせるに忍びない、甘やかな会話でも発生するのかもしれないと思って。ふわふわと非現実的で、地に足のつかない気分だった。わたしは少なからず、浮かれていたのかもしれなかった。結局のところ、わたしは女好きのろくでなしにすぎないのだ。

「みうさん、あたしと死にたい?」

「死にたいですよ」

「死にたいとかじゃなくて、あたしと」

「死ぬのならば、ゆいさんとがいいと思ってます」

そう送ると、ゆいさんはほんのすこし微笑んでわたしの頭を撫ぜた。そうして、わたしの耳元に唇を寄せて、「あたしもみうさんと死にたいよ。」と囁いた。ゆいさんの声色と吐息はわたしの耳から首筋にかけての産毛を逆立てる。ああこの人の声がわたしは好きなのだと気づいた。わたしは跳ねる鼓動を抑えて、ゆいさんの頬にキスをする。おそらく化粧品だろう、ゆいさんの頬は甘い香りがした。

 そこからはふたり、スマートフォンなんか手から離して、おさない少女めいた耳元での囁きあいをわたしたちは繰り返していた。十七歳、わたしたちはいまだ少女の範疇にあるはずだけれど、しかしおとなになるようにせっつかれているさなかにあった。わたしはずっと少女でいたいだけで、少女のうちにおなじ少女と死にたかったのかもしれなかった。おとなになりゆく自身に終止符を打ちたかったのかもしれない。いまだ少女であった。わたしたちは、どんなことをしても許されてよいはずの、うら若い少女ふたりきりだった。

「そういえばさ、ちゃんと言ってほしいな。」

「ちゃんと?」

「好き、って。」

ゆいさんはわざとわたしの耳元に息を吹きかけるようにしてそう言った。

「好きですよ。」

ゆいさんが。わたしも負けじとゆいさんの白い耳殻に囁きかける。耳朶に口づけて、唇でそうっと食んだ。ゆいさんは声を潜めてくすぐったそうに笑っていた。わたしはそのまま頬にキスをして、そしてゆいさんの唇にも口づけた。いまだ繋がれたままの手に力がこもるのが分かった。唇を離すと、ゆいさんはわたしの唇を指先でぬぐった。嫣然とした笑みを浮かべる。ゆいさんの目は、細められるとくろぐろと濃い睫毛と瞳の色で、その表情を窺わせない。美しくて不気味だ。美しいものが不気味なのかもしれない。わたしにとっての美というのはきっとゆいさんのことだから、どちらもきっと正しいことだろう。すくなくともわたしにとっては。

「いちおう人前なのに、積極的だね。」

「あ、」

ゆいさんはいたずらっぽく笑む。そんなにしたかった? とわたしの髪を、その白い指がすくい上げる。

「……好きだから、キスしたくもなりますよ。おかしい?」

わたしはゆいさんの肩口に頭を凭れさせる。きっとゆいさんはわたしが望めばすべて許してくれるし、すべて与えてくれるだろう。そう思ってしまったら、もうわたしの選ぶ行動はひとつしかなかった。ゆいさんはどうせわたしのすべてを暴くのだから、わたしからつまびらかにしたってなにも変わらない。ゆいさんにならば、身体を正中線で切り裂いて、うごめく内臓を見せたって構わない。

「ううん。」

ゆいさんは微笑む。

「好きだよ、キス。好きなだけ、好きにして。」


 ふたりタクシーから降りる。あたりは人気がなく、湖面の水色と繁茂した緑ばかりが目についた。陽射しの下でゆいさんは美しい。そのどこか病んだ、影のある美貌は白く照らされてもけっしてあかるく見えることはなくて、ゆいさんはゆいさんとして美しいままだった。

「いいでしょ。」

「……はい。」

ぼうっとしたままに頷いた。わたしはゆいさんにしか興味がなかった。もうどんなところで、どんなむごい死に方をしようとどうだってよかった。ゆいさんはどこにいようと美しいからだ。ゆいさんがわたしの望みをすべて叶えてくれるように、わたしもゆいさんにとってそうでありたいと思った。ゆいさんがここで死にたいのならば、わたしもここで死にたいのだ。ゆいさんほど正しい人はきっといない。

「ちょっと、ぐるっと見てこよっか。」

「はい。」

ゆいさんはわたしの手を引いて、ダム湖のまわりにめぐらされた道を歩いていく。木々が熱風に揺れていて、葉ずれの音と水音、蝉の声が頭蓋の内で反響するようだった。頭のなかは騒がしく、暑さのためかゆいさんのためか、鼓動もやたらにうるさかった。気が触れてしまいそうだった。否、もとよりわたしは正気などではなかったのだろう。きっとぜんぶ決まっていたことだった。なにも変わったことなどないのだろうと、妙な確信をもってわたしはそんなことを考えていた。

 わたしたちの散策が湖上の橋にさしかかったとき、ゆいさんはふいに足を止めた。一方の手でわたしの手を握ったまま、その半身を欄干に凭れさせる。黒髪がぱらりと円を描いたままに空へおちる。彼女の身体の行き先を示すみたいだ。ゆいさんの身体は橋の下へとおちていって、水底へ、水はゆいさんの呼吸をとめて、死に至らしめて、そして、そして。ゆいさんの身体は水を吸って、融けて、おぞましいひとつの水死体になるのだろう。わたしはそれをけっして目にすることはない。これは安堵だった。美しいゆいさんしか記憶に残らないわたしは、ひどく幸せで、満たされていると思った。

 ゆいさんはわたしの瞳を覗き込んで、あかい唇をひらく。

「ねえ、どうする?」

わたしはゆいさんの隣へと歩み寄って、死のうと言った。ゆいさんはこれまで、わたしが彼女の姿を目にした数時間のなかで、いやきっと彼女の生きてきた十七年間とわたしの与り知らぬ秒数たちのなかで、一番美しい微笑をみせた。風を受けてあかく燃えるろうそくの炎のようだった。女は死に際が一番美しい。ゆいさんの唇の赤は、血で、炎で、破滅のすべての色だった。キスをすると、わたしの唇にも、彼女のもつ、彼女そのものである破滅がうつった。


 ふたりで欄干の上にすわる。風はわたしたちの髪を揺らす。ゆいさんの匂いをわたしのもとに届ける。わたし、幸せですよ。わたしはゆいさんの手を握る力を強くして、そう言った。頬に口づける。くだらない人生が終わることよりも、ゆいさんと今共にいられて、共に死ねることがさいわいであった。

「あたしも。」

キスをした。唇までゆいさんは甘い。美しいひとだ。唇を離してから、どちらからともなくふらり立ち上がった。

 わたしは目を瞑る。ゆいさんのほそい指が、わたしの指に絡みつく感触だけが確かだった。

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