すずのね

 室に帰ってきた沙代はそのおおきな、黒い瞳に涙をいっぱいに溜めていた。彼女は震えるうつくしい声で、ここを出ることになったのだと言った。わたしは宿題を片付ける手を止めて、え、とか呆けた返事をしたと思う。しばらくふたりとも何も言えないで、静かな雨の音だけが部屋を満たしていた。つねの雨をわたしは好ましく捉えていたものだけれど、今日のそれに限っては、湿っぽい、いやな響き方をしていた。


 沙代というのは、わたしの同級生の少女である。わたしの籍をおいていたのが全寮制の女子校であり、わたしと沙代は中学の一年から二年間、寮の同室を宛てがわれていたものだから仲がよかった。友人としてはすこし常軌を逸するくらい。しかしながら、そんなことは思春期の少女らのあいだにはよくあることである。彼女らのあいだでは、恋情と友情の境は容易く飛び越えられる。そも、両者のあいだに境なんてものがあるという確信自体、わたしにはついていないのだけれど。きっと誰ひとりとして明確な答えなんて持っていやしないのだろう。兎にも角にも、わたしと沙代は、恋情にも似た感情をたがいに抱きあっていたのである。

 その沙代がいなくなってしまうというのは、わたしにとっては一大事だった。否、わたしよりもむしろ沙代にとってであろう。沙代はわたしに奇妙なほどに執着を向けていた。沙代みたいなうつくしい少女にわたしみたいな凡庸なものが好かれることは不思議であったけれど、むろんのこと嬉しかった。沙代は見目にうつくしく、年のわりに聡明で落ち着いた少女であったけれども、時たま恐ろしく感じるくらいに、感情的にわたしを責め立てたり、泣き出したりすることがあった。思春期の少女らしい、いやそれにしても行きすぎなほどの不安定さや苛烈さも、わたしには向けていたのである。部屋から漏れ出す沙代の声に、級友らに心配されることもしばしばあるほどであった。

 その日の沙代も、鬼気迫った様子でわたしに縋りついてきた。手いれのいきとどいた髪は乱れて、涙の零れる頬に張りつく。白磁の静かな頬が、鼻頭が、赤く染まる。その、生きた人間らしい有様がなんとも美しかった。人形らしく澄ましこんだ沙代も好ましいけれど、わたしと同じくいきものである沙代のことも好ましかった。わたしの前でなくては見せない姿であろうから、尚のことである。いとおしく思った。わたしは沙代の身体を抱き締めて、だまってその背をずうっと撫ぜていた。すると沙代は徐々に落ち着きを取り戻してきたようで、わたしに抱きついたままにぽつりぽつりと零す。

「私のことなんて忘れて、きっと……他のひとを好きになる。他のひとに汚されるの。それがいやなの。」

駄々っ子みたいに、わたしの胴に絡みつく腕の力は強かった。この華奢な腕のどこからそんな力が出るのか疑わしいほどだった。彼女の指がわたしの背をぎゅうと掴むのが手に取るようにわかる。

「忘れないよ。きっと忘れない。わたしが好きになるのは、沙代だけだよ。」

「……ほんとに?」

沙代はそういうと、しばらく逡巡して口をひらく。

「じゃあね、ひどいこと、していい?」

「ひどいこと?」

沙代が口ごもりながらしたのは、わたしの性機能をなくしてしまおうという話だった。つまるところ、沙代はわたしに誰とも交接をしてほしくないのだと言った。沙代以外の誰とも。しかしながら沙代とだって決定的なことに至ったことは無かったから、要するに純潔を守り続けてほしいという話だった。沙代はわたしのことが好きなのだと泣いた。好き、好きなの、好き。好きだから、好きだから、いやなの、いやなの。汚いの、私たち以外。沙代はそんな要領を得ないことを言った。涙声だったと思えば急に、落ち着いた声でその手段を沙代は話した。

「読んだことがあるの。古い本で。きっと、……できると思う。手先には自信があるほうだし。」

沙代は不安げに俯いて、そう言った。沙代の視線はその白い指先にある。神経質そうに、深爪ぎみに切りそろえられた丸い爪だ。少女の、純粋で潔癖な皮膚につつまれている。この指先が触れるところを想像して、わたしはほんのすこしの恐怖と期待をもって頷いた。

「……わかった。いいよ。それで沙代が安心するなら。」

沙代は微笑して、わたしを抱き締めた。やさしい抱擁だった。沙代の不健康的なまでにかぼそい、未成熟な少女そのものといったようすの腕はわずか震えていた。



「ね、あなたのためなの。あなたのためだよ。ごめんね。」

沙代はいかにも悲しげな声色をして言った。こちらまで悲しくなるくらいだった。わたしを抱きしめてから、やさしくキスをする。唇を合わせたままに、沙代はわたしの身体をベッドに押し倒す。彼女は慣れた手つきでわたしの制服の上衣の裾と、キャミソールを捲り上げる。沙代がわたしに覆いかぶさるものだから、その長い髪が直に腹に落ちかかってきてくすぐったい。それから、ああこれじゃあやりにくいなどと呟きながら、彼女の手は器用にわたしのスカートも下ろしてしまった。わたしには見えないけれど、スカートはきっとわたしの足元に溜まって皺をつくっているのだろう。

 そうして、沙代はわたしの下腹を殴った。沙代の白いてのひらは固く握り締められて、骨と青い血管が浮き出ている。幾度となく、彼女はわたしを殴る。沙代の瞳はいかにも切実そうにひかっていた。きっと涙のせいだ。沙代は暴力なんて好まない、繊細で穏やかな性質の少女であったから、わたしを傷つけることはつらいのだろう。沙代の拳がわたしの下腹を打つたびにわたしは息ができなくなる。苦しい。しかし、声を上げないように努力する。わたしが苦しむ姿を見ると、彼女もきっと苦しむからだ。固く目を瞑る。何も見ないように。沙代は悲痛な声でわたしに謝罪をする。

「っ、」

「ごめんね、痛い? ……痛い、よね。」

何度目かわからない謝罪をして、沙代はやはり泣いているらしかった。わたしの剥き出しの腹にすこし冷たい、水滴の落ちる感触がする。

「もうそろそろ、いいと思うの。たぶん。壊れてくれたと思う。ちゃんと。」

「ほんとに?」

わたしは目をあける。ゆっくりと手を伸ばして、沙代の髪を撫ぜた。腹の痛みは尋常でない。暴力を振るわれたわけだし、しかもそれは内臓の破壊を目的としているわけだから当然だ。だけれどそんなことよりも、わたしには沙代が大事だった。沙代のためならばきっと命だって差し出せた。沙代もきっとそうだ。……であれば。わたしはそんなことを考えて、しかし口をひらくことはなかった。べつにわたしたちは、死にたいわけではなかったのだった。

「……わかんない。」

沙代は途方にくれた迷子のような顔をした。沙代の手の甲はすこし赤くなっている。それがひどく痛ましいことに思われた。わたしにもたらされた傷のほうが、ずっとひどいものであるにもかかわらず。

「ごめんね…………、ごめんね。まだ、やるね。」

わたしは頷いて、またぎゅうと目を瞑った。

 わたしを殴るたびに、沙代の息は上がっていく。呼吸の熱さを肌で感じる。きっと、沙代の視線も熱を増していく。あの石膏の静けさをした白い頬や、耳や、首筋は、きっと赤くなっているのだろう。ああ見たい、とわたしは思った。いまのわたしにとてもそんな余裕はないけれど。ふわふわとした夢のような気分を、下腹部への打撃が遮る。沙代の途切れ途切れの謝罪を聞きながら、わたしは沙代のことだけを考えている。きれいな声だ。りりりと鈴の鳴るような。沙代の喉はあの美しい肢体に括り付けられた鈴であった。音を立てるということが肝要であって、その音に意味など必要ないのだ。沙代の美しさも、怜悧さも、すべてはたんなる美しい音の容れ物としてのみそこにあった。

 沙代は美しい音を立てながら、わたしの腹を殴り続ける。拳が肉にめり込む鈍い音と、りりり、という高い音、わたしの重たい呼吸音だけが響いている。

「も、もう……いいかな。」

沙代がようやく腕を下ろした頃には、わたしの下腹部はすっかり変色していた。赤や紫なんて色じゃなくって、自分の肌に認めたことのないようなどす黒い色をしている。沙代は荒い息を吐いて、自らも寝台に身を横たえると、わたしにキスをした。

「そういえば、鎮痛効果があるらしいから。」

沙代の口腔内はひどく熱く、ぬめっていた。そんな理由かどうかもわからないままに、わたしは寝台に縫いとめられて、口づけを甘受する。唾液の絡む、やらしいキスだった。沙代もきっと、この非現実的な暴力に中てられて、すこしおかしくなっているのだろう。よわよわしく舌で口内を撫ぜると、沙代は悩ましげに息を漏らした。りり、りり、と断続的な鈴の音だった。


 気づくと眠り込んでいたらしかった。わたしの制服はすっかり脱がされて、寝衣に着替えさせられている。きっと沙代がやったのだろう。沙代もわたしの隣で寝息を立てていた。わたしの左腕に縋り付いて眠っているものだから身動きがとれない、わたしは右手で沙代の髪を撫ぜて、そうっとキスをした。沙代は無防備に、眠り続けたままだった。



 しゅっ、と慣れない手つきで擦ると、小さな火が点き、蝋燭に移すまえに消えてしまった。理科室から拝借してきたマッチだ。箱を振るとカラカラと軽い音がする。なかにはもう四本しかはいっていなかった。

「なくなっちゃうよ。」

沙代は笑ってわたしを咎める。磨りガラスを隔てて眺める光景みたいな、やわらかく響く笑い声だ。沙代はわたしの手からマッチ箱を取ると、マッチを擦って、蝋燭に点火する。沙代はわたしにくらべで手先の器用な少女だった。ほっそりとはしているがやわらかな頬が、蝋燭のあかい炎に照らされてまるく浮かび上がる。沙代は裁縫箱から一本、針を取り出して炎のさきにあてがった。金属の針は熱されて、徐々に赤らむ。針をつまむ沙代の指先もきっと熱いのだろう。あの傷ひとつない白い指は、きっと炎の熱さに、傷をつけるものすべてに触れたことがないから。

「いいかな、これで。」

沙代は針を火から離し、片手で裁縫箱をさぐる。縫い糸を出してくると針穴に通した。赤い糸だ。少女らが薬指に結びあってふざけてみせそうな、真赤い糸。結び目は蝶々のかたちをとる。解きやすいように。いずれ来たる別離の日のために。わたしたちのこれは、結ぶなんてものではない。この糸はわたしを縫いつけるのだ。永遠に解けることなく、沙代をわたしに残すように。誰ひとり、わたしに触れぬように。

 沙代はわたしをベッドに寝かせて、わたしの下着をおろす。するりとわたしの恥丘を撫ぜた。上衣の裾から覗く、下腹になまなましく残る傷にわずか顔をしかめて、またごめんねと呟いて口づけた。保健室から拝借したアルコールで消毒の真似事をする。いまだ薄い下生えが沙代のいかにも清潔そうな真白い指に触れる。わたしは見ていられないような心地になって目を逸らす。すると却って鋭敏に、沙代の気遣わしげな、努めてやさしくしようとしていることがよくわかるような手つきが感覚されるのだった。

「ごめんね。」

沙代はもう一度謝って、炙った針でわたしの陰部の皮膚を刺し貫いた。わたしは唇を噛んで耐えている。沙代はまた玲瓏とした、きれいな音をりりり、りりり、と立てながら、わたしの陰部を縫い合わせていく。日を浴びることがないから生じろい皮膚に、赤い糸と、薄らとにじむ血はよく映えた。わたしがこの生涯で一度たりとも目にすることのない、破瓜の血とおなじ見事な赤色である。

 わたしの膣口を塞ぐようにすっかり縫いきってしまうと、沙代はふたたび、アルコールを脱脂綿にふくませて縫い跡をなぞった。いまだ中学生のわたしたちには、衛生管理なんてまったくわからない。これからもきっとわからないままだろう。今だって、沙代がやるならば大丈夫だろうという出処のない信頼のもとで身体を明け渡しているだけなのだ。否、ことによると、わたしは自分の身になにが起ころうとどうでもいいだけかもしれない。誰がどうしようと構わない身を、いとしい沙代がどうかしたいというなら、喜んで差し出すまでである。

「おわったよ。」

沙代はそう囁いて、わたしを抱き締めた。

「ぜんぶ、おわった。おわったの。」


 その翌朝に、沙代は学園を発ってしまった。学園で暮らした二年間、まとめられた荷物は思いのほか少なかった。沙代のいたぶんできた空白だけが、沙代がここに、わたしといたことを主張していた。だけれどここにもいずれ、ほかの少女がやって来て、甘い寂しさを漂わす空白を埋めてしまうのだろう。沙代は殆どわたしのベッドで眠ったから、沙代のベッドが空なのはつねの光景であって、沙代の香りもわからなかった。



 あれからもう一年が経って、わたしの同室には新しい少女が宛てがわれた。みじかい茶髪の快活そうな、愛らしい少女だ。沙代とは似ても似つかないタイプの。彼女の荷物でわたしたちの部屋はおおきく変容して、目にも賑やかになった。彼女が友人を呼ぶことも多いものだから、わたしが室にいることも減った。彼女らの無遠慮な手で、足で、声で、わたしたちの室は塗り替えられる。沙代の痕跡をとどめるものはもうなにもない。

 しかしながら、沙代はいまだ色濃くわたしのなかに残っている。

 わたしが息をするたびに、歩くたびに、りりり、りりり、と沙代の声がする。あのうつくしい喉は、鈴は、わたしのなかに埋められて縫い合わされてしまったらしかった。沙代はわたしのもう使いものにならない、いびつな胎のなかにいた。永遠に生まれ得ないこどもであった。わたしの腹で、やすらかに、りりり、りりり、と寝息を立て続けている。それはずっと、わたしの生きる限り。りり。沙代の声がする。ことばではない、なにの意味ももたない音だ。意味をもたないものこそ美しい。沙代はずっとわたしを見ているのだった。なにも伝えられぬ、無用な声だけを立てて、わたしと共にあるのだった。

 りりり。りりり。わたしの身体の奥で絶えず鳴り続ける鈴の音は、わたしと沙代の、永遠の証であった

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