孕む

 千里は人の腹を撫ぜるのが好きな少女だった。あたたかくって、やわくって、いかにも命という感じがするでしょう? というのが彼女の言である。彼女はなかに赤子がはいっているかのようにいとおしげに、わたしのがらんどうの腹をさするのであった。それは千里がいないときにも自然と自らの腹をさするくせがつくくらいに、慣れたおこないとなっていた。千里はわたしの腹のなかに存在しえぬものでなく、たんにわたしひとりを慈しんでいるのだろうけれども、わたしは彼女の笑顔の奥底にうすら寒いものを感じないでもなかった。彼女はわたしの腹を撫ぜながら、その目を弓なりに細めて微笑した。いまだ齢十四にして、細められた、その濃い睫毛のあいだから覗く瞳は、いかにも老練そうな光を湛えているようにも思われた。


 千里とわたしがただならぬ関係になったのは、中学一年のころであって、当時わたしたちはまだ十三歳であった。

 千里はいまとかわらずに、その豊かな栗毛を頭の後頭部でひとつに結わえていた。そのころとくらべて、上背はじゃっかん伸びたらしい。わたしたちはいまだ成長期の只中にある。そのほかにはさしたる変化はない。まるく秀でた額も、下がり気味に生え揃った眉も、色素の薄いたれ目も、すっきりと通った鼻梁も、やや肉厚だが小ぶりな唇も。おとなに近づくなかで、わずかずつの変化はあるはずだけれど、ほとんど出会った当初の千里のまま、愛らしい少女のままである。

 千里とわたしの接点といったらクラスメートであることくらいで、そのほかになにか部活だとか委員会だとか、はたまた家が近所だとか、そういったかかわりがあったわけではない。千里は放課後の教室にわたしを呼び出すと、「好きです。付き合ってください。ひとめぼれなんです。」ともじもじとその両の手を握り合わせていた。たぶんそれまでにわたしたちが言葉を交わしたのは片手で数えられるくらいのことで、しかも内容もごく事務的なものであったはずだ。一目惚れというならば見目なのであろうけれど、千里のほうがわたしよりも余程整った顔だちをしていると思う。彼女がわたしのどこを好んだのか理解ができなかったけれども、好きというのならば好きなのだろう。わたしはやや当惑しつつ、友達からならば、そう言った。

 それからわたしが千里に絆されるのは早かった。千里の表情はくるくると変わって、彼女の思うところを如実にわたしに伝えた。千里の声はよく耳に馴染んだし、彼女のする話も快いものだった。彼女をいちど好ましいと思ってしまえば付き合おうと思うまでにそう時間はかからなかった。なにせいまだ恋の一つも知らない中学一年生であった。千里のことはたしかに好ましいとは思っていたけれど、それが友人にむける好意の範疇を出ていたかと問われると答えに苦しむだろう。それはなかば興味本位ですらあった。

「ねえ、千里。こないだのね、返事、いまさらなんだけど。」

わたしがそう切り出すと、途端千里は目を逸らして、どぎまぎとした表情をつくった。彼女の抱く期待と不安がありありと感ぜられた。その鼈甲いろをした瞳はちらちらとひかってわたしのほうを窺う。そんなことをする気はないけれど、千里はからかい甲斐のある少女だと思った。

「付き合ってみよっか。」

千里は肩を跳ねさせて、わたしの瞳を覗き込んだ。こくこくと激しく首肯すると、わたしをぎゅうと強く抱きしめる。夢みたい、夢みたい。彼女はわたしの身体に縋りついて、呟くようにそう言った。陶然とした、なにか酔ったような口調だった。千里はその白い顔を真っ赤にして、

「ねえ、好き。好きだよ。大好き、愛してる!」

と、わたしの耳元でちいさく叫んだ。

 それからわたしと千里のしたことというのは、抱擁と唇をあわせるだけのキス、手を繋ぐこと、デート、添い寝、それに腹を撫ぜることくらいであった。わたしたちはお互いが初めての恋人であって、性知識も保健体育で習ったそれていどしか持ち合わせていなかった。しかも女性同士である。なにをしたらよいのかわからないのも当然であるし、なにかすべきだ、あるいはしたいという欲求もすくなくともわたしは持ち合わせていなかった。千里は基本的にはごく正直でわかりやすい娘であったから、彼女がその手の欲をもっていたらわたしはきっと気づいただろう。わたしたちの恋は肉欲をともなわない、ごく幼いものだったはずである。

 わたしが肉体を意識したのは、千里がわたしの腹を撫ぜるときくらいのものであった。

 千里のてのひらはちいさくて、すべすべとして暖かかった。その手がわたしの腹のうえを這いまわるのだ。千里のてのひらはわたしの腹を、臓物の容れものとしてのみある腹を、いずれ子の容れものとなりうる腹を、やわらかな手つきでさするのだ。容易に壊れうるなにかに触れているみたいに、臆病ささえふくんだやさしい手だ。わたしの腹を見つめるまなざしもどこか不安げでさえあった。千里はなぜそんなにも幸せそうに、同時に怯えてわたしの腹をさわるのだろうと、わたしはずっと考えていた。なにか恐ろしいのならばやめてしまえばいい。しかしながら千里の表情があまりにそれだけで満たされているように思われたので、それにかんしてわたしはなにひとつとして問うことはできないでいた。そのときだけ、千里は愛らしい少女ではなくて、なにか恐ろしいものとしてのみわたしの前に立ち現れていた。わたしはじっと黙り込んで、ただその瞳が不思議に神妙にひかるのを、目を伏せながら時たま窺うばかりであった。


 わたしたちが子を成すような行為に及んだことはむろんのことなかった。そもわたしたちは女性どうしであったから、生殖を目的とした接触はできようもないわけではあるけれど。だけれども、わたしの腹が、千里と交際を始めた日から徐々に徐々に、ふくらみ始めたことは事実である。白い、筋肉も脂肪もあまりつかない、未成熟な薄っぺらな腹は、おなじくほそい身体のなかでそこだけ不自然にぼこりと盛り上がった。それは千里がわたしの腹を撫ぜるごとに、その大きさを徐々に増していくように思われた。それは太ったにしては不自然なふくらみかたであった。人に勧められて医者にかかってみても、何事もないようだと言われるのみだった。わたしは健康そのものであるらしかった。得心いかないながらも何も言えないままに部屋に帰り、わたしはみずからの腹をさすってみた。

「元気でしょう? 大丈夫、なにも気にすることないよ。」

千里もわたしの隣へすわって、わたしの腹を撫ぜる。気づかわしげに、わたしをやさしく抱き締める。千里の腕のなかにおさまりながら、そのふくらみは、質量は、依然としてそこにあるのだった。

 しかしながら、人びとのわたしに向ける視線が心配から不審に変わる以前に、そのふくらみは消えたのだった。


 ある朝のことだった。

 わたしのふくらんで、セーラー服の裾を持ち上げていた腹は急にしぼみきり、もとの平坦さを取り戻した。そしてわたしの脚のあいだ、シーツはずぶぬれになっていた。その中央でひとつ、てらてらと濡れ光る肌色をした肉塊がひくひくと、おぞましく鼓動のみをしている。こんなものでも生きているらしかった。わたしはそう感じると恐ろしく、どうすることもできないでただそれを眺めていた。隣で千里が目を覚ますと、きれいな笑みを浮かべてそれを撫ぜた。その手つきはひどくいとおしげで、ゆうべにもわたしの腹を撫ぜたそれとまったくおなじものなのであった。

 千里はその肉塊を抱き上げた。あたまと胴の区別すらつかない、ただ人間の皮膚のようなものに覆われたそれに頬ずりをする。肉だ。肉という以外の形容をわたしは知らない。わたしがこれまでに目にしたどのいきものにも当てはまらない形状をしている。千里がそれに触れるたびに、彼女の白い頬に、首筋に、わたしの血液か羊水か、粘度のたかい濁った液体がべっとりと付着する。千里はそれを気にも留めないで、ごく穏やかで、幸せそうな微笑をこちらに向けた。花が綻ぶどころか、盛りをすぎてなかば腐臭のようなあまったるい匂いを放つ、指先でごくやさしく触れただけで花弁から蕊からすべてほろほろとくずれる花のような、蕩けるような微笑であった。

「ありがとう。あたしたちの子だよ。」

 千里の笑顔とおなじく、むせかえるほどに甘い芳香で満ちた温室のような声色でもって放たれた言葉と重なって聞こえたそれは、きっと赤子の泣き声だった。

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