白砂

 バスタブは白色をして、蛍光灯の光をぴかぴかと眩しく反射する。浴室はぜんたいが白いものだから、掃除の行き届かなさがよく目だつ。床に生えた黴のうす赤さをスポンジで拭いながら、わたしは溜息を吐く。これでも彼女がここに住まい始めてからはきれいになったほうだ。彼女はきっときれい好きで、生活感だなんて言葉はそぐわない。彼女に似あうのはドールハウス。彼女が生きるためでなくて見られるための存在であるのと同様に、彼女の住まう部屋は生活するためでなくて彼女の背景として見られるためにあるべきだ。ねえ、そうだよね。わたしはスポンジを置いて、バスタブに肘をついて彼女に話しかける。ばらいろをした唇は、ほうと吐息でも漏れそうなぐあいにうすくひらかれたまま、意味ありげな沈黙を続けている。


 帰宅は十七時過ぎだった。すでに空はうす赤い色をして、風はひんやりと涼しい。寒いくらいだ。もの寂しげな秋の夕暮れであった。わたしは玄関の扉を開けて、靴を脱ぐ。扉に鍵。ドアチェーンはかけない。わたしはきっと、何かが起こるのをずっと待っている。何かというのはほんとうに何だってよくって、それが犯罪被害であっても構わない。それだけのために、わたしはあえて無防備に過ごす。夕食はあと。とりあえずシャワーを浴びようと浴室の扉をひらく。ああタオルをわすれている。着替えはあとでもよいけれど。そんなぼんやりとした思考は、なかに視線をやった瞬間に吹き飛んだ。

 浴槽のなかに女がいる。

 癖のある栗毛を胸元まで伸ばした女だ。浴槽のなかで、座るような姿勢をとっている。両腕は身体に沿っておろされて、両脚はゆるやかに曲げられている。顔はややうつむきがちだ。目蓋は閉ざされて、濃い睫毛とふくらかな涙堂が静かにまるい頬に影をつくっている。うすく開かれた唇はやや薄めで、皺がなく艶艶と清潔である。やわらかなばらのいろをとる。肌は蒼白で、蛍光灯の安っぽい光の似あわない高価な絹のようだ。身体つきは全体的にやや細身ではあるが、女性らしく均整がとれている。骨や筋の浮く箇所も、貧相さはいっさい感じさせない。きっと骨のかたちまで整っているのだ。浮き出した首の筋や、鎖骨、肘関節、尺骨、骨盤、膝蓋骨、すべてつぶさに見てとれるのは、彼女が一糸まとわぬ裸体であったからだ。

「何ですか。」

わたしはしばし彼女に見惚れて、そして、ようやく声をかける。もしかしてねむっているのだろうか。他人の家の浴室で、全裸で、家主が帰ってきても動じない。動じないどころでなく、かすかな身じろぎひとつしない。意識のある人間であれば、そんな行動をとられるはずがなかった。彼女がよほどの変人である可能性も否定はできないけれども。

「あの……。ここ、わたしの部屋だと思うんですけど。」

彼女は静かであった。幾度呼びかけようと、そのながい睫毛のわずかにふるえることすらない。うすい腹も、もの言いたげな唇も、いっさい動かない。静かすぎる、とわたしはややに思い至る。彼女は生きている? わたしは死人をハッキリと見たことがないから、彼女の肌のいろの青さが、死人のそれであるか生来のものであるか、あるいは熱心な化粧の産物であるかの判別がつかなかった。けれども、それはたしかに白すぎるような気がする。あのやわらかそうな肌の下に、たしかに血は通っているのだろうか。すみません、と小さな声で断って、わたしは彼女の頬に手を触れる。わたしのもった予感どおりに、ひんやりとつめたい肌であった。

 彼女は身動きひとつしないで、わたしのてのひらを甘受している。わたしは彼女の首筋に手をやって、脈をさぐる。ない。顔の前に手をやる。呼気はない。すべて当然のことであった。彼女は生きていないらしかった。


 わたしはしばらく茫然と立ち尽くしてから、通報、とスマートフォンを取りにもどる。帰ったら浴室に裸の女性がいて、おそらく死んでいて、それで、ええと。荒唐無稽な話である。わたしがなんらかの聴取を受けるのは、疑いをかけられるのは、間違いのないことであろう。だるい。真っ先にそう思った。この女とわたしとのあいだのことにかんして、そのような野暮なことがおこってたまるか。それに、自分から何かを起こすのはわたしのするところのことではない。わたしはあくまでじいっと黙り込んで、何かが起こるのを待っているだけ。電話をかけるなんて行動はとりたくなかった。そうだ。確かに何かは起こって、わたしはそれにたいして、ずうっと受動的に流されて、そのなかでしたいと思ったわずかなことだけして生きていけばよい。そうするべきである。

 美しい女である。美しい女は好きだ。女好きということはないけれども、確かにわたしは面食いのきらいがあって、美人に見惚れて恋人に怒られたこともしばしばあった。美しい女というものに人格を期待しているわけではないから、意識の有無なんてどうだってよく、ただそれを自分が所有できるというのは喜ばしいことでもあった。いずれその肉体が腐り落ちることだけが気がかりだったけれど、通報でもされて捕まるのならばそうなってしまうとよい。そうなるものだったのだと思うだけのことである。もとよりシャワーばかりで浴槽なんてたいして使わないのだし、それが埋まっていても問題はない。おそらく死体を濡らすのはあまりよくないから、彼女を覆うことのできるものくらいは買ってこないといけないだろうけれど。

 その日のうちにわたしはホームセンターに足を延ばして、透明のビニールシートを買った。ふだん重い腰が驚くほど軽かった。彼女に湯を浴びせないよう注意してシートに覆われた彼女は、繭のなかの蛹のようだった。彼女は羽化して何になる? きっと腐りゆくだけだ。彼女の腕は繭をやぶるほどの力をもたない。だから? だから。秋口の涼しさのなか、彼女の身体にはいまだ何の変化もおこっていない。彼女が呼吸をするのを止めてからどのくらい経つのだろう。できるだけ長いこと保つとよいけれど。わたしはそんなことを考えながら、換気扇のスイッチをいれた。

 ドアチェーンはかけてある。彼女のいるあいだ、しばらくは、ほかになにも起こる必要はない。



 それが、もう二月ほどまえのことである。

 彼女は、いまだわたしの部屋に現れた当初といっさい変わりがない。いくら気温が低いとはいえ、彼女の身体は腐敗の兆しをいっさい見せず、だからといって生きているようすはなく、変わらず清潔でまっさらな、かすかに石鹸の匂いのみのする肌をしている。わたしはそれを訝しみながら、同時にうれしく感じてもいた。これが腐り落ちるのは大きな損失である。ただ、わたしが彼女に飽いたさいの諸々の始末を考えるとひどく憂鬱だった。幼い頃に買い与えられた人形のように、ぬいぐるみのように、簡単に打ち捨てるわけにはいかないからだ。いまだわたしは彼女を好きだけれど、すべてはいずれ終わることだ。彼女が腐ってしまえば、わたしと彼女の生活はわたしが彼女を好ましく思ったまま終わっただろうに、わたしの彼女への情が冷めてからしか終わりえない。それが悲しいことに思われた。彼女をずっと好きなままでいたかった。

 美人は三日で飽きるとはいうけれど、わたしは彼女を見つめることにいまだ飽かないでいる。彼女の顔だちは、身体つきは、見つめるごとに同じに安らかな表情でもってわたしを迎え、しかしわたしに異なった印象を与え続けるのだった。鏡面が静かであるように、彼女もまた静かであって、わたしの室の、わたしの、光も陰も、すべての混濁をも映し出すのである。ともすればわたしは永遠に彼女を好いて、ふたりきりで生きていけるのではないだろうか。そんな予感さえするほどに、わたしは彼女に入れ込んでいる。しかしながら、すべては一時のことである。わたしはみずからの唇を彼女のそれを近づける。口紅だろうか、青褪めた顔のなかでひとつふしぎに血のいろを残した唇の、やわらかさとつめたさを夢想する。


わたしが彼女から離れた途端にインターホンが鳴った。わたしは渋々浴室の扉を閉め、はあいと返事をする。鍵をあけ、扉をあけると、ドアチェーン越しに友人が立っている。玄関口に流れ込むのは冷気、それと彼女の熱い呼気である。酒の匂いがする。わたしはため息をついた。

「どうしたの。」

「いれてよう、さむいんだって。」

わたしがドアチェーンをはずすや否や、彼女はブーツを脱ぎ捨てて強引に部屋へとはいりこむ。健康そうにまるい顔は赤らんで、口調は普段よりいっそう間延びした調子である。すっかり出来上がっているようすだった。

「泊めてよ、いいでしょう。」

彼女はそう言いながら、コートを脱いで炬燵に潜り込む。図々しい女だ。なんでもない顔で他人に踏み込んでくる。寒かったあ、などと漏らす。こうなった彼女はなにを言おうと帰ろうとしないだろう。

「ベッドはわたしがつかうからね。」

「えー。」

彼女はもぞもぞと炬燵布団にその肩を埋めた。健康的な肉のつきかたをしているけれども、華奢な骨格を感じさせるせまい、頼りなげな肩であった。襟ぐりから覗くデコルテはうす赤いいろをしている。まさしくこの白い皮膚の下には赤い血が通っているのだろう、あたたかないろだ。

 彼女はしばらくそうしてじっとしていたけれど、にわかに立ち上がった。

「あ、化粧落とさなきゃ。シャワー借りるね、」

そう言うが早いか、止める間もなく彼女はがらりと浴室の扉をあける。折れ戸の開きぐあいにあわせて、浴槽が見える。膝頭と、そこから続く脛と腿が覗く。心ぼそく思われるほどに白い。栗いろをしたまるい頭が覗く。彼女の身体は、うす暗がりのなかでじいっと、その奥に光を溜めているみたいにほの明るい。

 彼女は途端静止した。乱れた髪がおくれて背におちる。厚手のニットの下、身体のラインはその殆どが隠されているけれど、あれはきっと肩甲骨のあたりだ。薄い皮膚を隆起させるもの。翼ではない。

「カンナ……?」

静かな声であった。酔いを窺わせない、つねの彼女よりもずっとひそやかな声色をしていた。彼女の肩口のわずか震えるのを、わたしはたしかに見た。彼女の後姿は、少女そのものだった。


 沈黙であった。寒々しいくらいの静けさだった。彼女はわたしを振り返って、

「なんでカンナがここにいるの。」

と訊いた。早口に発されたそれは、小さいがキッパリとした声だった。わたしを糾弾するような響きをしている。予想外の反応にわたしは狼狽して、カンナ? と訊き返すのがやっとのことであった。

「なんでカンナがあんたのとこにいるの。」

「カンナって名前なの?」

「……名前も知らないの。」

彼女は呆れた調子でそう言った。その口ぶりは幾分か冷たげだ。先程までの機嫌のよさはすっかり立ち消えて、ただその肌が赤さを残すのみである。

「秋ごろ、部屋に帰ったら、いたの。」

「は?」

「……ほんとうだよ。帰って、シャワー浴びようと思って、浴室あけたら、いた。」

彼女は訝しげにわたしを睨みつけた。ていねいにカールされた睫毛に囲われた瞳は据わって、冷たげに光を反射する。わたしの姿が映り込む。カラーコンタクトを着けているのだろう、瞳のうえに貼りつくようにして動かない模様が不気味だった。

「警察とかに、連絡したの。」

わたしはかぶりを振る。

「ううん。誰にも言ってない。」

「なんで? ヤバいでしょ、これ、絶対。」

「ヤバいと思うけど。」

けどじゃあないんだよ、と彼女はわたしを咎めるような目つきをした。意図して表情をつくらずとも朗らかなふうに映る彼女の顔は、いかにも不機嫌そうにゆがめられている。このカンナという女は彼女にとってなにか重大な存在なのだろうか。わたしはおそるおそる口を開く。

「……カンナ、さん、って、誰。」

「あたしの元カノ。」

彼女の視線は浴槽のなか、カンナに向けられていた。淡いいろに塗られ、整えられたまるい爪がゆっくりと、カンナのすべらかな肌に触れる。細い指は顎をたどって、頬をなぞる。

「今でも好きなの?」

口をついて出た問いにわたしは後悔した。わたしが撤回しようと口をひらくまえに、どう思う? と彼女は自嘲ぎみに笑った。卑屈そうな横顔だった。好きでもない女に、こんなに傷ついたような顔をして、こんなにやさしい触れかたをする女がいるものかと思った。ともすれば泣きそうなくらいの声をして、彼女はまだ酔いが醒めていないのだと言った。彼女の言動の不安定さを見るに、それも間違いではないように思われた。

 グラス一杯の水を出すと、彼女は黙ってそれを飲んだ。血色のよい喉がうごくのを見た。彼女は流しで顔を洗ってから、炬燵布団に潜り込んで目を瞑ってしまった。洗われた頬はさらに赤さを増したようで、目を閉ざした幼い顔は、熱で寝込む子供のような印象を与えた。


 翌朝早くに目が覚めた。わずかひらかれたカーテンの隙間から見えたのは、冬らしい、明るい白さをした曇りの朝だった。目を覚ましたのか、彼女も炬燵から這い出した。

「おはよう。ごめん、起こした?」

「あなたが殺したんじゃないんだよね。カンナがここにいるのは、カンナの意思じゃないんだよね。」

彼女はわたしの言葉を無視して、寝起きとは思えぬ明瞭な口調でそう言った。そのまなざしがあまりに真剣で、今朝の空気みたいに冷たく澄んで、わたしは恐ろしい気持ちがした。そのまっさらな素肌のうえ、目尻だけがアイラインの残滓か、濁って黒い。

 わたしが首肯すると、彼女は安心したような顔をした。

「また、会いに来るから。」

そう言って、彼女はマスクをつけてコートを着こむ。金にちかい、あかるい茶髪が彼女の背でかわらず乱れていた。ひらかれた玄関の扉から、あいまいな色調をした外の景色がみえる。彼女は億劫そうにブーツに足を収めると、足を踏み出す。彼女の足音は、なにかを拒絶するみたいにきびしい響きかたをした。

「じゃあ。」

彼女が行ってしまったあと、わたしはしばらく呆けていた。ようやく扉を閉め、鍵を閉める。この部屋は、わたしと彼女、否カンナ、二人だけのものではなくなってしまったらしかった。ため息を吐く。破壊であった。もう、なにが起ころうとよいような気がした。


 それから彼女は事あるごとにわたしの部屋を訪れた。帰路を共にする機会が増えた。帰路では明朗な常の彼女であり、しかし部屋に着いた途端に毎度しいんと黙り込んだ。浴室に踏み入る彼女の背は、つねにこちらへの完全な無関心を示しているように思われた。この人はカンナが好きなのだと実感した。彼女のことを殊更美しいと感じたことはなかったけれど、カンナと対峙する彼女の真摯な、彼女の外の世界に何ひとつ期待をしていないような、ごく凪いだ横顔はひどく美しかった。美しいカンナがそうさせるのかもしれなかった。

 彼女は浴室ではきまってカンナと二人きりになりたがるから、カンナにかんして、否ほかのことにかんしても、話を聞けるのは浴室を出てからであった。その日はわたしの部屋で二人夕食をとって、酒を飲んだ。

「どんなひとだったの。」

「……魔性、かな。」

彼女は空になった皿を見つめてそう言う。彼女の瞳には皿の白さが映りこんでいる。

「見ればわかるでしょ。とびっきりの美人。自由で、奔放で、ひとところに留め置けない。人をたらしこむのが巧い。無自覚。ずるい女。あの子といるとみんな傷つく。そのくせ、傷つきやすくて、脆くって、そんで……、」

彼女は両のてのひらでその顔を覆った。その手はちいさくて、ややまるいつくりをしている。同じく小作りな爪はそろってくすんだピンクいろに塗られている。つややかに、蛍光灯の光を反射する。彼女の声は高く震えていた。涙声だと思った。

「カンナが死んじゃってよかった。」

 それから彼女は、わたしから顔を逸らすように席を立ち、ふたりぶんの皿を下げた。キッチンからする水音を、わたしは何か不安な、痛ましい気持ちで聞いていた。

 彼女はそれから居室には帰って来ず、浴室に篭っているらしかった。わたしがそちらへ向かうと、彼女はカンナの頤をつかんで、その唇に口づけるところだった。わたしは息を呑んで引き返そうとする。途端、カンナは泥になって、排水溝に吸い込まれていく。彼女はするすると、水みたいに流れる、肌理のこまかな白泥であった。彼女はカンナの前で、項垂れて座り込んでいる。そのていねいに巻かれた髪の隙間から嗚咽が漏れ聞こえた。彼女がてのひらで浴槽の底を流れゆく白泥を掬おうとしては、その指の隙間からすべて溢れていった。程なくしてカンナであった白泥は完全に流れ去り、浴槽にのこるのは人ひとりぶんにしては覚束ない量の骨片のみであった。それは真白いいろをして、ライチの果肉のように透き通ってみずみずしく光る。

 わたしが近づいて、骨片を指先で拾い上げると、それはてのひらのうえでほろほろとくずれて砂になった。海岸に敷き詰められているような白砂であった。わたしはそれをすべて小瓶に詰め込んだ。小瓶ふたつを満たすと、浴槽のなかはすっかり空になっていた。わたしが彼女に小瓶のひとつを渡すと、彼女は栓を抜いて一息に飲み干した。咳き込む顔は真っ青で、頬は濡れ光り、涙の跡が幾筋も窺えた。わたしはその背中に触れられもしないで、ひどく悲しい、同時にひどく満たされた気持ちで眺めていた。安らかだった。わたしがカンナを壊してしまうことも、彼女に飽くことももうないのだと思った。思ったとおりに、骨になっても彼女は美しかった。小瓶は蛍光灯の光を眩しく反射して、きらきらとひかる。白砂は光を吸い込んで、穏やかな明るさのなかにいる。

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