ミルクティ

「別れようと思うの。」

それは彼女の決まり文句だった。

 頬杖をつく彼女のまるい、砂糖菓子みたいな質感をした頬を、立ち上がる湯気がさらにやさしくぼかす。マグカップを満たすミルクティは、彼女の髪と同じいろだ。あたたかな空間のなかで、しかし彼女の声はひとつ冷えていた。

「でもさ、そのひとのこと、好きなんでしょう。」

彼女を慰めようとするわたしの声色はなんとなく惨めで情けない。彼女のことは好きだけれど、ずっと好きだけれど、彼女とかかわることはわたしにとって自傷的で、ばかげたおこないだと思った。

「好きだよ。たぶん、好き。」

「たぶん?」

「好きとかね、嫌いとか、ほんとうのところはぜんぜんわかんないから。」

睫毛のしたで、彼女の瞳はおそらく炬燵の天板をみつめている。わたしのことなんか目にいれないで。わたしのことを見てほしいだなんて考えるのは、わたしがどうにも愚かだからだ。彼女は結局、なにひとつわたしのものにならないのだから、一時の視線くらいくれてもよいじゃあないか。

「でも、おそらく、好きではあるんでしょう。」

「だけどね、つらいんだもん。」

彼女はそう言ったきり黙り込む。

「……わたしなら、そんなこと考えさせないのに。」

それは溜息みたいに漏れた。常から思っていたことだった。我ながらフィクションめいた台詞に、わたしは目を逸らす。気恥ずかしさがさっと顔を熱くするのを感じた。彼女はゆっくりと瞬きをして、わたしのほうに視線をむける。見定めるみたいな、なかばわたしのことを蔑んでいるみたいな目つきだ。瞳は卑屈げにひかる。きっと彼女はじぶんのことを好む人間のことを、多かれ少なかれ蔑まずには生きていけないのだろう。むかしから、己を肯定することのへたなひとだった。

「そんなこと言う人ほんとにいるんだ。……あのね。全部むだなんだよ。あたしね、あたしが死ぬまできっと満足しないよ。もしかりにあなたが私の恋人になって、あたしがあなたを殺しても、あなたがそれを受けいれても、きっと、ずっと満たされないの。」

「じゃあ、わたしが殺してあげる。」

咄嗟に放ったわたしのことばに、彼女はきょとんと、その目をまるくした。にわかに彼女のまなざしは、無垢な童女めいた無防備な色を帯びる。ようやく彼女の瞳がわたしを正面にとらえた。その唇がうごかされると、白い、飴細工みたいな歯の隙間から、赤い舌が覗いた。タルトのうえのラズベリーみたいに艶艶としている。

「あたしを?」

わたしは首肯した。彼女はじいっと、その空洞みたいな黒い瞳でわたしを見つめている。

「できるの?」

挑戦的な目つきだ。彼女はわたしのことを信用なんかしていないのだろう。感情を吐き出す相手として、なにを言っても自分を嫌うことがなく、その内容をほかに漏らすことがなく、また嫌われても構わないと思っているから、選ばれているだけのことだ。彼女はわたしを友人とすら思ってくれていやしない。事実、彼女がわたしに連絡を寄越すのは、きまって彼女が愚痴をいいたいときだけだった。

「できるよ。」

わたしは彼女の瞳を覗き込む。彼女の瞳に映り込むわたしは、いかにも切実そうな表情を浮かべていた。彼女の言葉を待たないでわたしは続ける。

「わたしね、あなたが思うよりもずっと、あなたのことが好きだよ。あなたのためならば、なんだってできる。」

彼女は狼狽えたように、視線を逸らす。ねえ。わたしが身を乗り出すと、彼女はその身を退ける。その唇は言うべき言葉を探してなかばひらかれ、しかし何も言えないで、視線だけが明確にわたしを捉えなおしていた。

「見せてあげようか。」

わたしは彼女の首筋に手を触れる。彼女はわたしの手に触れる。怯えたような、よわよわしい手つきだ。そういえば、彼女の手に触れられることは初めてだった。こんな状況でもわたしはそれがうれしかった。こんなにもうれしいことならば、一度くらいむりやりにでも手を繋いでしまえばよかったと思った。身体は思うままに動いて、わたしの手は、彼女の指に自らのそれを絡める。かぼそい指先は冷えている。

「わたしのこと、信じてね。きっと、信じてよ。あなたはわたしのことを信じて死んだの。」

彼女の、きれいに整えられてつるりとした爪をなぞる。ピンクベージュ。甲虫みたいに冷ややかで硬い。

「それでね、わたしのこと、すこしだけでも、好きになってね。」

わたしは彼女の手を離して、首へと手を添え直す。手に力を籠める。細い首筋を掴むのは容易いことだ。彼女の白い、梔子の花弁みたいにやわらかい、しっとりと濡れたような肌は、見る間に紅潮していく。その頬から、顔ぜんたい、耳、首筋、肩口。内側から、赤い炎が燃えて、そのひかりに照らされるようだ。ね、やだ、ねえ、ほんとに、くるしい、たすけて。喘鳴の隙間に、言葉と、それになりそこないの声が漏れる。彼女は幼子のようにかぶりを振る。喉から鳴る音も、彼女の表情も、なべて苦痛に濁っていて、しかし彼女は可愛かった。髪が華奢な肩のうえで乱れる。わたしの片手でも自由ならば、直してあげられるのに。

「好きだよ。」

彼女はものも言わず、ただつよく首を振る。うん、あなたがわたしのことなんか好きじゃないことは、十分すぎるくらいに知っているよ。わたしはうなずく。見開かれたその目は涙にうるむ。マスカラが目許で黒く滲む。彼女はじぶんの化粧にはおそらくこだわりをもっているから、わたしが直すのは嫌がるだろう。そも彼女は、わたしに触れられることじたい疎ましがる節があった。しかしながら、化粧崩れのままに放置するよりはましだろう。そんなことを考えながら、腕に力をいれて、身を捩る彼女を押さえつける。体重をかける。彼女の生きているさまがかわいそうで、同時にひどく煽情的だった。昼下がりの情事。人を死に至らしめながら、想起するものは生そのものであった。早く死ななくてはならない。彼女の衰弱を手のうちに感じながら、その顔だちを眺めている。レースのカーテンに透過された太陽光が、彼女の苦悶をやわらかく照らしていた。テーブルの上で、ミルクティは静かに冷えていく。

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