梔子

 梔子の鉢植えを庭に植え替えた。春もなかばを迎えるころのことだった。


 地面に敷き詰められた桜の花弁は、ちょうど見たばかりの彼女の遺灰みたいに、うすく濁ったピンクいろをしていた。ゆうべの雨のせいで花は散ってしまったらしく、木々は葉をのこすのみである。やわらかで薄い花弁は、雨水を吸いこんで地面の窪みに溜まる。踏みつけると、花々はぐちゃりと泥を踏むようなやわらかい感触とともに、靴を汚す。いずれ泥になる。わたしはなるべく水溜りを避けながら、春先の街並みを歩いた。頬を撫ぜる風は大分やわらいで、ほの甘い花の匂いを孕む。春はみだらだ。春霞が立ってあたりを白くぼやかせるのは、そこに隠すべきものがあるからに相違ないのだ。猫は恋。人間は? そういえば人間というものは発情期が常であって、春というよりもむしろ人間のほうがずっとみだらであった。わたしは呼吸をととのえながら、彼女の遺灰をふくんだ頬を静かに押さえる。肉のないからだは清潔だった。肉のあったころはどうであったにしろ。過ぎたものは、褪せたものは、どれも美しい。それをわたしの唾液がとろとろとふやかして、いきものらしくよごしていく。

 玄関のドアノブは硬く冷えている。金属はいつだって拒絶的だ。室内にはいると、わずかに温い空気が滞留していた。彼女のつかっていた香水の匂いがわずかにのこっていた。うす甘い。わたしはベランダに置いたままの鉢植えを両手で抱え上げた。土というのは重いのほかずっしりと重たい。それを庭まで運び出して、くろぐろとしてやわらかな土のなかに指をさし入れると、表面にくらべてあたたかく、いきものみたいに湿っている。爪と肉の隙間に砂粒のはいる感触が気持ち悪い。わたしは注意深くその根を掘りだして、庭土に植え替える。この手のことは彼女の趣味であって、わたしが手を出すことはいっさいなかったからこれでよいのかなだなんて、ぼんやりとその葉に目をやっていた。梔子は常緑樹であって、つやつやとした葉は寒風のなかをじいっと耐え忍ぶ。彼女がこれを見たら怒るだろうか、素人目になんとかそれらしく見えるように移し終えると、わたしはその根元に屈みこんだ。口をひらく。どろりと、彼女の遺灰で白濁した唾液が地面に垂れ落ちていく。すべて吐き出し終えると、わたしは部屋にもどる。いつの間にやら指先の皮膚がわずか切れていて、土の黒と、指先の白に、一抹の赤が混じる。問題のないごく軽微な傷だのにひどく鮮やかだ。



 初夏のことであった。庭はあまい香に満ちて、梔子の白い花弁は夜闇の黒さに浸されている。彼女の遺灰に育てられた梔子がようやく咲いたのだった。ひらいたばかりの花は、いまだ清楚な姿をして、しかし甘い香りでわたしを誘う。わたしはその一花に、引き寄せられるように接吻した。やわらかな、肌に吸いつくように濡れた花弁に唇が触れる。馥郁とした香に噎せかえりながら、わたしは自らの唇が笑みをかたちづくるのを感じた。ほう、と溜息を吐いた。

 彼女の唾液の味であった。

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