ん、とぶっきらぼうに差し出された彼女の拳から、わたしのてのひらに、ころんと転がりおちてきたのは、真っ白い彼女の乳歯だった。



「ここの歯。……みえる?」

わたしがなんで? と訊く前に、彼女はおおきく口をひらいて、その歯のかつてあったところを指し示した。白い人差し指が、唾液にひかる肉色の口内によく映える。行儀よくならんだ歯列のなかで、彼女のひとさしゆびの先にある空間だけがぽっかりと空いている。

「歯の抜けたあとの歯茎の、肉のかんじ、自分で触るとなんかきもち悪くない?」

彼女は口をとじてからそう言った。わたしは躊躇いながら、肯定とも否定ともつかない声を出す。たしかにそうだったかもしれない。もう覚えていないけれど。わたしの歯はおそらくすべてもう生え変わってしまったはずである。永久歯はすこしいびつに、わたしの口の中で生えそろっている。

「触ってみる?」

彼女はわたしのあいまいな返答が気に入らなかったのかそう続ける。言うが早いか、彼女はわたしの、彼女の歯を載せていないほうの指をつかんで、彼女の口内へと導く。やわらかな唇にわずか触れてから、わたしの指先のはいりこんだ彼女の口のなかはひどく熱く感ぜられた。つるりとして硬質な、しかしながら唾液をまとってあたたかな歯に触れる。唾液はわたしの指にまとわりつく。どぎまぎとする。なにか、いけないことをしているような気分だった。歯茎に触れる。肉だった。繋がっていたものを失った、浮ついた肉がわたしの指先を甘受する。その奥には新しい歯がたしかに収まっている。

「ね?」

彼女はわたしの指を離す。わたしは彼女の口にわずかのあいだのみ収まっていた、その指を立てたままぼうっと見つめていた。ぬらぬらと濡れ光って、西日を反射する。ただの、水より粘度がたかいていどのただの液体であるのに、妙に妖しい光にみえた。わたしはどきどきと胸を鳴らしながら、首肯した。

「……だけど、でも、ええと。なんで?」

わたしはようやく、言い淀みながら最初に浮かんだ疑問を彼女にぶつけた。

「なにが?」

「歯。」

彼女は不思議そうな顔をした。瞳の表面で、わたしの姿がそのまるさにあわせてゆがんでいた。一見黒い瞳は、よくみるとごく暗い焦げ茶いろをしている。ダークチョコレート。わたしにはまだ苦い。

「ん。それ、あげる。」

彼女はなんでもないことみたいにそう言う。さも当然のことであるみたいに。

「だから、なんで、」

「要らないなら、捨てていーよ。」

じゃあ。彼女はそう言ったきり踵を返して、下駄箱のほうへいかにも身軽そうな足取りで歩いていく。真っ赤なランドセルは終わりつつある昼の光のなかであかくあかく、わたしの瞳を刺すようだった。わたしは彼女の乳歯を隠すみたいに握りしめて、いまだ濡れたままの人差し指をみつめている。てのひらのなかで、歯の根のするどさを感じながら、彼女に噛みつかれているみたいに錯覚した。


 というのが、彼女と、その歯にかんしてわたしのもっている記憶である。

 彼女はわたしとおなじ中学校に入学して、しかしながら当時よりもずっと疎遠になってしまった。彼女は利発的で、かわいらしい顔立ちをしていた一方で、わたしは冴えなくて目だたない一生徒であったからだ。おそらく住まう世界というものが違ったのだ。生徒数が増えれば、一緒にすごす人間の選択肢も増えるわけで、わたしみたいなくだらない人間とつるむ必要もなくなったのだろうと思う。わたしにだってわたしと似た気質の友人がいたし、特段気にすることもなかった。だけれど、彼女の歯だけは、いっとうきれいなハンカチにくるまれて、わたしの机の抽斗の奥底でたしかに眠っている。たまに取り出して眺めてみると、心許ないほどの小ささをしている。彼女とのかかわりはそれきりで、しかしながら、たしかにわたしのなかで質量をもったものであった。彼女とこれほどに関わることはもうないのだと思っていた。

発端は、人物画のコンクールに出品しないかという、美術教師の言であった。

 わたしは美術部に所属していた。部の規模は小さくて、部員も不まじめなものだから、ろくな活動がされていなくて、放課後の美術室というのはもっぱら部員らの溜まり場となっていて、絵を描く姿がみられることなんてまれなくらいであった。そのなかで、わたしはすこしばかり絵が上手かった。中学生にしてはという枕詞がはずれることはけっしてないていどの、ごくささやかなものである。そうして、すこしだけ気が小さくて、まじめなほうだった。それだから、生徒による絵が必要とされるたびに教師らに声をかけられた。面倒に思う反面、体よく押し付けられているだけだというのに、わたしの絵が認められているみたいな優越感に浸ってもいた。そのなかのひとつで、今回は人物画のコンクールに出す絵が必要なのだという話だった。サイズは六つ切りで画材は不問、かならず人物がメインに描かれていること。条件はそれだけだった。頼める? 美術教師は、彼女より背の低いわたしの顔を覗き込むようにしてそう問うた。ぶあつい眼鏡ごしに輪郭がゆがんでいる。

「はい。」

わたしは首肯する。わたしの描きたい人。わかりきったことだった。学校でかわいらしいと評判で、わたしの世界ではいっとううつくしい。人物といわれた時点で、わたしの頭にはもう彼女のことしかなかったのだった。彼女に断られたらなんてことは考えてすらいなかった。


 帰りしなに彼女の家へと赴いた。久方ぶりのことだった。インターホンを押すと、やや間をおいて気だるそうに彼女が出てきた。まだ帰ったばかりらしく制服姿で、つねは耳の下でふたつに結わえた栗毛が、すこし結び癖をつけたまま肩口に広がっている。おろされた髪が肩の曲線に沿ってゆるやかに曲がり、そのまるみに西日が反射して金いろに光っている。わたしは嘆息してその光景を眺めていた。完成されていると感じた。

「なに?」

「あっ、ええと。あのね。わたし、人物画のコンクールの絵をたのまれて。でね、モデル、やってくれないかなって。」

無言のわたしを訝しがったのか、彼女のなかば苛立ったような問いかけにわたしは我に返った。つっかえながら要件を伝えると、彼女はん、とだけ頷いた。

「それだけのためにうち来たの?」

彼女の瞳も金いろに輝いていた。とおいとおい太陽の燃える炎をうけて、彼女の瞳まで燃えているみたいだった。太陽は実際のところ燃えているわけではないらしいけれど。彼女の瞳に映り込んですべてはゆがむ。彼女にくらべたらどれもこれもちっとも美しくなんかなくて、正しくなんかないから。彼女だけが唯一この地面にひとり直立していて、光を全身にうけて生きていく、正しいいきものだから。

「……そうだけど。」

だから、彼女といるのはけっして心地よくなんかなくって、むしろいつだって苦しかった。心臓は激しく拍動し、血が全身へとめぐる。つねならば冷えたゆびさきもあしさきも、すべてぽっぽとあつくなる。すべて彼女のため、彼女のための鼓動で、彼女のための生だ。

「ふうん。」

彼女はわたしを見定めるように見つめたまま、そう頷いた。唇がわずか動く。彼女の一端が、わたしのための、わたしのものになる。

「じゃあ、あしたの放課後に美術準備室で、いい?」

「うん。」

じゃあ、またね。わたしは顔を熱くしたままに踵を返す。夕陽のなかで誰にもわからない。夕陽はすべてを赤い上等な紗で覆って、それのすぎてしまったのちは夜闇がひっそりとあたりを浸す。すべては暗がりのなか。魑魅魍魎と、そして、彼女に魅せられた如何わしいわたしだけがとぼとぼと歩いている。

 久方ぶりに彼女のことを考えながら床に就いた。夢のなかで、彼女の口のなかはただただびろうどのように艶めいた深紅に満ち満ちており、きらきらと一本一本の白くひかる歯は一本も存在しなかった。ふとわたしが自分のてのひらに視線を落とすとと、そこには真珠のごとき歯が実に二十八、きちんと収まっているのだった。彼女はそのひとつを可憐なゆびさきでつまみ上げると、懐から取り出した鑢で器用にまあるく磨き上げて、削られた粉をふうと唇をまるめて吹いた。彼女の手の内にのこるまるいそれはまさしく真珠であって、彼女はそれを自らの首筋にあてがって満足げに頷いた。


 美術室が部員らの溜まり場になっているから、作業につかわれているのはもっぱら準備室のほうだった。美術準備室の鍵は必要なときだけ必要な生徒に貸し出される。いま、放課後の美術準備室はわたしと彼女のものだった。翳りはじめるやわらかな日差しのなかで、彼女とわたしは押し黙って相対している。挑戦的なまでに何の工夫もない、少女がこちらをまっすぐに見つめる構図。ただ、わたしの対面に座った彼女を描いているだけだ。窓辺を背にして、薄らと影を纏わせた顔は妖しくほの白い。わたしがどれだけ絵がうまくたって、彼女の一欠片も表現できやしないのだろうと思った。その諦念で心はひどく静かで、わたしは透き通って、ただ手だけが画用紙のうえを滑っているような心地だった。紙上でも現実にも、彼女はわたしを見つめている。ダークチョコレート。ほろ苦さに指を伸ばす。食む。表面はつるりと硬く、わたしの唇をわずかへこませる。舌に触れると、その熱さで、唾液で、とろりと蕩ける。

 放課後は無言のまま美術準備室に集まって、無言、部活動の終了時間を示す校内放送が流れる頃にようやく一言二言言葉を交わして席を立つ。それがわたしたちの日課のようになっていた。彼女の絵はもう完成間近だった。これが終われば彼女と過ごす時間がなくなるという寂しさよりも、わたしはなかば取り憑かれたように、これを完成させるということばかりを考えていた。


 

 わたしは抽斗をあけて、彼女の乳歯を取り出した。いまだ制服で、髪も結ったまま、夕暮れの薄あかりのなかだった。久方ぶりに触れた彼女の歯は変わらず乾いて小さく軽く、しかし鮮烈に在りし日の光景をわたしに思い出させた。わたしはそれを密閉袋にいれると、うえからその場にあった彫刻刀の柄で叩いた。経年の劣化もあろうけれど、幼子の歯というのは簡単に粉々になってしまった。ていねいにていねいに、こまかくこまかく潰し続けると、わたしは粉になったそれを豆皿にあけた。日本画に使われる岩絵具というものは、膠で溶くことではじめて絵具としての体をなす。わたしの描いているものは日本画ではない。お金がかかるからといって、小学生時分に買ってもらった水彩絵具と、美術部の備品にあったアクリル絵具ていどしかわたしは使ったことがない。これはなかば賭けみたいなものだった。だけれど、ふしぎにうまくいくという確信にわたしは満ちていたのである。豆皿に膠液をすこしずつ出してゆく。いちばん小さいサイズのものを買ったから、もとよりそう入っていない。ゆっくりとそれを混ぜ合わせてゆくと、彼女の歯は、白い絵具になったのだった。

 わたしは持ち帰った絵を取り出す。あとすこし。足りないのは、ほんの少しの、彼女を照らすあわい光輝だけである。絵具を筆にとって、慎重におく。むろんただの水彩紙に、なじみがよいはずがなかった。しかしながら、色のつかないことはない。彼女の肌の白さ、瞳にたたえる光、髪の艶。ごくわずかな筆運びが、永遠みたいに長かった。それを終えると、わたしは宿題もやらずに昏昏とねむった。

 

 明くる日の放課後に、わたしはいちばんに彼女に絵を見せた。彼女はそのながい睫毛を伏せて、しげしげと画紙をみつめた。ずいぶん長いこと、彼女は絵の前に佇んでいた。そうして、ようやく顔を上げると、その目を細めて、婉然と微笑んだ。睫毛の濃さと黒目の大きさがよく見えた。昼と夕暮れのあわいの薄あかりは、彼女の身体のうえでぼんやりと静かだった。

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