ありがとう、生まれてきてくれて

春野訪花

ありがとう、生まれてきてくれて

 妖精は小さな体にひとつの瓶を携えているという。それは妖精が力を使って隠しているというが、心を許した相手には見せることがあるらしい。

 その瓶自体はシンプルな形をしているが、その中身が果てしなく美しいのだと言う。見たことがある者が少ないため、はっきりとしたことは分からない。ある者は黄金だったと言うし、ある者は漆黒だったと。色に違いがあれど、誰もが口を揃えて美しかったと言った。

 その話を聞いた者は皆、その瓶を求めた。珍しさ、興味、好奇心――。有名になりたいという邪心もあっただろうし、ただ純粋に見てみたいというのもあっただろう。

 かくいう私もその一人だった。

 長年自堕落に生きてきた。端から見れば最低限の生活ができていただろう。衣食住は確保されていたし、周囲からも真面目だと言われてきた。だが自堕落だったのだ。何をしたところで、そこに心などこもっていない。当然「真面目」な思いだって。ただ単に死ぬのが嫌で、他人から指を指されるのが嫌だっただけなのだ。

 私が瓶を求める理由など、ハッキリとはなかった。強いていうならば興味があった。あれは大層美しいものだった、と朗々と語って聞かせる旅人の表情が「楽しげ」であったから。

 最低限の物と路銀を鞄に詰め込んで、私は旅に出た。

 瓶どころか、そもそも妖精を探すのが困難だった。妖精は小さく、滅多に人前に姿を表さない。昔に人間が妖精を捕まえて愛玩動物としていた時期があり、うまく手元に置いておけなかったがために数を減らしてしまった。その時期から妖精たちは人間から隠れるようになったためだ。

 私は様々な場所へと向かった。海、森、山、洞窟……。だが、そこへ行っても妖精を見つけることは叶わなかった。

 ――妖精は人の心から生まれるという。ならば自分で生み出せやしないかとも思った。だが、こんな自分から生まれでる妖精など居やしない。こんな枯れきった心に芽生える命など、ありはしないのだ。



 ――冷たい。

 全身に雨が叩きつけていた。私をぐしょぐしょに濡らしていくそれは、「命」を奪っていくのを感じた。

 どこもかしこも冷たい中、頭と背中が熱かった。焼けているのではないかというほどに。

 落ちた。崖から。途中蔦に掴まることができたが、すぐに滑り落ちてしまった。それがなければ死んでいただろうし、それがなければ今こうして苦しみながら死ぬこともなかった。多少息長らえたところで、何も変わりはしない。

 ――私は死にたいのだろうか。

 体が震えた。……寒いからだ。死にたいのかどうかもなにも、死ぬことが決まっているではないか。

 山奥だ。ここに人が来ることはないだろう。

 瞼が重たい。目を開けていることは、これほど疲れることなのか。

 耐えきれず目を閉じる。暗闇の中、瞼の裏に仄かな光を感じる。薄い雲から微かに陽が差しているのだ。この雨もすぐに止むだろう。それを見届けられるかどうかは、ギリギリだろうか。

 ふと瞼の裏に影が差した。それと誰かの気配。

 瞼を押し開けると、そこには小さな少女が浮かんでいた。ぱっちりとした瞳が私を見下ろしている。クリーム色の滑らかな髪が、雨の中ふわふわと垂れ下がっている。背中に生える半透明な羽がゆったりと動いていた。その少女は、私が思い描いていた妖精、そのものの姿だった。

 少女の青空のような真っ青な瞳が、私を見つめていた。

「愛したいのでしょう?」

 凛とした、幼い声だった。

「……なに、を……?」

 掠れた声で訪ねた。

 少女は微笑んだ。

「分かっているでしょう?」

 大きな声を出している訳ではないのに、その音はとてもはっきりと聞こえた。

 分かっているのか、と自問自答するが……血が足りない。思考は霞がかっていく。だけど妖精の姿だけは霞むことがなかった。

 少女は両手を宙に翳す。すると瞬きの間に瓶が現れた。少女の同じ大きさだ。中身は――なにも入っていない。少しがっかりした。

 少女が小さな手で瓶の蓋を開けた。そしてそれを私の口元に持ってきた。傾けられるそれから――透明な液体がこぼれ落ちてきた。薄く開いた唇の隙間から流れ込んでくる。それはとても暖かい……昔母に貰ったスープを思い出した。その液体に味はしなかったけれど。

 私は口内に注がれたそれを精一杯飲み込んだ。体内に流れこんできたそれは、内側から私を暖めていった。


「私はあなたの、『愛したい』という願いから生まれた」


 少女の声は歌うように紡がれていく。


「私はこの世界に生まれることができた。雨の冷たさを、雨の音を、匂いを、あなたの姿を、あなたの想いを、自分の鼓動を、自分の心を……様々なことを感じることができた」


 少女の表情が輝く。それは、あの時の旅人の表情に似ていた。


「――『生きる』ってとても素敵なことね」


 ああ、そうか――。私は……。


 瓶の中身がなくなった。瓶をその腕に抱える少女は笑った。全身を雨でずぶ濡れにして、雨粒が幼い頬をいくつも通りすぎていった。


「私を生んでくれて、ありがとう」


 瞬間少女を光が包み込んだ。泡のように光が宙を舞う。優しい夕日のような光を漂わせて溶けるように消えていく。必死に手を伸ばそうとしたが体が動かない。

「待って……」

 言いたいことが喉につっかえて出てこない。言いたいことが溢れて止まらないのに、どれも形になってはくれない。何度か口を動かして、かろうじてひとつ告げた。

 少女は目を見開いた後――最期まで幸せそうに笑っていた。



 なぜ自分が生きているのか分からなかった。確かにあの時、私は死んでいたはずだった。生きているのが奇跡だ、と医者は口々にそう言った。私もそう思う。

 病室の窓から外を眺める。柔らかな風が入ってきて、カーテンを揺らしていた。晴天の空の下、自然豊かな町並みが広がっている。

 結局、瓶はなんだったのか、その中身はなんだったのか、分からずじまいだった。だが、妖精を探して旅をすることはもうないだろう。求めていたものは手に入った――。

 遠くから子どもの笑い声が聞こえてくる。吹く風が木々を揺らして、優しげな音を立てている。穏やかな気持ちでそれを眺めた。忘れていた感覚だった。いつから手放し、見放していたのか。それを取り戻させてくれた「命」がある。その存在を忘れはしない。彼女もそれを望んでいる。

 こんこんと扉がノックされた。そちらを振り返る。扉を開け、医者が微笑みながら歩み寄ってきた。

「お加減いかがですか」

 私は精一杯に笑みを浮かべた。

「もう、大丈夫です――」

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ありがとう、生まれてきてくれて 春野訪花 @harunohouka

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