ダンデライオン
坂崎かおる
移動図書館は冬の始まりと終わりにやってくる。
寒い中、グスタフたちは、町の一番中心にある、ラウンドアバウトで待っている。いつも、移動図書館はそこにやってくる。まあるい道路を一周と少しして、移動図書館はその先の、青い壁の家の前に止まる。おととしまでは白い壁の家だったのだけれど、去年の夏に、家主の老人が、突然真っ青に塗り替えたのだ。でも、グスタフたちは、その青い色がいっぺんで気に入ってしまった。よほど運でもよくなければ、一年の間にそんな素敵な青を見る機会など、最近は全くといっていいほどなくなってしまったからだ。
移動図書館には音楽が流れている。誰に聞いても、曲名を知らない。グスタフも知らなかったけれど、この前、ルカが「乙女の祈り」だと教えてくれた。バダジェフスカ。ルカは何でも知っている。
「な、何でもじゃない」ルカは少し吃音の混じった声でしゃべる。「人が、し、調べないことに、興味があるだけだよ」
図書館で借りられるのは十冊まで。長い冬の間、子供たちはそれを読んで過ごす。グスタフも、十冊めいっぱい借りた。その中でも『モモ』はお気に入りで、何度も読み返した。ルカはあまり本を借りない。借りても二、三冊だけだ。
「僕、は、大人の、本を、読める、から」
ある時、ルカは途切れ途切れに答えてくれた。それはグスタフたちのような子供たちにはできないことだった。もちろん大人の本を読むことは禁止されていない。しかし、そもそもグスタフたちは、大人の字を読むことができない。
「乙女の祈り」を流して、移動図書館がやってくる。八本脚の躯体はクモに似ていて、愛称は〈ポター〉。由来はよくわからない。グスタフは、この〈ポター〉がぐるりとラウンドアバウトを回る仕草が好きだった。がらんとした道路を、時々脚を交差させながら、少し覚束ないような足取りで回る姿に可愛げがあったからだ。幼い子供は、「がんばれがんばれ」と応援をしていた。
青い家の前で停まると、脚を器用に折りたたみ、ハッチが開いた。にょきにょきと棚が樹木の様に伸びてきて、本棚が完成する。待っていた子供たちがわっと寄る。グスタフもその輪の中に加わり、背表紙を眺める。『飛ぶ教室』、『カラスを名付ける』、『エーミールと探偵たち』…読んだ本もあるけれど、まだグスタフが聞いたこともない題名の本もあった。ルカは少し輪から離れて、子供たちの様子を見ている。
「グスタフ」
ルカがグスタフを呼んだ。グスタフは五冊ほど選んだところだった。
「お、面白そうな本は、あった?」
グスタフがいくつか見せると、ルカはその本の表紙をしげしげと眺めた。そして、一冊の本を手にとり、「これ、これを貸してくれないか」と言った。『城が溶ける』。灰色の表紙で、金付けがされている。グスタフは「もちろん」と、ルカに本を渡した。ルカは、
「あり、がとう」
と大事そうに、本を抱えた。日が暮れたところで、移動図書館は、またあやふやな足取りでラウンドアバウトをぐるりと回り、遠くへ帰っていった。
「〈ポター〉に、の、乗ってみよう」
冬の終わりの前の日、ルカはグスタフにそう提案した。
「乗って、どこへ」
「町のそと、外に出るのさ」
グスタフはあまり乗り気はしなかった。十冊の本は全て読み終え、グスタフは三回目の『エーミールと探偵たち』を読んでいたところだった。何回読んでもエーミールは汽車でお金をすられ、動物園駅前で降りていた。
「大人になれば、出られるじゃないか」
「それじゃ、遅い、ん、だよ」ルカはいつになく熱心な調子で言った。「いま、ぼ、僕は、出たいんだ」
乗り気でなかったものの、グスタフも町の外には興味があったので、〈ポター〉に乗る約束をした。移動図書館はいつも、子供たちが帰った後、ラウンドアバウトを抜けると、大通りの柵の手前で燃料補給のために停まる。そこを狙って、〈ポター〉の背に乗るのだ。ルカの話を聞いているうちに、グスタフはわくわくしてきた。外の世界に行くなんて、『果てしない物語』みたいだったからだ。
翌日、冬の終わりの日に、移動図書館はいつものようにやってきた。グスタフは十冊の本を返すとすぐに、大通りの柵まで駆けて行った。柵の傍には大きな看板があり、その後ろなら子供をまるまると隠すことができた。しばらくしてルカもやってきた。〈ポター〉の足取りでは、ここまで来るのにもうしばらく時間がかかる。二人は息を潜めて、あの足音が聞こえるのを待っていた。
「春、には」
ルカが言った。退屈してきた頃だった。「お、丘に花が、咲くんだ。ラナンキュラスや、た、タンポポ」
グスタフも見たことがあった。丘にはなかなか行けないけれど、あの黄色い絨毯のメドウは、短い春の楽しみの一つだ。
「タンポポは花も、は、葉っぱも根っこも、全て、つ、使うことが、できる」
「根っこも?」
「お、お茶みたいにして、飲むと、お、おいしいんだ」
本当にルカは何でも知っている。グスタフは感心した。
「春になったら飲みたいな」
グスタフはそう言ったが、ルカは笑顔のまま、何も答えなかった。しばらく二人は黙っていた。グスタフは空を見上げた。何もない空だった。それでも、グスタフはその何もない空を見ていた。ルカはその横顔をしばらく眺めた後、同じように空を見上げた。
結局、移動図書館はやって来なかった。すっかり日が落ち、寒さに手足がちぎれそうになって、二人は諦めて立ち上がった。ルートが変わったのだろう、とルカは謝った。何も気にすることなどない、とグスタフは答えた。
「また来年の冬、二人で乗りに行こう」
ルカは頷いた。グスタフは帰り道、想像をした。二人が、あのよちよち歩きの〈ポター〉に乗って、柵の向こうへ行くことを。肌に感じる風を。その上から眺める空の景色を。でも、その冬はやって来なかった。ルカは、町を去ってしまった。
子供がいなくなることは、この町ではそれほど珍しいことではなかった。でも、グスタフはそれから、めっきり口数が少なくなった。子供たちは心配したが、グスタフは変わらなかった。時々口を開くことがあっても、喋り方を忘れたみたいに、途切れ途切れに話をした。やっとグスタフが笑顔を見せたのは、次の冬のことだった。
移動図書館は、いつもの通り、ラウンドアバウトをぐるりと回り、いつもの通り、青い壁の家の前で停まった。青い壁は少し剥がれ、その隅には、誰かと誰かの名前が、小さく落書きされていた。にょきにょきと本棚が生え、子供たちが群がった。
グスタフは遠巻きに子供たちを眺めていたが、何かを見つけると、駆けるように本棚に近づいた。グスタフは本を手にとった。その本は金付けがされ、灰色の表紙だった。題名は『ライオンの牙』。その字は大人の字だった。グスタフは表紙を撫でた。あたたかい春の感触だった。
グスタフは空を見上げた。彼の横顔を見た子供は、誰もいない。
ダンデライオン 坂崎かおる @sakasakikaoru
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