第5話

 恵美理の心をわこが占めてしまうのに、そう時間はかからなかった。

 でも恵美理はわこのことを何も知らない。それがもどかしかった。

 ――そもそも、私はわこちゃんのことを知ろうとした?

 聞かれたくないかな、と決めつけて、何も聞かなかった。恵美理にとってわこと過ごすのは、嬉しくてかけがえのない時間だが、わこからすれば、雑務のために呼び出されているのに過ぎないのではないか。

 無論、いつでも断れるのにそうしないのだから、わこが恵美理に対し、少なくともネガティブな気持ちを持っていないのはわかる。

 ――それでも、わこちゃんに甘えすぎていた。

 恵美理は、わこの部屋を訪れることにした。


「どうしたの、呼んでくれたら行くのに」

 わこの部屋は、間取りは同じだがひどくシンプルだった。余計なものがほとんどないその部屋の印象は、わこ本人から受けるものと似ていた。

「今日はわこちゃんと話したくて。迷惑かな?」

「そんなことないよ」

 ごめんね、お菓子とかないけど、と言いながら、わこは紅茶を出してくれた。

 勢い込んで来たはいいものの、どう切り出すかは考えていなかった。「わこちゃんのことが知りたいの」? いきなりそんなことを言いだすのはさすがに変じゃないか。

 だが、恵美理はこういうときにスマートなやり方ができるタイプではなかった。

 押しかけてきたのに話し出さない恵美理を急かすでもなく、わこは静かに紅茶を飲んでいる。

 ひとしきり悩んだ挙げ句、恵美理は結局最初に思いついた言葉をそのまま言った。

「わこちゃんのことが知りたいの」

「え?」

 わこは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。初めて見る表情だ、と恵美理は思った。

「ほら、いつも色々手伝ってもらって、話すのも私ばっかりで、私わこちゃんのこと全然知らないなって思って! でも、例えばもし、この中身が空になっちゃうのが治っても、わこちゃんとずっと友達でいたくて、だからわこちゃんのこともっと知りたいなって思って……もちろん、話すのが嫌だったら無理しないで!」

 一息にそう言って、恵美理はわこの顔をちらりと上目遣いに伺った。

 先程からぽかんとしていたわこの顔が、徐々に元に戻って、そしてわこはくすりと笑う。

「もちろん、いいよ。おしゃべりしよう」


 そこからは質問攻めだった。

「わこちゃんは何でこのゼミに入ったの」

「わこちゃんは誰と仲良いの」

「わこちゃんは趣味ってあるの」

「わこちゃんはお裁縫好きなの」

 恵美理の質問に、わこは言葉数こそ多くないが、ひとつひとつ丁寧に答えていった。それぞれの答えはごくありふれたものだったが、恵美理は嬉しかった。わこのことを知れたということ以上に、自分に知られることを受け入れてくれたということが嬉しかったのだ。

「こんなに自分のこと話したの、初めてかも。話しすぎて喉乾いちゃった」

 紅茶を飲み干したわこは、恵美理の分のカップも持って二杯目の紅茶をいれに立ち上がった。

「ねえ、わこちゃん」

 恵美理はその背中に声をかける。

「わこちゃんはなんで私にこんなに良くしてくれるの?」

「それは江成さんがまっすぐ私に接してくれるからだよ」

 わこの声が答える。

「私、人と仲良くなるのが苦手で。普通にしてるつもりなんだけど、なんだか相手に壁を感じさせちゃうみたいで。よく、心を開かないと、なんていうけど、心を開くってどうしていいかわからなくて」

 壁。それは恵美理もわこに対して感じていた。でも、それはわこがわざとそうして人と距離を取っているのだと思っていた。だからこそ、これまでは敢えてそれを踏み越えないようにしていた。

「でも、江成さんならその壁を乗り越えて、私の心を開いてくれるんじゃないかな、なんて、なんとなく。いつも挨拶してくれてたし、そういうまっすぐな人なんじゃないかって」


 だから、今日来てくれて、私のこと知りたいって言ってくれて、嬉しかった。


 。わこの口からわこ自身の気持ちを聞くのは、これが初めてだった。

「私も、前はわこちゃんのこと、勝手に決めつけてた。仲良くなる機会なんかないと思ってたし。でも今は仲良くなれてよかったし、もっと仲良くなりたいと思ってる」

 カップを両手に戻ってきたわこに、恵美理はそう言った。まるで告白のようだった。

 わこは照れくさそうに笑いかけて――ぴたり、と固まった。

「……わこちゃん?」

 突然のことに恵美理は怪訝に呼びかける。わこの目の焦点が合わなくなる。

「わこちゃん? 大丈夫?」

 わこは答えない。恵美理が立ち上がって軽く肩を揺さぶると、両手からカップが落ちて熱い紅茶が床に広がる。

 ゆっくりとわこの口が、重力に負けるように開いていく。口の端から涎が溢れる。

 そのままグラリとわこの身体が揺れて、後ろに倒れるのを恵美理は慌てて受け止めた。

「わこちゃん! わこちゃん! どうしたの!」

 抜け殻のようになったわこを揺さぶりながら恵美理は必死で考えた。

 なんで、どうしてこんなことに。ついさっきまで普通だったのに。やっとわこちゃんの心を開くことができたのに。

 そう考えた時、恵美理は息を呑んだ。

 心を、開く。

 ――まさか。


 恵美理は、わこのとでも言うのか。


 恵美理に開かれたことで、わこの心が空になってしまったとでも言うのか。

 そんなバカなことがあるか。しかし、現実にわこは木偶人形のようになってしまった。

「……なんだよ、なんなんだよこれ!」

 恵美理は叫んだ。そして自分の胸を掻きむしった。

 私の心も消えてなくなれ! なくなったものはこれまで一度も戻ってこなかった。もしわこちゃんの心が二度と、戻ってこないなら、私はなんて許されないことをしてしまったんだ。

 だが、自分で自分の心を開くことはできなかった。

 恵美理の意識はいまだしっかりと、狂った現実を認識しつづけていた。

 ――心が開けないんなら。

 恵美理は力の抜けたわこをそっと横たえて立ち上がり、台所を漁って果物ナイフを手にとった。

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シュレディンガーの消えた猫 ナツメ @frogfrogfrosch

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