第4話
わこは言った。
「江成さんが開けたら中身がなくなっちゃうなら、他の人に開けてもらえばいいんじゃない?」
それは、言われてみれば当たり前のことだった。恵美理以外にこの現象は起きていないのだ。
「でも、毎回毎回やってもらうわけには……家にいるときもあるし」
わこは顎に手を当てて、視線を右上に泳がせてなにか考えている。
「開けても消えないものもあるんだよね。コンビニのパンと、その書類ケースは消えなかった。消えたのは、ラテと財布と……他になにかある?」
「えっと、カップラーメンとか、あとファンデーションとハンドクリームも……それから……」
そこで恵美理は思い出した。
「たこ焼きの……蛸……」
あの時も、割り開いたものだけ中身がなくて、開かずにそのまま食べたものには蛸が入っていた。ラテが最初だと思っていたが、その前から始まっていたのか。
「そのペンケースは? 消えてないよね」
「あ」
机に出しっぱなしにしていたペンケースは、書類ケースと同じクリアブルーのもので、たしかにこれも中身は消えていない。
「例えばだけど、中身が見えないものを開けると空になる、っていうルールじゃないかな?」
メロンパン、書類ケース、ペンケース。言われれば、いずれも外から中身が確認できる。
「そのバッグも普通に使えてるみたいだし」
わこが指差した恵美理のトートバッグは、チャックなどはついておらず、中身が見えている。財布の中身は消えたが、バッグに入れていた財布そのものは消えていなかった。
「すごい……夏焼さん、すごいよ」
意味不明な現象に苛まれて、恵美理にはその現象にルールがあるだなんて思いつきもしなかった。
しかしわこは、話だけでいとも簡単に、起きている事象を整理してみせた。
「夏焼さん、なんで日文入ったの? なんか理系の人みたい」
場違いな感想に、わこは小さく笑った。つられて恵美理も笑う。
笑ったのは、なんだか久しぶりだった。
それから恵美理は、身の回りのものをなるべく中身が確認できるものに変えた。透明の容器に入ったものなら消えることはなかった。冷蔵庫の問題は解決しないから、生物は使い切れる分しか買えなかったが、それでも毎日外食していたときよりは断然ましだった。
洗濯については、コインランドリーを使えばいいのではないかとわこに提案された。ランドリーのドラム式洗濯機なら、たしかに中が見えている。
そうして恵美理の生活は徐々に元の状態に近づいていった。どうしても中身の見えないものを開けなければならないときは、わこがサポートしてくれた。
わこも、同じ学生寮に住んでいた。そんなことすら恵美理は知らなかった。
『わこちゃんごめん、ちょっと開けてほしいものがあって、今日このあと来られる?』
あの日交換した連絡先にそうメッセージを入れると、程なく既読がついて返事が来た。
『まだ学校だから、十九時くらいでも大丈夫?』
『うん、ありがとう! 助かる〜』
メッセージとスタンプを返して、恵美理は天井を仰ぐ。
――どうして、わこちゃんはこんなに良くしてくれるんだろう。
取り立てて仲が良かったわけではない。同じゼミに所属しているだけだ。なんとなく距離がある感じで、とっつきにくいとちょっとした苦手意識すら持っていた。
その印象は、実は今でも変わっていなかった。文句一つ言わず世話を焼いてくれるけど、わこのことは今でもよくわからない。聞かれたくないのかな、と思って、恵美理も敢えて聞かない。わこが恵美理のことをどう思っているのかすら、わからなかった。
――でも。
何を考えているかわからなくても、わこの献身は恵美理の心を着実に満たしていっていた。
「……わこちゃん、早く来ないかな」
十九時を少し回った頃、廊下に面した窓の外を、人影が横切った。
恵美理はバネじかけのように立ち上がって、玄関に向かう。
ピンポン、とチャイムが鳴るのとほぼ同時に、ドアを開けた。
「わこちゃん、ありがとう」
「ううん、ちょっと遅くなっちゃった」
「いいよ、こっちのお願いだし」
上がって上がって、とわこを部屋に上げる。
わこは週に一、二度、恵美理の部屋を訪れていた。ただ用事を頼むだけでは味気ないから、お茶を出して小一時間おしゃべりをする。わこはほとんど聞き手に回っているが、迷惑そうではないのでいいかな、と恵美理は思っている。
詰替え用洗剤のパウチなど、いくつかのものを開けてもらったあと、小さなテーブルを囲んで二人で座った。
「このチョコケーキ、すごい美味しいんだって。私は開けられないけど、わこちゃんに開けてもらおうかなと思って買っちゃった。一緒に食べようよ」
恵美理がテーブルに乗った銀の包装を示すと、わこがその手首を掴んだ。
急な接触にどきりとしたが、わこの手はすぐに離れて、袖口のボタンに触れた。
「ボタン、取れかけてるよ」
そういうとわこは立ち上がり、自分の鞄をごそごそとやって、何かを手に戻ってきた。
「良ければ直してあげる」
飾り気のない裁縫セットを開きながらわこはそう言った。
「あ、お願いします……」
「すぐつけられるからそのままでいいよ。ちょっと腕貸して」
わこはてきぱきと外れかけたボタンを取り、針に糸を通す。よどみなく動く指先を、恵美理はぼうっと見つめていた。
あの日、教室で、ポケットティッシュを差し出してくれた白い指。
恵美理にとっては、それはまさに救いの手だった。
「はい、できたよ」
わこの声にハッと我に返る。
「ありがとう。わこちゃん、お裁縫できるんだね」
なんか意外、と言いかけて、なんとなく失礼な気がして飲み込んだ。ボタンはとても綺麗についていた。
「じゃあケーキ開けるね」
わこの指がまた恵美理のために動く。
それが恵美理には、たまらなく居心地が良かった。
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