第3話
やはり、世界は狂い始めていた。
といっても、それは恵美理にだけ起きていることだった。
恵美理が何かを開けると、中のものが消えるのだ。
あの日の帰り、スーパーで買い物をしようとして、財布を開いたら、中身が消えていた。
現金だけではない。クレジットカードも、保険証も、ポイントカードやレシートまで、すべて無くなって空っぽになっていたのだ。
混乱した恵美理は綾加に電話をして、綾加は財布をなくした場合の対処方法を調べて教えてくれた。
「災難だったね。学校で盗まれたのかな。学生課に報告しないと」
綾加はそう言ったが、レシートまで盗むことがあるのだろうか?
日々の買い物は電子マネーでどうにかまかなえるが、それでも問題は解決しない。
洗濯しようとしても、ボトルを開けると洗剤がなくなってしまう。それに、洗濯機を開けたときに服が無くなっていたら、と思うと、どちらにしても洗濯は難しかった。
冷蔵庫も同様だった。食事は外食になった。そんなにお金はないから、多めの昼食で一日一食の生活になる。
新しくものを買うのは怖かった。気を紛らわすために映画でも見ようと、DVDのケースを開いたら空だった。開けるという行為はあまりにも日常的で、完璧には避けられない。
開けたものの中身が空になる。たったそれだけのことだが、恵美理の精神を追い込むには十分だった。
「恵美理」
顔を上げると、雪が立っていた。その後ろから綾加が覗き込んでいる。
「大丈夫?」
あの気の強い雪が心配そうにしている。取り繕おうとしたが、もうその気力も恵美理には残っていなかった。緩慢に首を縦に振ってはみたが、ただ項垂れたようにしか見えなかった。
雪は前の席に座って、恵美理の方に身体を向けた。
「開けたら中身が空っぽになる、んだよね?」
その話は綾加にしかしていなかった。ラテのときに開口一番否定した雪には、なんとなく言いづらかったからだ。綾加が雪に相談したのだろう。
「これ、ここで開けてみてよ」
雪が机に置いたのは、コンビニのメロンパンだった。
「なくなっちゃうよ」
覇気のない声でそう返す恵美理に、雪はいいから、とパンを押し付ける。
恵美理はしぶしぶ受け取って、透明のパッケージを開いた。
――メロンパンは、そこに、あった。
「なんで……」
「ほら、やっぱり」
呆然とする恵美理に、雪はため息交じりに言う。
「気のせいなんだって、恵美理。だいたいあんた、いつもそれからノートとか出してるじゃん」
雪が示したのは、恵美理の書類ケースだった。クリアブルーのプラスチック製のそれは、たしかに、あの日以降も普通に使えていた。開けても中のノートやプリントが消えることはない。そのことに恵美理は気づいていなかった。
中身がなくなる、という異常には気づいても、中身がなくならない、というのは当たり前すぎて気づけなかったのだ。
「気のせいっていうか、嘘なんじゃないの?」
「え……?」
思いもよらない言葉に、恵美理の思考が停止する。
「一回くらいなら面白いかもしれないけど、何度も何度も、しかもそれで弱ってるふりまでして、度を越してるよ」
「やめてよ雪」
綾加が止めに入るが雪は止まらない。
「わざとじゃないなら病院いきなよ。恵美理、あんたどっちみちちょっとおかしいよ」
言い捨てて、雪はつかつかと教室を出ていった。
「……ごめん、エミリー」
綾加が申し訳なさそうに立ち尽くしている。恵美理は彼女を見上げた。縋るような気持ちだった。綾加だけは信じてくれるだろうと。
「いきなり病院にいかなくても、学生相談室とか利用してみたらいいんじゃないのかな。そういう風に思っちゃうのは、なにか別に原因があるのかもしれないし」
綾加は眉を下げてそう言った。
「そ……っか、そうだよね」
恵美理はうつむいた。声が震えないようにするので精一杯だった。誰も信じてくれない。当然だ。そんなことあり得ない。恵美理自身、理解できないのだ。でも、理屈じゃなく、信じてほしかった。
大丈夫? と背中を撫でられたが、泣き顔を見られたくなかった。先に行ってて、と告げると背中の手の温度がゆっくりと離れていった。
鼻がつんとして、目頭が熱くなった。悲しい、という感じではなかった。ただ、恵美理はもう、限界だった。
「……江成さん」
突然、名前を呼ばれて思わず身体が跳ね上がる。もう教室には誰もいないと思っていた。
顔は上げられなかった。だけど声でわかる。夏焼わこだ。
短く爪を切りそろえた白い手が、恵美理の視界にポケットティッシュを差し出す。
恵美理の机にそれを置いて、わこは通路を挟んだ隣の席に腰をかけた。
わこは何も言わなかった。鼻をかんで、少しだけ落ち着いた恵美理は、「これ、ありがとう」とティッシュを返そうとしたが、わこは小さく首を振った。
「ごめんね、なんか変なところ見せちゃって」
ごまかすように、わざと高めのトーンでそう言うと、わこは真顔のまま、
「変じゃないよ」
と答えた。
もちろん、恵美理が言った「変なところ」というのは、雪たちとの剣呑なやりとりや、涙ぐんでいる姿のことだったし、わこもそれを指して「変じゃない」と答えたのだろう。
しかし、今の恵美理にとって「変じゃないよ」というその一言は、どうしようもなく心に染み渡った。
「……もっと変な話なんだけどさ」
問わず語りに、恵美理はこれまでのことを訥々と語りだした。
わこはやはり、何も言わずにただ聞いていた。
「――信じられないよね、こんな話。それで雪もあんな感じになっちゃって」
だいぶ調子を取り戻した恵美理はそう言うと肩をすくめた。
「信じるか信じないかというより、江成さんはそれで困ってるんだよね?」
恵美理は面食らった。自分も、雪も綾加も、それが事実かどうかしか考えていなかった。
「困ってるなら、できることあると思うよ」
こともなげに言うわこを、恵美理はただ見つめ返すことしかできなかった。
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