第2話

「結局あとの四つは蛸入ってたんだけどさ。なんか二百円くらい損した気がする」

「私だったら二個目で店員に言うけどな」

「えー私言えない……」

「エミリー、普段こんなキャラなのになんでそういう時言えないの。人見知り?」

「そういうの内弁慶って言うんだよ」

「別に私威張ってないもん!……え、威張ってないよね?」

「ないない、ふざけ倒してるだけ」

 学生ホールの一角で、恵美理はゼミ仲間の雪と綾加に昨日の愚痴をこぼしていた。

 三人の手には、カフェのスリーブがついた紙コップ。わざわざ学外の店まで買いに行った期間限定のシナモンフレーバーのラテだ。

 恵美理が雪と綾加と仲良くなったのは、三人ともサークルに入っていないからだった。授業後はほとんどの子がサークル棟に移動する中、教室に残っている者同士で誰からともなく声を掛け合い、今ではよくこうして学生ホールに集まっては、とりとめもないおしゃべりに興じている。

 もっとも、いつも教室に残っている人間は、恵美理たち以外にもうひとりいた。

 四人がけのテーブルの、メインエントランス側に恵美理が、向かいに雪たちが座っている。恵美理からは、学生ホールの裏口が見える。いつもほのかに薄暗いその裏口から、一人の女子学生が入ってきた。

 肩辺りまでの黒髪を一つに束ね、化粧っけのない白い顔。グレーの薄手のコートを羽織って、右手には図書館で借りてきたのであろう、数冊の本を抱えている。

 メインエントランス側に向かう彼女に、恵美理は小さく手を挙げた。

夏焼なつやきさん、おつかれー」

 綾加と雪もつられたように声をかける。

 夏焼さんと呼ばれた彼女――夏焼わこは、笑っているのかいないのか、曖昧に口の端を吊り上げて、同じく「おつかれ」と返す。その声音は、表情の硬さに反してずいぶん柔らかかった。

「図書館行ってきたの?」

「うん、山中先生のレポート、来週までだから」

「あ! やばい全然やってない」

「私も」

「このあと図書館行く?」

 口々に言う三人をわこは困ったような顔でしばし眺めて、

「じゃあ私行くね」

 と、どこか申し訳無さそうに言った。

「うん、またね」

 手を振る三人にぺこりと会釈をし、わこは売店へと入っていった。

「……夏焼さんて、ちょっと不思議だよね。捉えどころがないというか」

 わこの背中を見送って、綾加が言った。

「真面目ちゃんなんじゃない? ガリ勉って感じ」

 雪の言葉がやや棘をはらんでいるのはいつものことだ。

「まあ、ちょっと距離あるよね。教室で四人になっても声かけづらいもん」

 ゼミの中でサークルに入っていないのは、恵美理、雪、綾加、そしてわこの四人だった。わこは、挨拶をすれば先程のように返すし、特につっけんどんな態度を取るわけでもない。だが、どこか取り繕ったような、不自然な印象があった。恵美理はわことの間に、いつも見えない壁を感じていた。

 ただそれも今に始まったことではない。三人の興味はすぐにわこから離れて、綾加の彼氏の愚痴へと移っていった。

 シナモンラテをすすりながら、いつもと変わらない話に耳を傾ける。両手で包んだラテはまだ熱くて、蓋についた小さな飲み口からではとても満足に飲めない。

 早く冷まそうとプラスチックの蓋を外した途端、ふ、とコップが軽くなった。

「え」

 思わず声を出すと、二人が怪訝にこちらを見る。

「どしたの」

「なんか……中身が急になくなったんだけど……」

 恵美理のコップの中身は、すっかり空になっていた。

「気づかないうちに飲み切ってただけでしょ」

 雪は突き放すようにそう言う。

「あるよね。私もよく無意識にお菓子食べきっちゃって、おかしい、まだあるはずなのに! って」

 綾加がけらけら笑うが、恵美理は釈然としない。

 間違いなく、先程まで中身はたっぷり入っていたのだ。スリーブ越しにも熱が伝わっていたし、重みも感じていた。

 それが、蓋を開けた瞬間に、無くなった。

 気のせいなんかでは絶対にない。

 雪と綾加はもう違う話題で楽しそうに盛り上がっている。

 だが恵美理は、世界がわずかに狂い始めたような空恐ろしい気持ちになって、到底一緒に笑うことはできなかった。

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