スコトーマ
フジイ
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池袋の駅構内を移動していると、あまりの人の多さに視覚も聴覚も翻弄される。大きな、温いうねりのなかにいると、この歩みが自らの意思によるものなのか、判断しづらかった。不可視の流れに泳がされているような実感があった。
三月二十五日、スーツに身を包んで、今日限りで失う学生証を持って大学へ向かっていた。言い得ぬ肌寒さを感じて、身体がこわばる。でもスーツを着ていると、うっすら汗がにじんできた。肌の裏が、曖昧に火照っている。
春休みなので、普段以上に多くの人がいた。そのうち八割近くは、頭部がない。正確に言えば、あるはずの頭部がみえなかった。
あらゆる人の、口だけが浮かんでいる。その口、というのは唇と歯と歯茎まで、というのが正しく、生々しい入れ歯が人の首のうえにある状態だった。
二十歳の誕生日に、あらゆる人の姿が消えた。四月二十日、やけに最寄駅が空いているのを訝りながら、いつものように三号車の乗車位置へ並ぼうとすると、だれかとぶつかってしまった。とっさにごめんなさいと謝って顔を上げる。だが、そこにはだれもいない。
なにが起こっているのか、わからなかった。みえているのは、反対側のホーム、白く塗られた柵、その向こうには円柱状の灰皿、野良猫、喫煙している老婆。
おかしな表情をしていたのだろう、「なんだよ」と、前から男性の責める声だけが聴こえた。季節が巻き戻ったかのように、一瞬で身体じゅうの肌が冷え切る。乗車位置に並んでいた人とぶつかったのか、と混乱したまま後退りした。今度は「なに?」と女性のすこしヒステリックな声が聴こえてくる。
なんとなく状況を把握し始めたけれど、安心にはつながらない。冷や汗が肌を覆っている。徐々に全身の肉が蝋のような無機物にすり変わっていくようだった。
ひとまず謝ろうとするも、口先がまごついて、音にならない。そもそも、なんと言えばいいんだろうか。
電車がホームに入ってくる。電車のなかにも人はいないようにみえるが、確実に気配があり、後ろに並んでいた人たちが乗車していく流れを感じ、身をすくめるほかなかった。
ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。普段よりもスローモーションで、流れてゆく。車体が視界から去るまで、凝視した。だれもいなくなっただろうと判断し、ホームのベンチまで小さな歩幅で移動し、ベンチに座る。
もう一本の電車が行ったところで、意を決して階段を上り、家に戻った。一人暮らしのさびしい家も、そのときばかりは聖域に思えた。
誰の身体もみえない状況はその日限りで、次の日、ゴミを捨てるために決死の思いで家を出ると、なんとなく近所の人の輪郭までは、視認できるようにはなっていた。
その後、しばらくは引きこもりの日々が続いた。マジカルアイという目が良くなる効果のある本を通販で取り寄せて読むなどして、目を元に戻そうとした。ブルーベリーの入ったものばかりを食べた。目の疲れに効果があるらしいツボをひたすら押した。それが功を奏したとはまったく思えないが、しばらくすると他人の身体だけはみえるようになった。
頭が欠けた人の波のなかでは、一五六センチでも見通しが利く。遠くをみたり、時折あらわれる顔をじっくり観察してしまったりすると、だれかとぶつかる。人混みでは、なるべく人の肩や背中に目をやるようにしていた。
顔のある人は皆、美しかった。ただ凛々しい、美形だというわけではなく、瞳がなにかを湛えている。
そういう目と出逢うたび、オレンジや黄色の羽のようなものが泡といっしょに閉じ込められたビー玉を思い出した。
西武池袋線の改札に向かう階段を上がる。上りと下りの区切りに手すりがあるが、上りの範囲はやけに狭く、無理をしても二人分の幅しかない。そのため、多くの人は降り側を通るのだが、毎度律儀に狭いほうを選んでいた。
首から上のない老人が、杖をつきながらゆっくりと階段を上る。ほとんど九〇度に背骨が曲がっている。僕はその後ろをついていった。
上がりきって右へ進むと、たくさんの体がこちらに向かってくる。大抵はスーツで、そうでなくても黒い服が多いのが印象的だった。
西武池袋線の改札口の前には、太い柱がいくつもある。直方体で、側面にはスクリーンがついており、なにか映像が流れている。その陰から、歯茎と黒服がつぎつぎ飛び出してきた。
今日はときおり、きらびやかな色が視界に入る。着物だ。瑠璃色、パステルピンク、鉄色。どれも花柄があしらわれているようだ。色彩のおかげでようやく、僕は卒業式に向かっていることを自覚する。同時に、肌寒くなった。まだ冬の足跡が残る春先に、慣れないスーツだけではすこし足りなかった。
改札に向かう着物の人たちは頭がちゃんとついており、丁寧にセットされた髪、花飾りが目につく。
悠長に観察していると、黒服の一人とぶつかった。とっさに謝罪が口から出ず、頭を下げるだけ下げ、そのまま前進する。舌打ちだけが聴こえた。
改札を抜けると、意外と空いていた。スマートフォンを取り出し、周りに注意しながら通知を確かめる。日本武道館で大規模な卒業式が先にあり、そちらに行った友人から「特になにもなかった」という報告が来ていた。「今日は何時に行く?」という質問もある。適当に返信しながら、後ろから三番目の車両に乗り込んだ。そこが降車したとき一番階段に近い。
訳もなく早い時間に家を出てしまったので、電車のなかに大学生の姿はあまり見当たらない気がする。頭のない女子高生もいるが、大半は社会人や老人だ。空いている席はなかったので、ドアの脇に立つことにした。
「あれ、はやくないか」
急に聴き覚えのある声をかけられ、途端に股関節のあたりに弱い電気がはしる。相手がだれだかわかっていながら、おそるおそるふりむいた。
「浦谷か、おはよう」
「杉ちゃん、卒業おめでとう」
「いや、それはおたがいさまだろ」
「まあそうだけどさ」
浦谷修大とは、二年次に同じゼミだった。ただ、歳は彼のほうがひとつ上だ。身長が高く、一七五センチはあるはずだ。元々は偏差値の高い大学の哲学科にいたが半年で辞め、芸術系かつ偏差値も低いうちの大学に入学した。文学者の研究をしており、批評がとてもうまい。よく教授と飲みに行った話を聞かされていたので、大人に気に入られやすいのだろう。
「暇なのか?」
「……悪いか」
「いやいや」浦谷は口角だけを上げて、悪だくみをしたような顔をした。そう、彼には、きちんとした顔がある。
普段は感情を表に出さないが、ときどきこのような表情をみせる。出会って数分のことだったので、すこし驚いた。浦谷でも、卒業を前に緊張、あるいは興奮するのかもしれない。卒業は絶望と同義だ、と思いながらも、言い得ぬ高揚感に身体が浮つくこの感覚が、浦谷にもあるのだろうか。
浦谷は紺色のスーツの上に、丈の短い黒いチェスターコートを羽織っていた。リクルートスーツではなく、おそらく四月から仕事でも着るのだろう。どこに勤めるのだろうか。未来のことを空想していると、肋骨の裏あたりが冷え込んできた。
「それにしても、なんでこんな早いんだ」
早く家を出た理由は、ただただ家にいても落ち着かなかった、というだけだ。
大学生でなくなる日、あえて想像してこなかった未来が、足元まで及んでいた。耐えかねて、逃げ出そうとして、向かった先が、大学だったのだ。心と体は、時折ちぐはぐに動く。それがないのが大人なのだろうか。法の下では、とっくに大人なのに。どうしてこんなにも不甲斐ないのだろう。
散々逡巡してから、「なんでだろうな」とだけ言った。
「感情や、感覚で動くからな。杉ちゃんは」
理知が滲む浦谷の声音が、どこか心地よい。同時に、いつも羨ましかった。図星だったので、僕は誤魔化すように眉をひそめ、不満を示す演技をした。
自動ドアが、なにかを惜しむような速度で閉じる。視界が揺れ、震える。電車は発車し、ホームを離れる。
浦谷は学科で行う卒業記念行事の運営でいそがしいらしく、片手間で連絡を取り続けていた。邪魔したくないし、自分からなにを話してもいいかわからないから、しばらく窓ガラスの向こうを眺めながら、視界の端に浦谷の輪郭をみていた。外は曇天でも、うっすらと光は差し込む。その光が、浦谷が髪にワックスをつけていることを気づかせた。
今後、この路線を使う予定はない。考えてみれば、大学で知り合っただれかとまた会う予定もなかった。今日のことはすべて、目に焼きつけておくべきなのだろう。
「埃とか、ついてるなら教えてくれよ」
ぼんやりと浦谷のほうをみていたところ、突然声をかけられる。体がすこし震えたが、ちょうどいいタイミングで車体も揺れたので、誤魔化せたはずだ。
「いや、なんも」他所に目をやって、あくまで淡々と答える。
「駅に着いたら、急いで運営のほうに行かなきゃいけなくて。なんか変だったら教えて」
浦谷と目が合う。肩の骨に力を入れても緩んでしまう。
「なんでみてる」
「なぜに片言」
「いや……」僕はどもって、視線をそらす。電車はスピードを落とし、車内がゆったり点滅し、駅に到着した。
「またあとで」
そう言って、だが開くと同時に浦谷は駆け出した。ふと、春、という単語が頭に浮かんだ。タイミングよく日差しが目に刺さって、季節の境界をみた気がした。
黒のチェスターコートが階段を昇り、あっという間に視界から消える。僕はぼうっと、それを眺めていた。ドアが閉まります、というアナウンスがなければ、次の駅まで流されていたに違いない。
やはり早く着きすぎた。自分の学科の受付で学生証を返して、証書授与式の会場になる三階の教室へと向かったが、しばらく経っても人影はほとんどなかった。パイプ椅子から立ちあがり、七階の喫煙所に行くことにする。喫煙者ではないが、気に入っている場所だった。
喫煙所とはいえ、言ってしまえばベランダみたいなもので、レッドロビンの植え込みに四方を囲まれ、空がみえる場所。だれもいなければ、そこでたそがれていた。
おもに大学院生が使っているため、七階で受講することはほぼなかった。あいかわらず狭い廊下だ。
各教室を広くするために、ここまで廊下を狭めているのだろうか。
ローファーの靴底が立てる音が反響する。奥まで進み、真っ白い扉のドアノブに手をかけ、引く。
「え」喫煙所、空、レッドロビン、植込み。想像していた要素はなにひとつない。
分厚い本や資料のバインダーが敷き詰められた棚が、壁を埋め尽くしていた。手前に大きなデスクが置かれており、奥に小さなデスクとパソコン、大きい椅子、そこ腰かけるだれかが、ふりかえる。
「あ、喫煙?」
山葵色のニットの上に白衣を羽織っていた。正装をしているわけでもないので、卒業式には参加しないのだろうか。女性だ、と気づく。
「いや、喫煙ではないんですが」
訊ねておきながら、大して気にもしていないようで、ふうん、と言って僕の姿をじっくりみた。
「卒業生か。おめでとう」
どこかの学科の教授なのだろう。見覚えはない。黒く長い髪を後ろで束ねている。
「ああ、ありがとうございます」
「知らないよね、一月末くらいから工事があって、喫煙所を潰して、研究室を増やしたなんて」
「なるほど」たしか法改正などで喫煙が禁止になるから、その対策でもあるのだろう。法によって憩いの場を奪われるというのは、おそらく初めての経験だった。
「私はイイダタカネです。心理学の授業を担当しています」
心理学関連の講義を履修したことがなかったため、この教授を知らなかったのか。シラバスにイイダという名前があったかどうかすら、記憶にない。
「なにか飲むかね」と言ってイイダ教授は立ち上がり、返事を迷っているうちにすばやく冷蔵庫からペットボトルを取り出す。
そして差し出されたのは、黒い液体を注いだコップ。受け取ってみると、明らかにコーヒーの臭いではない。嗅いだことはある気がするのだが、答えはわからない。
先生に目をやると、
「それはコーラの炭酸抜き。脳に効くので愛飲している」と答えを言われた。
「……やめたほうがいいと思いますが」
「まあまあ、百害あって一利なしだ、飲んでみたまえ」
「いろいろ間違ってますよ」
なんて言いながら、気になったので口をつけてみる。しっかりと冷えており、案外飲めないこともなかった。鼻と上の前歯の辺りでシトラスの風味を強く感じる。氷が溶けて薄まったコーラよりは、おいしい。教授を一瞥すると、こどものような表情でほほえんでいる。涙ぼくろがあることに気づいた。
「お茶をふるまってもらった見返りに、質問に答えてほしい」
「もらい事故だ」
「まま、そう言わずに」
この人と話していると、距離感や関係性を見失って混乱してしまう。大人なのか、こどもなのかも、わからない。イイダ教授は、ゆったりとした挙動で顎に手をやると、テーブルの下で足を組みかえた。
「あなたは、この世って信じる?」
突飛な質問に思わず首を傾げ、教授の表情を確認するが、挑発しているというよりは、真面目に質問をしているようだ。
これは、禅問答だろうか。心理学と禅問答の差は、無学ゆえにまったくわからない。答えがあるのかないのか、真っ先に考えてしまう自分が嫌になった。
「あの世ではなくて、この世ですか」
よくある質問との言い間違いではないか、と確認するも、「そう、この世」とはっきり言い切られてしまった。
「シンキングタイムは五分でお願いします、それではスタート!」
ピー、と言うと、教授はパソコンのほうを向いてなにやら作業を始めてしまった。
部屋の静寂に耳がいく。冷蔵庫からくぐもった低音が出ていた。キーボードをたたく音は、わずかに聴こえる程度だ。消音シートのようなものをキーボードに敷いているのかもしれない。あるいは、壁じゅうに並べられた本が、無教室にある凹凸のような役割を果たしているのだろうか。
あの世を信じるか、という問いであれば、まだ答えようがあっただろう。そもそも、僕はそれをテーマに卒業作品を執筆したからだ。祖父が亡くなったときのことを、退屈なほど事細かに書いた。結果、成績はよかった。
死と生の境界はどこなのか。これが作品のテーマだった。明確な結論は出せなかったが、あの世はなく、この世に霊魂などのすべてが、みえないままありつづけるのではないか、と考えた。あるとき、浦谷は「だれかの記憶に残っている限り、その人は死んでいない」と言っていた。酒が進むと言葉が止まらなくなるところがあり、その論について延々話をしていた。しかし難しい言葉ばかりで、眠気と酒気でぼんやりした頭ではまるで理解できなかった。
手に持ったままのコップから黒い液体をあおる。まだ冷たい。そして眉をひそめる。先ほどの感想は錯覚だった。今、口にしたのは、危険な香りのする黒い砂糖水でしかない。
「この世は、信じないです」と、溜息をつくように、僕は答えを口にした。
ほう、と言ってから椅子を回転させた教授と、再び向き合う。いちいちアニメのキャラクターのような挙動をするな、と心のなかで毒づく。
「理由を答えてくれ」
「いま、このコーラを飲み直したんですが、最初に口につけた時と味が違いました。そういうことが、他にもたくさんあります」だから、この世は信じない。この世しかないような気がしているのに。
「でも、自分の認識が秒ごとに変わっているのか、この世、というか、この世界のほうが刻一刻と変化しているのか、わからないので、もしかしたら自分が信じられないだけかもしれないです」
言い終えて、脈拍が上がっているのを感じる。程度はともかく、自分の思考を他人に打ち明けるのは、恥ずかしかった。
動揺する僕を笑うように、「今日卒業なのに、ご苦労さまです」とにやにやしながら、教授は腕を組んだ。
「酷いことをいう教授だな。じゃああなたは、どうなんですか」
先生の眼は、ほかの顔のある人たちと同じく、意思や力を感じさせるものだった。いや、意味という言葉のほうが適当かもしれない。世界をしっかりみつめている、ということなのだろうか。
「信じているよ」
その言葉の、澄んだ音色と、よくみると整った顔立ちをしていることに恥ずかしくなり、僕は目を背ける。床も、すでに喫煙所だったころのタイルではなくなっていた。
「信じようとしているし、だれかが、この世界を信じられるようにする、その手伝いのために、こういう仕事を選んだ」
言葉の連なりが、鼓膜から入って、胸を刺した。
「そうですか」副流煙より力なく、床に向かって、なんとか返事を吐きだす。
「ありがとう。さて、そろそろいきなさい、学生最後の日だよ」
正しくて、いやな人だった。現実、この世を突きつけてくる。
「失礼しました」
この世を信じるか、という問いは、あの世を信じるかというのを前提に考えるべきだったのだろうか。この世って信じる? という問いは、あの世って信じる? という質問を前提に考えるべきだったのだろうか。
この先生に早く会っていれば、このような問答を講義のたびにできたのだろうか。もしも、を思うと、すぐにお前では仮にチャンスが与えられても手を伸ばさなかっただろう、という耳打ちがあった。詰まるところ、信じられないのは、この世ではない。
三階に戻ると、人が多くいた。もともと百人程度しか同じ学科にいないが、それが一堂に会する機会は、いままで指折り数えられるほどしかなかった。すでに半数は来ているようだが、だれも彼も頭がない。談笑している歯茎たちがスーツや着物の上に浮遊していた。
辺りを見渡し、知り合いを探したけれど、まだいないようだ。大人しく隅に座り、式の間はだれかとの合流に期待するのをやめた。席は埋まっていき、周りには四年間話したことのない人だけが座った。顔が見えないからわからないが、おそらく、知らない人だろう。
浦谷は遅れて到着し、最前列に座る。すると、一際派手なスーツや、私服のTシャツを着た集団がその横に次々と腰かけた。落ち着いた人間なのに、周囲に集まるのは騒がしい人ばかりなのが、とても不可解だ。
壇上では学部長と進行役の教授が位置に着いたところだった。
「あなたたちは残念ながら、もう学生ではなくなってしまいます。それはわたしたちとしても悲しいことです。もちろん方法がないわけではありませんが、学生としてみなさんに講義を受けてもらえなくなるのは、とても寂しいことだといえます。そして本当に残念なのは、社会に出なければならないということ。なにかをやりたい、と思ってこの学校、ひいてはこの文芸学科に入ったのだと思います。志は高く、しかし学生生活の旨みに飲まれ、初心を見失った人も少なくないでしょう。もちろん、まだ諦めていない人、諦める理由がない人もいるかもしれません。どんな人も、本日で学生でなくなるという現実からは逃れられません。それでもこの大学で、社会だけでなく大学の上層部からも余剰扱いを受けているこの学科で得たものが、今後の人生におい
て、糧となり、武器となり、癒しとなってくれたらと思います。卒業、おめでとうございます」
学部長の教授からの祝辞のあとは、流れるように授与式が進んだ。
知らない名前が次々呼ばれる。高価そうなスーツや着物の上に浮かぶ口を、なんとなく眺めていた。
目を細めて、姿がみえないかどうか試したが、うまくいかなかった。自分の番が回ってきて、学位記を受け取る。ずっと卒業式だと思っていたが、学位授与式が正式な名前だった。恥ずかしさを表情に出さないように気をつけつつ、席へ戻った。
卒業作品の優秀者、成績優秀者が賞状を受け取る段になった。卒業作品の評価だけは高かったので、僕も賞状をもらうことになっていた。
驚いたことに、浦谷は表彰されていない部門がなかった。毎回よく通る声で返事をして、品のいい所作で賞状を受け取って、席へと戻ってゆく。賞状総舐めだ、という声がどこかから聞こえてきた。
浦谷のあと、杉田時雄、つまり僕の名前が呼ばれる。立ち上がると、浦谷がこちらをみていた。
おめでとう、と口だけで伝えてきた。そんなことをするやつだっただろうか。卒業式は人を変える?
わからない。
学部長は「君の作品集には、全体的に統一感がなかった。テーマが曖昧にされていたせいで、いくつかの作品のよさが打ち消されていた。そこだけは残念だった。もっと没頭しなさい」と諭すように告げ、おめでとうと言って賞状を差し出してきた。
はい、がんばります。そう答える。直後、自ら選んだ「がんばる」という言葉が胸につかえた。
席に戻りながら、頭がある人たちの様子をうかがってみると、知り合いが半分、有名な人が半分というところだった。当たり前だが、だれもこちらをみていない。
式は進行してゆく。珍しくかしこまったスーツを着た教授たちが、横一列に並んでいる。儀式めいていて、どこか現実味がない。
人の顔がなくなって口しかみえなくなったとき、自分の現実からは明確に現実味はなくなっていた。ただ、そうなる前から、僕はどこか現実というものにリアリティを感じられていなかった。卒業式の最中、輪をかけて自らの存在が曖昧になっている気がした。肉体をなくして、意識だけが水槽のなかにいるかのようだ。わかりやすい終わりの合図もなく、式はなんとなくお開きとなった。
さっきまで学生だった人々が退席して、友人同士でゼミが同じだった数名集まっていたので、近づいていく。高橋と、首藤と、中村だ。彼らとは三年次から同じゼミに所属し、毎週お互いの作品をみせ合ってきた。
高橋は普段コンタクトレンズなのに今日は眼鏡をかけており、紺色の、おそらく就活で使ったスーツをそのまま着ているようだった。首藤はなぜか私服で、褪せた紫色のTシャツだった。中村の着ている黒いスーツは、すこし高価なのか品のいい光沢がある。
「いやはや、卒業おめでとう」と高橋が言う。
「どの立場からの発言なんだよ」と中村がつっこみをいれる。
首藤は眠そうで、寝癖のままにみえる癖っ毛を、手を熊手のようにして掻いていた。それから「お前ライン無視するなよ」と僕に言う。なんのことやら、とスマートフォンを取り出すと、通知がいくつかあり、その中に首藤からの「私服でもいいのかな今日」という文言があった。
「他にも私服の人いたし、いいんじゃないの」と今、直接返事をする。
「あれは一軍だから許されるだけだろ……、しかも私服って言っても、おしゃれなブランドものみたいなやつじゃん」
僕らは遠まわしの蔑称で、学生生活を謳歌しているようにみえるグループを「一軍」と呼んでいた。
「結果的に一番尖ってるじゃん」と中村が言い、「求められてないから……社会にもな」と首藤がうなだれた。冗談まじりだとは思うが、雰囲気からも意気消沈しているのはうかがえた。
なんとなく気配を感じてふりかえってみると、いくつかの集団がどこかへ移動している。浦谷や、先程最前列に座っていた一団の姿は見当たらない。
「杉田、どうした」と高橋がたずね、首藤が「杉ちゃんのことだから、パーティーのこと忘れてるんじゃないの」と付け加えた。
「パーティー、なんてあったっけ」
「全学科参加するパーティーみたいなやつ、正しい呼び方は忘れたけど」と中村はスマホをいじり、
「ああ、あと十分くらいで始まるっぽい」と時間も教えてくれた。
行事用のパイプ椅子が、きれいに並んでいた。三時間くらい経つと、この教室でも卒業パーティーというものが催される。学科ごとのものなので、人数は大したことがないし、毎年割と質素に行われると聞いている。いまからホールで開かれるものは他学科との合同イベントで、そこそこ豪華なバイキング形式らしいことを、いま首藤が説明している。なにも食べずに家を出たことを思い出し、多少は腹を満たしておきたい気がした。
「みんなは行かないの?」と聞いてみると、「タダ飯を逃す手はないっしょ」と首藤が即答した。「ルックスと発言合いすぎ」と中村がにやついていた。「いくかー」と高橋が言って歩き出した。気がつくと僕たち以外人がいなくなっていたので、スライドドアの閉まる音が思いの外、余計に反響したように聴こえた。
外は薄暗く、湿度が高いのが頬でわかった。そして色とりどりの着物の上、スーツの上に浮かぶ無数の口。皆、それぞれ写真を撮っているようだ。頭のある人がいると目が行ってしまう。その人の瞳には、意味が灯っている。外は曇天で、陽が出ているわけでもない。涙で目が潤んでいる人もいるのかもしれない。未来を見据えていると、瞳が輝くのだろうか。あの輝きの原因は眼の内側にあるのか、それともみえているものから光を受けとっているのか。
思ったよりホールまでの道にたくさんの人がおり、高橋たちが文句を言っているのが小さく聴こえてくる。つねに人々の声は聴こえているのに、独特の静けさがあった。羽目を外している人は見当たらない。みんな、だれかに監視されているかのようだった。
ホールに着くと、すでに卒業生が多く入場している。入場したと同時にすこし薄暗くなり、燕尾服の司会者がスポットライトを浴びながら登場した。やけに芝居がかった話し方、おそらく演劇専攻の三年生だろう。
下手側から学部長が登場する。なにやら大声でまくしたてているが、高揚しているはずの卒業生たちすら、途中からその煽りに飽きて、机の上に並べられたオードブルに手を付け始めていた。
多分旨いやつ少なくなるぞ、と高橋が耳打ちしてきたので、四人で机に歩み寄る。首藤は机の隅にあった紙皿を手に取ると、人の間をうまくすりぬけ潜り込んだ。すると真っ先にプラスチックのコップにビールを注ぐ。手際よく四つのコップを満たすと、バケツリレーのような形でこちらに寄越してきた。サークルで飲み会回してただけあるな、と中村が言うと、首藤は一度睨みつけ、それから紙皿に手当たりしだいに食べ物を盛り付ける。その皿も回ってきた。紙皿の上には大きなソーセージと崩れたケーキがある。首藤に嫌われているのかもしれない。
人だかりからすこし距離を置いて顔をあげ、ステージのほうに目をやる。スポットライトからステージ全体を照らす照明に代わっている。
そして、なにかしらの賞状を受け取る浦谷の姿をみた。ビールをすこし手にこぼした。両手がふさがっていて、拭くことはできない。手元に目をやりながら、人がいない方へと後退りした。
学部長とのやりとりで生まれたものより大きな拍手が聴こえる。浦谷は盾のようなものを受け取っていた。姿勢が良く、バレエでも習っていたのかと訊いてみたくなった。
「ごめん、肝心のもの忘れてた」と首藤が隣に来て、割箸をわたしてきた。皿を差し出して上に置いてもらう。
「ありがとう。箸でケーキ食べるのは初めてだと思うけど」
「あわ、すまん」
水泡に謝罪をし、首藤は箸で唐揚げを食べ始めた。唐揚げもあるのか。
高橋と中村も、箸でケーキをつつきながら人だかりから引き上げてきた。ビールはもう飲んだのか、コップは持っていない。よく考えたら、ビールとケーキは合わない。先に済ませてしまったのだろう。
「あいついるじゃん」と近くまで来た高橋が口を開く。「ん? 浦谷くん?」中村が答えると、高橋は「あいつ、なんかすごいよな」と、中空に目をやりながら言った。
元から、すごいやつだったじゃないか。そう、思っただけで口にはしなかった。
「いろいろ、大変だったらしいよ。そうじゃないと学費全額免除はされないらしいし」と首藤が食べながら言う。
「いろいろって?」と僕は訊ねた。
「うーん、親御さんどっちか亡くなったとか? いろいろって言っても、ほとんど噂だからよく知らないんだけどさ」
詳細を聞き出そうとしたが、高橋が僕より先に反応した。
「あー、聞いたことあるな、それ。うちも片親だけど、まあるで勉強しなかったから対象外だったわけだ」
「真面目だったのは別に仲良くなくてもわかったし、先生にも褒められてたもんな、評論とか」と中村が言うので、批評じゃないのか、と確認してみたところ、片眉を上げて「差がわからん」と早口で答えた。
ステージの奥に下がっていた幕が下手側に巻き取られ、ひな壇が現れる。次は吹奏楽クラブによる卒業生を送る演奏を、というナレーションが聴こえてきた。
爆音が鳴る。高橋はステージを一度ふりかえってから、出口の方を指さし、出ようと言った。声は聴こえていない。吹奏楽の音が空間に飽和するときの圧迫感が苦手だったため、僕も足早に出口に向かい、ゴミ箱に持っていたものを放った。
寒空の下、円柱形の灰皿を囲む。僕と中村は、高橋と首藤は立っていた。冷たいベンチに座ると、はじめは尻骨が痛かったが、だんだんと慣れてきた。三人は各々、煙を吐いている。ピース、メンソールのハイライト、ラッキーストライク。名前だけを知っている。タバコに限らず、意味や正体を把握できていないものばかりだ。
「杉ちゃん一本くらい吸う? 学生ラスト記念に」中村がタバコを差し出してくる。
「いや、やめとくわ」
「うーん、やっぱりか」笑いながら中村はその一本に火をつけた。
相変わらず、空は真っ白なままで、しかし灰色というほど暗くもない。卒業式くらい晴れてほしいとでも、心のどこかで思っていたのだろうか。層も奥行きも目につかないほど、真っ平らな空。部屋の天井とほとんど、変わらないような気がする。いつまでも、この大きな部屋から出られないのだろうか。
三人ともタバコを吸いながらスマートフォンをいじりだしたので、僕も確認する。通知はない。
式が始まってしまえば、だれかがいる。普段、必ず講義に出席しているからという理由で、授業内容や課題を知らない学生から頼りにされていた。大学生活の終わりは、そういった煩わしさからの解放も意味していた。虚しいことだったはずなのに、それすらなくなる。本当に虚しいのはどちらだろうか、誤魔化すように頬の肉を軽く噛んだ。
「他の学科、このあとの卒業記念パーティーみたいなやつ参加費一万円以上行くところあるらしい
よ」と、首藤が急に口を開いた。
「俺らは学校内でも特に実績がないし、教室でしめやかに営むくらいでちょうどいい」と高橋は言い、みんなが笑う。すこし乾いている。「二五〇〇円でやるのはあほだよな」「高いところはイチゴーとられるってよ、彼女から聞いた」「その自慢必要でしたか……? ちゃんと写真撮ったか? 別れたときに酷くこたえるからちゃんと撮っておけよ」
こんな会話を聴くことも、じきになくなる。取り返しはつかないとわかっているくせに、やはりそのときが来ないと、その重さを感じることはできない。
「みんな、さ」
気になっていたことがあったので、意を決して話を切り出す。
「卒業しても、なんか作りつづける?」
短い沈黙。そのあと、三人は唸るような声を出し、それぞれ違う方向に目をやった。高橋は斜め上、中村は校舎のある右側、首藤は下、正確にはタバコの火をみつめている。
「杉ちゃんは?」と高橋が平坦な声で訊ねてきた。本当は興味がないときか、自分の考えを隠そうとしているときに、高橋はこういう声を使う、と推測していた。「やりたい。やれるかはわからないけど」と返すと、
「まあ、なんだかんだで受賞者だもんな……あの作品、好きだよ俺は」と首藤がにやけて言う。なにかを誤魔化しているときの顔だ。
高橋は中村にも同じ質問を投げた。最後まで答えない気だろうか。中村はタバコの火を消して、伸びをしながら話しはじめた。
「んまあご存知の通り、これからは教員なので。非常勤だけど。だから、やろうと思えばやれるような気もするし、顧問やるようになったら無理かもしれない。そもそも男なんてどうせ、強制的に運動部担当だろうし。……でもまあ、しばらくは、毎日勉強するしかないんじゃないかね」
中村は普段とおなじような表情だったが、ほんの一瞬、顔の輪郭がぶれたような気がした。「で、高橋は、なにすんの?」と中村は、にやつきながらバトンを返す。
「俺に振るなよ」と、高橋は身をよじるようにして、わざとらしく反応する。中村は「さんざん人に受け流しておいて……」と溜息をついた。
高橋は頭をかこうとして髪に触れたところ、ワックスをつけていることを思い出したようで、ぎこちなく手を元の位置に戻した。
「よくわからねえんだよな、もう。なんで、なにか書きたいとか、表現したいとか、思ったのかも、忘れた。忘れても、不自由ないし」だれとも目を合わせようとはしない。
「でも、もったいなくないか、結構ファンいたっぽかったじゃん、サークルのとき」首藤が不満げにいうと、すぐさま「あんなのサークルありきだし、仮に俺の文章を読みに来てたんだとしても、あと数日もすれば忘れられるか、次を求められる。次ってなんだよ」と返した。また手を上げ、ばつが悪そうに顔を歪ませてから、力を抜いた。乱暴に腕がぶらぶら揺れる。「読まれなきゃ意味ない、でも読まれるために、読まれるようなもの書くのは嘘になる。でも、読まれることのほうが俺には重要……、いや、どうなんだろうな。テーマもなけりゃ、物語もない。そんなやつが使っていい言い訳じゃないわ。つまるところ、書く目的を見失ったんだよな。ただの、どん詰まりだわ」
高橋の顔が、どこか幼くみえた。自虐的に微笑んでいるが、まるでだれかに辞めろと言われ、それに抗っている子どものようにもみえた。けれど、理由は問わない。
「書きたくなったら書けるだろう、きっと」と、僕は言っておいた。高橋は驚いたような表情でこちらをみつめてきた。瞳に、めまいのように細かいひとかけらの光があった。
「まあ、それもそうか」と中村が明るい声音で言うと、高橋は一度、顔を精一杯歪めて、いつもの表情に戻った。
そのとき、僕の目の前を、強い風が吹き抜けた。首藤は座ったままタバコを放ったが、灰皿に収まらず吹き飛ばされ、慌ててその吸殻を拾おうとして四つん這いになった。
彼女に会いにいく、と言って中村と高橋がいなくなった。どうして高橋までいなくなるのか首藤に聞くと、その三人は入学当初からつるんでいる仲だったらしい。知らなかった。
「首藤は、音楽続けないのか」
質問をぶつけたかった相手は、首藤だった。ロックバンドで、ギターボーカルとして作詞作曲をしていたが、就職活動を機にペースが落ちていき、自然消滅したと言っていた。
何度かライブハウスに足を運んで、ステージに立つ彼の姿をみていたが、特に思い入れがあるわけでもないのに、不思議と胸打たれる瞬間があった。普段聴くことのない音量で、やかましくギターやドラムのシンバルが耳を痛めつけてくるなか、彼の声はしっかりと飛んでくる。高い声で歌っているわけでもないのに、埋もれることもなく聴こえるのが不思議だった。
ギターを弾きながら歌い、鮮やかな照明の中で汗をかく首藤は、たしかに首藤だが、人型の、別の生き物のように思えた。友人が、別の体で動いているかのようだった。音楽的に価値があるのか、いい音楽なのかどうかはわからなかった。けれど、その姿は失うべきでないと思っていた。
「うーん、いやー、辞めるのかなー、おれ」
「それを訊いてるんだろ」
力のない笑みとともに、首藤はうなだれた。風船から空気が抜けていくような音を出す。それが二○秒近く続いた。溜息なのか、腹式呼吸の練習なのか定かでない。
「辞めたいわけじゃないけど、自信もない。自己満足だけでやるには、あんまり……、続けられる気がしないんだよなあ」
明らかに語気が弱まる。自問自答が口から漏れている。
「辞めなくて済むなら、そのほうがいいと思う」と、僕は素直に口にした。なんの抵抗もなく言えてしまった自分にすこし驚いた。
「そんなこと言うやつだったか? お前」と、首藤は声を裏返した。それから恥ずかしそうに目を背け、頭をわしわしと掻きはじめる。塊として揺れる髪がおもしろかった。
「じつはメンバーみんな辞めたんだよ」
「前に言っていた気がするけど」
「あのときは、活休だった。また時間できたらやるかみたいな。でも、結局みんな辞めることにしたらしい。音楽そのものを。ギターのヤツなんか機材全部くれたよ。エフェクター、合計ウン十万だよ。いらねえよ」苛立ちと悲しみが交互に、首藤の表情を変化させている。なんとなく冷え込んできた気がして、校舎についている時計を確認すると、もう十六時だった。
「うちの教授は、やるやつは気づいたらやってる、ってよく言ってたな」
「そういう言葉がいっちゃんきついなあ、やっぱ」
うあー、と小さく声を出した首藤は、力なくにやけていた。なんとなく顔を上げてあたりをみると、人はかなり減っている。騒いでいる集団、だれひとり顔がない。そのやかましい声が、静けさが上回ってきている校舎に反響する。マンションにこだまするこどもの声のようで、僕は鳩尾のあたりを押さえた。いっそう、冷え込んできたような気がした。ただ、胸の一点はとっくに冷え切って、震えていた。
「もう卒業パーティーの会場、準備できてるだろうし、行こうよ」と、僕は情緒の安定しない首藤を連れて先程の教室に向かうことにした。靴音が耳につく。バンドについての話は、卒業式の今日、首藤に言うべきことだったのだろうか。
教室に戻ると、先ほどまで並んでいた横長の机がほぼとっぱらわれて、代わりに大きめの丸机が、いくつも置かれていた。その上にはビールとお茶などの飲み物やおつまみがある。ワインの瓶とオードブルは、長机をいくつか組み合わせて作られた中央のエリアにまとめてある。
先ほどの食事で満足したわけでもないのに、なぜか食欲がない。首藤は、スーツを着てこなかったことを今になってまた気にしているのか、Tシャツをつまんで引っ張って、離すのを繰り返していた。
この教室は黒板がなければただの真っ白な部屋なので、このパーティーのために装飾が施されていた。顔だけ知っていて名前を知らない人たちが、準備をしていて、その代表がおそらく浦谷だ。
どこから持ってきたのか、現代的な提灯のようなものがいくつも壁沿いにあった。色もさまざまで、ファンタジー作品に出てくる木の実のようだ。なぜか、「この世を信じられるか」という、先程の問いが頭のなかで再生される。それほど幻想的な空間にはなっておらず、むしろ壁のシミや凹凸に目が行く。さらに、人が増えて綺麗な着物や浮遊する歯茎であふれる。現代アート展の会場に来てしまったのだろうか。
「みんな晴れ着を着てるな、めっちゃ外、曇りだけど」首藤がつまらないことを言った。自分でも気づいたのか、すこしこちらに視線を向けたあと、うつむいてにやけている。
「まあ僕らはケだからな」と返したが、首藤は子犬のように素朴な表情で首を傾げている。僕もすべったのだと理解した。
みなさんカップを手に取ってください、というようなアナウンスが遠くで聴こえ、喧騒の音量が若干落ちる。浦谷が乾杯の音頭を取るようだ。いそがしそうにしていたのは、このイベントの運営のためだったらしい。
「いくぞー! 酒だ酒」と首藤はワインやビールのある机に飛んでいったが、僕はついていかなかった。酒が特に好きでないこともあるが、アルコールによって自覚なく表情や言動、行動が変わってしまう気がして、おそろしかった。ましてや、この卒業式のもつ雰囲気が悪い方向に作用するのではないかと、不安になっていた。
ひとりで立って、人の動きをなんとなく目で追っていると、高橋と中村の姿をみつけた。その周りには顔のない男女数名がおり、談笑しているようだった。どこをみても、少人数のグループができている。参加自由のパーティーに、一人で来る人はあまりいないだろう。悪目立ちを避けたい思いもあり、カップを手に取り緑茶を注ぐ。
「近くのテーブルからお酒をとってください」というアナウンス。その方向をみると浦谷はビールの入った透明カップを持っていた。仕事に支障をきたさないよう、緑茶にしているかもしれないが、彼は酒が好きなので、きっと我慢はしないだろう。
元の位置にもどると、首藤も戻ってきていた。他に友達はいないのか、と訊きたくなったが、僕自身にもダメージのある台詞なので声にしなかった。
「それでは、僕たちの卒業を祝して、決してめでたくはないけれど、乾杯」
かんぱーい、と声が響く。グラスのぶつかる音が続くのを連想したが、プラスチックなので聴こえてこない。首藤は待ってました、とばかりに一気にビールを飲み干すと、すぐさま二杯目を注ぎに行った。
顔を上げると、教室全体で「おめでとう」「おつかれさま」などと口々に言いつつ、いろいろな人がカップをぶつけ合う流れができていた。どうやら知り合いかどうかは関係なく、親しくない相手とも無差別に乾杯しているようだった。
その流れは僕の前にも現れる。慌ただしく挨拶を交わしながら、イナゴの大群のようだと思った。
数人には顔があったが、名前は思い出せなかった。掛けられた声のなかには「卒業作品読んだよ」「小説おもしろかったよ」といった感想もあった。
しばらくの間、図書室の手前に全員の卒業作品が並べられていた期間があったので、自由に読めるようにはなっていた。一度も足を運ばなかったので、どのように展示されていたのかは知らないが、不特定多数の人に読まれていたようだ。
いくつかの群れの移動が終了したところで、「お前酒飲んでねーじゃねーかよー!」と首藤と、しばらく顔を合わせていなかった鎌野さんが突撃してきた。鎌野さんは二年次のゼミが一緒だった。
顔があって、たしか広告代理店に就職が決まったという噂を聞いた。ブラウンの髪に、水色をベースに鳥や木が描かれた着物。誰とでも分け隔てなく接するタイプだが、時折、黒目が灰色になっていることがあった。彼女を人として好んでいないのだが、顔がみえてよかった、という安堵から心を開いてしまいそうになっている自分に気がついた。
「最高評価おめでとー、ってかめっちゃ久しぶりだね」鎌野さんは、普段通りの高い声で、話しかけてきた。それからカップを掲げてきたので、乾杯に応じる。彼女のカップには、赤紫のワインが入っていた。
「そちらは就職に成功したようで」
「だれだ、そんな噂を流してるやつは……」
「首藤」
「は? 俺じゃない気がするんだけど」
「気がするってなによ」
学生らしい、小気味よい会話のテンポで会話が進む。この感覚さえ懐かしんでいるが、本当に懐かしむのはもっと先のことだろう。それとも忘れてしまうだろうか。
「てかそれ酒じゃないだろ、持って来てやるから!」と、すこしぼうっとしていた僕のカップを奪い、人混みのほうに行ってしまった。
「首藤はいいやつだね」と鎌野さんが言うので、首肯しておく。我ながら受動的だとは思ってなにか話題をふろうと考えたが、なにひとつ浮かんでこない。
「後期ほとんど出席してなかったけど、なにやってたの?」
なぜか腕を組むようにして、問い詰めるような仕草をする彼女に、すこし違和感を覚えた。「単位足りてたし、卒制やってたんだよ」と、正直に答えた。「うわー、計画的だなあ」と、なぜか目を細めながら、「計画性がないとね、やっぱ」と詰めてくる。歯が白い。
「賞が欲しかったのか」と訊くとすぐさま「そりゃね」と返ってくる。「賞は別にもらってない、優秀作品だから」「賞状もらってたくせに、いやみかよー」冗談めかして、自分の嫉妬心を覆い隠そうとしているようにもみえた。攻撃対象はおそらく、僕ではなく彼女自身だ。そこで、「賞を取ったのは、浦谷だろ」わざと浦谷の名前を出した。
一瞬、会話のテンポが緩慢になる。はっとしたような表情から、すぐさま嫌悪を露わにした。飲酒のせいではなく、顔が赤く色づいていく。顔のある人の怒りの表情をみるのは、ずいぶんと久々だった。
「だから、あんたは」と、怒号が噴き出る寸前で、
「ほら、ワインならまだあったから飲みなさい、ほら」と首藤が毒々しい赤色の液体の入ったカップを二つ持ち、戻ってきた。
「要らないんだが」と言った途端、そのままカップを顔の方に突き出された。
どこに零れても非難は免れない。床を汚せば迷惑をかけるし、しっかり飲めなければワイシャツが駄目になる。覚悟を決めて、手でカップを押さえつつ、ワインを一気に飲む。心臓が大きく動いた。カップを首藤の手から取り、けん玉でもするかのように膝を曲げてバランスをとって、なんとかワインを溢さずに済んだのを確認した。心拍数がひどく上がり、目眩がした。
「杉ちゃん、おまえ最後の日くらい、ちっとは優しく……」
頭上で首藤の声がする。なにを言い淀んだのかはわからない。僕は立ち上がり、カップをみる。
半分以上、一気に飲んだようだ。
「杉田、あとで話あるから」そう言い残して、鎌野さんは首藤の腕を掴み、どこかに向かっていった。
なぜか、首藤はもがくようにしてすこし嫌がっていた。
なんで来てしまったのだろう。遠ざけておいた言葉が、ようやく胸の内に着地した。
何人かの教授から、ラフな式辞が述べられたあと、ビンゴ大会が始まった。だれもが一方向をみつめている。人々は身動きをとらなくなると、現代アートの展示そのもののようだった。
数字が読み上げられるたび、一喜一憂する声が響く。アメリカのホームドラマのようで、現実味がない。ビンゴどころかリーチにもならない絶妙な数字ばかり読み上げられるため、紙がどんどんいびつになっていった。数字の読み上げは運営をしている人が代わる代わる行っており、浦谷の声も聴こえていた。
酔いが回ってきたのか、眠気が脳に立ち込めてくる。喉が渇いた気がして、無意識に手元のカップをあおると、温いワインだった。酒に弱いのに、なにをしているのだろう。アルコール以外のものは手つかずのものが多いはずだ、と思ったが緑茶などは無くなっている。しぶしぶ、赤ワインを注ぐ。注いでから、なにをしているのだろう、と思った。
ようやくすべての景品がはけたようで、拍手が起こる。寝起きで食器がぶつかる音を聞くと、妙にハウリングして聴こえるのが嫌いだったことを思い出した。
「あれ、首藤は?」
背後から、高橋が話しかけてきた。カンパイをしようという仕草をするので、飲みたくはなかったが、渋々応じた。目にみえるものまで、赤くなったりしないだろうか。
「首藤は鎌野さんといると思う」
「え? 大丈夫なのか、それ」
「わからないけど」周囲の喧騒の音量がすこしずつ上がっているのを感じ、眉をひそめる。
「これ終わったら何人か読んで飲み会しようと思うんだけど、来るか?」「いや、どうしようかな……」「鎌野もそうだが首藤とか、中村とそのワイフとかもくる」「ワイフではないだろう」「多分あれはそこまで行ける」「意味が解らない」
なぜか表情に達成感のようなものを滲ませている高橋についていけず、僕は首を傾げるばかりだった。
「まあ気が向いたら来いよ、最後だぞ」
そういうと高橋は教室の外に出た。他にも何人か、帰るのか外へ出ていく人がいて、自分も流れに乗るべきなのだろう、と考えたが、なぜか未練のようなものが足を床に張り付けている感覚があった。なにが心残りだというのだろう。
参加者が減るにつれて、一人一人の声量が上がっていた。泣いている人や、騒いでいる人、笑っている人がいる、とわかる。もちろん、大抵の人には顔がない。ピーナッツが浮遊しているのをみかけて驚いたが、どうやらだれかが鼻に詰めたまま歩いているようだ。
酔いが回った連中が、学生らしい奇行に出ている。遠くで誰かが、アコースティックギターを弾きはじめる。よくみると床に寝そべっている人もいる。壁や天井から吊られていたはずの不思議な形の飾りがいくつか、床に転がっていた。
なにか食べたいと思い、大きなテーブルの上を確認しに行ったが、固形物はほとんど残されていなかった。ガリが残っていたので、口に入れる。ひどく甘かった。
壁際に移動し、寄りかかる。知り合いや、話したい人などが見当たらなければ、帰ろうと決めた。
ギターの音はまだ聴こえる。そのフレーズは、テレビかなにかで聴いたことがある気がして、思い出そうとしていたそのとき、
「やっと解放された、まあ片付けは残っているけど」
浦谷がこちらへ来た。顔が赤く、上に着ているのは、白いワイシャツだけになっている。
「杉ちゃんに会えてよかった。ありがとう」
急に、クライマックスのようなセリフを言う浦谷に驚いて、呑み込もうとしたガリが喉に引っ掛かり、むせる。あわててワインで流し込んだ結果、最悪の気分になった。「なんだそれ」と、咳混じりに返す。
「結構飲んでるのか」と問うと「ああ、まあ付き合いだからね。先生方とか運営委員の子たちと乾杯したり、あとは創作のこととかでうちのゼミの教授にいろいろ言われたり」
「いそがしそうだったな、登壇したり、運営とかもやってて」
「あー、みてたのか。来てると、思わなかったよ。まあ、それを言うなら、このパーティーにも来ないかと思ってたけど」普段より声がやわらかく、ゆったりとしている。酔っているからだろうか。
浦谷は僕の横に並び、背を壁にあずけると、「一応」と言ってカップを上げた。乾杯をする。カップに入っているのは透明な飲み物。水かもしれない。辺りを見回したが、どこにも水のペットボトルはない。いつも用意周到なので、自前の水なのかもしれない。
「これからどうなるんだろうな」と、なんとなく口から言葉がこぼれる。本筋と関係ない思考が、ふと漏れてしまった。アルコールを口にしたくない理由のひとつだった。
浦谷はいつものようにほとんど無表情のまま、どこかをみつめていた。そちらの方に目をやるが、身長差もあってか、なにもみえなかった。
「どうなるんだろうなあ」すこし目を細めながら言って、浦谷は持っていたカップを煽り、なにかを飲み干した。
「なあ、杉ちゃん」
ゆったりとした空気に、すこし緊張している。やはり、どこか春のような雰囲気を持っている。
肌寒いが南風が吹いていて、なぜかわくわくするような感覚に似ている。
「なに?」
すると、こちらをじっとみつめてから、こう告げた。
「多分、杉ちゃんは、大丈夫だよ」
「は?」
唐突な肯定が、どこか演技じみている。だが、その目的も、なにを演じているのかも、まるでわからない。表情はほとんど変わらない。なにかを隠しているのだろう。でも、なにを?
「いや、なんとなくだけど。これからも、いろいろ辞めずに、続けていくだろうし」
「自分はやめるみたいな口ぶりだな。主席になれたのに」
すると、浦谷はすこし偉ぶった態度で「主席だったら、イチ抜けた、って辞めても、いいだろ」と言った。
そのとき、一瞬、視界が歪んだ気がした。乾ききっていない絵に触れてしまったかのように。綺麗な歯並びが覗いたような気もしたが、浦谷の表情には、変化がない。
「冗談だろ」
「うーん、どうかな」と言いながら浦谷はカップを近くのごみ袋に放る。僕の方をみようとはしない。
なにも話さず時間が流れていく。すかすかになった喧騒を縫うようにギターの音色が響いていたが、そこに歌が加わる。
明らかになじみのある声だったので確かめると、首藤が泣きながら、なにかを歌っていた。神の声を聴かせて、さあ冒険はできない、魂を飛ばしても、遊べない、と言った歌詞が、なんとなく認識できた。こんな曲、ライブで演奏していただろうか。はっきりと思い出せない。メロディのない、「やっぱりやめたくねえよー」という声も聴こえてきた。即興なのかもしれない。
ふと、式の前に会った教授のことを思い出した。名前は、なんだっただろう。イイダだっただろうか。
この世って信じる? という突飛な質問の正解について、改めて考えたくなった。
人の口ばかりが浮遊する、現実離れした世界でも、僕にとっては紛れもない現実だ。これが現実でなく、幻想だと言われても、きっと信じられない。
「あの、浦谷はさ」思い出したついでに同じ質問を、浦谷にも訊ねてみることにした。浦谷なら答えを知っているのではないか、と思ったのだ。
「ん?」
首をすこし傾け、目線をこちらに向ける。なぜか、恥ずかしくなってくる。
「この世を、信じられる?」
浦谷の表情が消えた。そのようにみえた、だけかもしれない。
顎に手をやり、考えているような仕草。表情にはまったく変化がない。いつものことだろう、と思ったが、明確になにかがおかしかった。その違和感の正体が、掴めない。この手の問いを面白がってくれる人だと、心のどこかで思っていたが、勘違いだったのだろうか。
浦谷は顎から手を降ろす。なぜか上の方をみつめている。彼の顎のラインをなんとなく目で追ってしまう。
その顎が、すこしだけ動き、
「信じられないよ」
と、浦谷は、弱く、呟いた。僕は俯いた。
彼は、この世を、信じられない。沈黙の最中、僕は言葉をわざわざ整理して、復唱した。
「でも」
その声は重苦しい。妙な質量を感じる。そして、突然、
「おまえは、大丈夫だ!」と、思い切り肩を叩かれた。
ふれられたことに動揺して心臓が高鳴り、口からなにか、出そうになる。喉に力を入れ、息を止めて唾を呑んだ。しかし逆効果で、胃酸のようなものが昇ってくる感覚があった。なにか、叫んでやりたかった。涙が出て、乾きがちな瞳が潤う感覚が奇妙だ。なんとか、吐き気を堪える。一度、深呼吸をし、「なにが」と言いながら顔を上げ、文句を言おうとした。
目の前にいたのは、顔のない人だった。
僕の右頬だけ、冷や汗を掻きはじめている。
浮いている、その口を、みる。どこかの氷山のように綺麗な歯並び。こちらを向いたその口が、開く。
「ごめん、大丈夫か?」
浦谷の声がした。
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字程度ですが、そこで暴力と彼の顛末が描かれています。あなたは、この世って、信じられますか?)
スコトーマ フジイ @komorebimidori
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