夏の終わりの一日

サトウ・レン

夏の終わりの一日

『俺は夢破れた者を、負け犬だと思ったことはない。だけど引きずり続ける夢を言い訳にして他を蔑ろにするやつは人生の敗残者やと思うけん』


 三日前、電話を終える直前の父は、普段と変わらぬ静かな口調だったが、明らかに怒っていた。生まれ故郷である九州のほうの訛りが混じった父の声を聞くのは久しぶりだった。幼い頃の私は父の口調の変化に気付くと、いつも逃げ場所を探していた。それは父の内側にある怒りの波が感情の防波堤に押し寄せ、越えようとしている合図だった。離れて暮らすようになり、私は両親の怒りや悲しみの感情に鈍感になっていたのかもしれない。


 ――参加させてください。


 と書いたものの、まだ送信できずにいる。


『別に金額はどうでもいい。ただ何の三万円か知りたい』


 家賃の安さしか魅力のないボロアパートの一室で私は支えの足がおぼつかない黄褐色の机の上に置いたノートパソコンの画面を見つめていた。きっとその顔は睨むような表情になっているだろう。画面に向いていた意識を逸らすように、だらだらと額から流れる汗がまつげをつたって視界をさえぎり、私は、ぎっ、ぎっ、と嫌な音に気付いた。音のほうを向くと、やはり、と言うべきか、エアコンが緩慢な動きをしていた。また壊れたのだろう。私は以前にエアコンが壊れて困ったことをきっかけに買っておいた小さな扇風機の電源を付け、窓をすこし開けた。開けた窓から流れ込んでくる風には、まだ夏のにおいが残っている。


 参加費三万円。その書かれた文字を眺めながら、電話越しの父の言葉がよみがえる。こんな親不孝な息子で本当にいいのだろうか。メールは業界の人間に顔が広い大学時代の先輩からのお誘いだった。その先輩と私はかつて同じ文芸サークルで活動していて、当時から「クリエーターに必要なのは才能じゃなくて人脈だよ」が口癖だった彼は創作活動そっちのけに毎日飲み歩くような人間で、私を含めてほとんどのサークルメンバーから敬遠されていた。私としてもあまり尊敬できない人物で、彼が卒業してからはもう関わることもない、と思っていた。偶然再会したのは私のアルバイト先だった。そこは関西にある大手チェーンの居酒屋で、まともに就職活動もせずにフリーターをしながら公募の文学賞に小説を投稿し続ける生活を送っていた私が働く店に現れた先輩は派手な身なりをしていて、私の知るどのサークルのOBよりも出版に携わる仕事においては成功者と思えるような肩書きを手に入れていた。作家と呼んで差し支えない肩書きなのだが、私のちっぽけなプライドが彼をそのカテゴリーに入れることを拒んだ。他人の振りをしてやり過ごそうと思っていたが、「あれ、久し振りー」というのんびりとしていてねちっこい昔と変わらない声で、私の肩を叩いて馴れ馴れしく私の近況を聞いてきた。私を、自分の席に呼び、「今はあのベストセラー作家のHさんと共同執筆している」とか「最近はK社の有名編集者のYさんや、S社の少年漫画誌で連載していて大人気の作品の原作を書いてるOさんなんかが飲み友達でね」とか聞いてもいない著名人との交流自慢をした後の先輩は、さすがに処世術で今の地位を築き上げてきた――私が先輩を心の内で小馬鹿にしてこう呼んだわけではなく、本人が自分でそう言ったのだ――だけあって思いの外、聞き上手で、気付けば今まで先輩よりももっと近しい知り合いの誰にも告げずにいたことを話していた。変わらず小説を書いているけれど、そろそろ諦めようと思っていて、地元に帰ることも視野に入れている……。


「大学時代に何度も言ってきた言葉だけどな。クリエーターに必要なのは才能じゃなくて人脈だよ。友達を作れば、別に大して才能がなくても成功できる。今度、何人かの作家や編集者と遊びに行くんだけど、お前も来ないか。なぁにあいつら馬鹿だからちょろっとおだてて取り入りゃ、すぐに友達になれるさ。連絡先教えてくれれば、詳細送るよ」


 小説家になりたい私にとっての成功と先輩の言う成功はイコールで結べるのだろうか。軽くおだてて取り入った先にある関係を友達と言っていいのだろうか。そんな内心の想いが声に出せないまま、ぐるぐると身体の内側のあらゆる場所をめぐっていた。


 友達か……。


 その時、私の意識を今に戻すように声が聞こえた。幼さの残るその声を探そうと、私が窓越しから近所の公園を見下ろすと、小学生くらいの少年がふたりいる。ふとパソコンの画面に記された今日の日付が目に入る。日付は八月の最終日を指していて、ふたりの少年は夏の終わりの一日を過ごしているのだろう。地域によっても多少違いはあるのかもしれないが、八月の最終日が私の通っていた小学校の夏休みの終わりで、それ以降、いつだって私にとっての夏の終わりはこの日だった。


 ぼんやりとふたりの少年を眺めていると、いつしかその姿はまったく別のふたりの少年に変わっていた。それは幼き日の私だろう少年と、もうひとりは――。


 都内の公園は、地元の懐かしい光景に変わり、私をあの日へと戻していく。


 私は確かにあの日を、大切な友達と過ごしていた。



     ※



〈大切な友達はいますか?〉



 今となっては何がきっかけで、あの質問に答えることになったのかは分からないが、当時、私の通っていた小学校や近隣の学校で色々な事件が多発していた時期だったことはよく覚えていて、その中には、いじめや万引き、自殺……と言った問題もあって、そういった背景もあったのだろう。授業の時間が丸一時間潰れて、人間関係や生きることの尊さを担任の先生が説教っぽく語るような時間が急に設けられる、ということがすくなくなかった。この時も何かのトラブルがきっかけでこういう時間が設けられて、私を含めたクラスの生徒全員が先生の作ってきたプリントに書かれた〈大切な友達はいますか?〉という質問に頭を悩ませることになった。いや実際のところ、頭を悩ませていた生徒がどれくらいいたのかは分からない。もしかしたらほとんどの生徒が悩んでいなかったのかもしれない。私の耳に澱みなく鉛筆で文字を書き進める音が届き、私だけが周りに置いてけぼりにされてしまったような気分を味わっていた。



〈友達はいますか?〉



 何故、そんな曖昧な質問にみんなが答えを出せるのか、私には不思議で仕方なかった。友達は相手の感情があってはじめて成り立つものだ。双方に友情が芽生えていなければ、友達、という言葉を使ってはいけないのではないか。それを使っても構わないのであれば、一方通行の恋心を抱いたストーカーが相手の承諾なしに恋人と名乗っても許されることになってしまう。もちろん当時はそこまで考えていたわけではないが、友達、という言葉の違和感から何も書けずにいた。


 ただひとりだけ頭に浮かぶ顔があった。


 担任の先生が指先の止まったままの私をじっと見ている。白紙で出すことは絶対に許さない。強いるようなまなざしに気付かないふりをしながら、私はその場をしのぐための言葉を探していた。頭に浮かんだ顔、その名前を書きつけたい衝動に駆られたが、結局私が選んだ言葉は、『いません』だった。答えを見た先生は何も言わなかったけれど、その目は冷たかった。私自身にそんなつもりはなかったが、考えすぎる性格のせいか他人からの言葉に即座に反応できないことがよくあり、反抗的な生徒と思われることが多かった。


 それが小学校時代最後の、夏休み前の出来事だった。


 私は彼の名前を書かなかったことに、すこし後悔もしていた。あの質問は別に同じ学校の生徒に限った話ではない、と気付いてからは特に。でも去年から会えなくなってしまった彼に不満も覚えていて、そして書いてはいけないような気がしてしまったのだ。そんなもやもやとした気持ちとともにはじまった夏休みは、例年以上に憂鬱や不安を抱えていた。気分が優れないと、普段はさほど嫌いではない夏の暑さに爽やかさを感じることもできず、不快しか残らない夏の陽光は私から外へと向かう意欲を奪った。必要以上の外出はせず家に閉じこもりゲームや読書ばかりの私に対して両親は特に何も言わなかったが、どちらかと言えば外で遊ぶこと多い性格の私のそんな態度に心配してるのは伝わってきた。


 この夏だけは、そのまま終わってしまう、と思っていた。実際、夏の終わりの一日が来るまでは、どこまでも、何もない夏休みが地続きの秋を誘っていた。


「どこも行かなくていいの?」


 きっかけは母の一言だった。


「いいよ」


「せっかくの夏休みなんだし……」


 そんな押し問答がすこし続いて、


「うるさいな!」


 と私はすこし大きな声を出してしまった。


「なんで、そんな言い方すると」


 私の大声に反応するように、それまで静かに私と母の言葉に耳を傾けていた父が方言まじりに口を挟んだ。


「ちょうど去年の今だよな。色々と考えちゃうのは分かる。だけど、な――」


 私は父の言葉から逃げるように家を出て、私の住む団地近くにある公園へと向かった。決して広い公園ではないけれど、そこは遊具がとても多く設置されていて、当時、昼間は幼児や低学年の子供たちでいつも賑わうような場所だった。シーソー、ブランコ、すべり台、ジャングルジム……、と色々とあった遊具のほとんどは撤去されてしまっていて、今はもう、すでに寂しい光景になってしまっていたが、確かにあの公園にもそんな時代があった。私に少年時代があったように……。


 夕陽で辺りは緋色に染まり、私はひとりシーソーに座っていた。


 父の声を思い出したくないのに、振り払おうとしても頭の中でぐるぐるとめぐるのは、さっき聞いた父の言葉ばかりだった。


 私の意識を逸らしたのは、


「やっ! 久し振り」という、まだ声変わりを終えていない高めの声と、浮き上がる私の身体だった。私よりすこし大きな体躯の少年が、私の乗るシーソーの先にいた。「なんで……」と私がつぶやくと、


「あれ、声変わった」


 ほがらかに笑う彼が、この一年の間に起こった私の身体の変化を指摘した。


「……なんでいるの?」私は彼の質問には答えなかった。それどころではなかったからだ。「だって、だって……」あの日までは口にできなかった言葉の数々に、どれだけ後悔したか。だけど今は目の前に彼がいる。もう会えないはずの彼が。夢か幻か。彼がなんであっても構わない。こんなチャンスはもうないかもしれない。言わなければ、言わなければ……あの日、言えなかったことを……気持ちとは裏腹に、私の口から出るのは、「なんで……」「だって……」ばかりだった。


「さっきから、なんで、とか、だって、ばっかり言ってるけど、そりゃ友達が泣いてるのを見つけたら行くよ」友達だろ。彼は私にいつも、そう言ってくれた。私の口から同じ言葉を告げたことは一度もなかったにも関わらず。シーソーから離れて彼が私のもとへと歩いてくる。「身長、いつの間にか俺と同じくらいになっちゃったんだ。まぁ横は俺のほうがまだ大きいけどな」


 夕暮れの陽が落ちはじめ、景色は夜へと向かっていく。


「ありがとう……」


「あっ、何が」と照れくさそうな彼だったけれど、あぁ、と溜め息を吐くと、「ごめん。じゃあ。戻るわ」


 黒ずんだ世界の中で、ぼんやりと淡い光を放っていた彼が闇に溶けていくのを、タイムリミットだと瞬時に理解して、私は彼への最後の言葉を探した。


「僕さ。ずっと言えなかったけど、お前のこと一番――」


「いいよ。そんなの。言わなくても知ってるから」


 覚悟を決めた言葉は簡単にさえぎられてしまったけれど、彼は嬉しそうな表情をしていた。


 そして彼は消え、遠くから別の声が聞こえる。


 父と母のすこし焦ったような、怒ったような声が徐々に近付き、その不安定な声が安心に変わっていくのが他人事みたいに右から左へと流れていった。「探したと」とまだ父は怒っているみたいだったが、その声はさっきよりもずっと優しかった。父の感情もそうだけど、それ以上に、その言葉を聞く私の感情が変わったのかもしれない。私は彼が死んでしまった、ちょうど一年前の、あの夏の終わりの一日から感情を動かせず、私の脳は都合よく生きている彼を描いていたのだ。だけど今は、彼の死を認められる。認めて、地続きではない、新しい秋へと向かっていける。


 あれは夢か幻か。それとも幽霊だったのか。


 もしかしたらあれも私が勝手に創り出した物語なのかもしれない。


 それでも――、


「どこか行かなくていい……って言ってたけど」私は母の顔をしっかりと見据える。「友達のお墓参り……あの、さ。まだ行けてなかったから。行きたいな。もう暗いけど。今日じゃないと嫌なんだ」


 もう、友達、という言葉にはためらわない。父の溜息が聞こえたが、両親が私のお願いに首を横に振ることはなかった。



     ※



 私は気付くとアパートを出て夜の公園を訪れていた。もう暗くなって先ほどの少年たちの姿はなくなり、公園にいるのは私だけだった。都内の公園にあの日の公園と重なる景色は何もなかったけれど、私の心が周囲をあの夏の終わりの一日へと変えていく。


 私はスマホを取り出すと、


「父さん、ごめん。やっぱあの三万円いいわ。忘れて」


 とだけ伝えた。父は「そうか」と、それ以上何も言わずに会話は静かに終わった。


 私は再生する。彼の実際の死、という出来事を使って、生きていることこそが素晴らしいなどと彼を冒涜する気はない。それでも生きている限り、何度も私には再生する可能性が存在する。諦めてたまるか。小説書くぞ。


 もうすぐ九月がはじまる。


 夏のにおいのしない夜風が、私を通り過ぎて、消えていく――。

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夏の終わりの一日 サトウ・レン @ryose

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