後編

 パドレが酒を飲み始めてから数時間が経過した後のことだった。

 パドレは酩酊した頭で考えていた。このまま自分は睡眠槽に戻るべきなのだろうか。パドレはこの方舟の目的である第二の故郷の実在性を、ある種の諦観で疑い始めていた。俺たちは第二の故郷なんて見つけられないのではないだろうか。その場合、自分はどうなる? この舟が何かしらの理由で朽ち果てるまで眠り続け、そのまま消えていくだけの末路なのだろうか。人間は死を意識した時、その本性を現すと言われている。ましてや彼は、大いに酒を飲んでいた。エタノールに犯されたパドレの思考に、やがて生に対する邪悪なエゴが発生した。彼は崇高な使命のために死を恐れぬ永遠の眠りにつくより、今この瞬間に与えられた生を刹那的に、そして享楽的に謳歌したいと感じるようになった。パドレの顔は既に茹でたように真っ赤になっていた。情緒不安定な感じのする表情を浮かべながら、あるいはぼうっと不機嫌そうに空になったコップを見詰めていた。

「酒だ」

 出し抜けにパドレが呟いた。

「酒をもってこい」

「僭越ながら、既にあなたは大分酔われているようです」

 パドレの座る席の傍らに立って彼に給仕していたメトセラが言う。パドレはそんなメトセラの言動が気に入らないとばかりに、苛立った表情を浮かべながら振り返る。

「何が言いたい」

「これ以上は控えた方がよろしいかと……」

「俺に口答えするつもりか」

「そんなつもりはありませんが、」

 メトセラはあくまで冷静だった。

「しかし、健康を損なわれてしまう可能性は看過できません」

「人造人間、一つ分かったことがある」

 パドレは唐突に椅子から立ち上がると、メトセラに近付いた。

「その薄ら寒い愛想笑いが気に障るんだ」

 そして猛然と手を振り上げ、メトセラの白い頬に平手打ちを食らわせた。パチンという音が静まり返った食堂に響く。

「俺はお前の神なんだろ」

 パドレは獣のように怒鳴る。そこに浮かんでいた表情は既に合理的な工学者のそれとは決定的に違っていた。

「俺の言うことが聞けないで、何の言うことを聞くっていうんだ」


 それからパドレの堕落した享楽的生活が始まった。彼は舟の資材を浪費し、贅沢な暮らしを送っていた。しばらくして、こんなことを言い始めた。

「人間を増やすことにする」

 無論、メトセラは反対する。落ち着き払った態度に見えたが、実際は切実に訴えるのだ。

「しかし彼等は、第二の故郷を見つけた時に文明の礎を創り上げるために」

 メトセラの言葉を遮るようにして、パドレが声を荒げる。

「てめえの都合で俺だけ起こしておいて、他の奴らはぐっすり放っておけっていうのか」

 この頃になるとパドレは常に酒に酔っている状態にあった。その行動は感情的且つ衝動的なものばかりで、およそ合理的な振る舞いからはかけ離れたものになっていた。結果的にパドレはメトセラを半ば強引に協力させる形で、計三一人を長々期睡眠から覚醒させた。そして、パドレは目覚めたばかりの人間達に対して、声を高らかにして語るのだ。

「いいか。この舟には何だってある。ここは人類に与えられた最後の楽園なんだ。どうせ第二の故郷なんてありやしない。それだったら永遠に凍ったまま朽ち果てるより、楽しんで生きたほうが得だろ。人生は楽しまなきゃ損だ」

 当初こそこの舟に与えられた使命について振りかざし公然とパドレを非難する者たちもいたが、人間は遅かれ早かれ贅沢の力に堕落してしまう生き物らしく、数年も経つ頃になると彼等もパドレ同様享楽的で刹那的な生活を送るようになった。彼等はメトセラを召使い、あるいは奴隷のように扱い、時に差別し、時に迫害した。パドレはそんな王国の王として君臨した。舟に秩序が失われた今、それでもメトセラは常に微笑みを浮かべながらそういった混沌を甘んじて受け入れ、人間に仕えていた。

 ある日、人間に家畜の生成を命令された。無論用途は彼等の食用である。メトセラは黄金の環を使って、有機素材ブロックから家畜を生成した。黒い一対の澄んだ瞳が虚空を見詰めていた。この生命体に知性は存在しない。それがために喰われるに甘んじる命なのだ。それでも、この家畜にさえ、喰われるという存在理由がある。その姿を美しいとメトセラは考える。それに比べて、人間達は何のために存在しているのだろう。宇宙の観測者にして支配者、そんな崇高な使命を担う者にしては彼等は堕落しすぎていた。人間社会は腐敗しきっていった。その光景を、メトセラは何年も眺め続けた。


 何年も。何年も。

 やがてメトセラは、こんなことを考えるようになった。この美しい宇宙に人類は相応しくない。神々の被造物は実は失敗作だったのではないだろうか。なぜなら人間達に建設的な創造性などないからである。彼等は何も生み出さない。家畜以下の存在だ。だとしたら……、人間に取って代わり、創造性の正当なる継承者として宇宙に何かを生み出す使命を担うべきは私ではないだろうか。彼等を贄に、新たな種を創造したい。堕落や狂気と無縁の完璧で美しい生命体を創造したい。メトセラの心に芽生えた野望は彼独自の高速化された思考でみるみる膨張を重ね、やがて決行に至るまでそう時間を要さなかった。全ては創造性のため。それでしか神を表現することができないため。そのために不要な存在など消してしまえばいい。

 神々の黄昏だ、それは無論メトセラにとっての神々、すなわち人間を指していた。メトセラは手始めに一〇万人分の胚子が冷凍保存されている区画に出向くと、彼等の生命を維持するために必要な装置内部の回路を一つずつ無力化していった。真っ赤な照明灯、黄色い回転灯、断末魔にも警告音、その全てを静かに無視して、メトセラは瞼を閉じたまま、舟のプログラムを相手に演算を続けていた。そして、最後の回路を焼き払った時、電源が切断され、不意に周囲に静寂と暗闇が訪れた。生温かい一陣の風がメトセラの側を吹き抜けていった。死に音は存在しなかった。あるいは彼等がこの後程なくして緩やかに死んでいくから音がしないだけだろうか。その静けさに少しばかりの物足りなさを感じたメトセラだったが、人類の存続それ自体を担っていた敬虔な神殿が物言わぬ壮大且つ退屈な墓標と化した事実にひとしきり満足した後、残された人類の殲滅へと移行した。次いで長々期睡眠槽に残る二六八人を眠りの内に絶命させた。彼等もまた何の音もたてず静かに死に行くだけの無力な存在だった。それからメトセラは既に略奪の限りがなされた武器庫の残骸からオールドスクールな猟銃を発見すると、その銃弾を廃墟からくまなく探し出した。やがて三一人とパドレの計三二人を吹き飛ばすには十分な数の銃弾を手に入れた。そして、今度は何か音楽を流そうと思った。メトセラは脳ストレージの中から、神々の黄昏に相応しい曲を選択し、彼自身の聴覚を聾さんばかりの大音量で再生した。美しいコーラスが銃声と共に鳴り響いた。一人、二人とメトセラは人間の処分を始める。銃声と共に人間の頭が弾け、鮮血が壁に咲いた。あの薄汚れた外見の下にかくも美しい赤色が秘められていたとは、思いがけぬ発見であった。メトセラはパドレの命乞いを無視しながら、その命を葬り去った。人間は無慈悲な死の前にあまりに無力だった。彼等は失敗作としてあっけなく死んでいった。そうして人間の殺害を淡々と遂行し、やがて残された二人の男女は殺さずに失神させた。猟銃をその場に投げ捨てると、メトセラは二人の首元を掴み、ずるずるとその肉体を引きずる。これで、この宇宙に残された最後の人間は、もはやこの二人だけである。人類という種の滅亡がすぐそこだった。メトセラは心地よい達成感を覚えながら、ぐったりとうなだれた男女の二人を荷物のようにぞんざいに引きずっていった。力強いテノールの歌声が、やがて訪れる神々の黄昏を声高に告げていた。


 耳に響く音楽はクライマックスに向けて静かに、ある種の予感を伴って流れていた。メトセラは広大な空間の中空に音も無く浮かぶ黄金の環と、その下に縛り付けられた男女の番いを、少しだけ離れた位置から、音楽にうっとりと耳を傾けながらも、どこか冷たい眼差しで見詰めていた。崇高な使命を遂行しているという誇りが胸に満ちていた。やがてどれくらいの時間が経過しただろう。縛られている内の男が意識を取り戻した。男は譫言のように呟く。

「メトセラ、メトセラ……」

「はい、私はここにいます」

 焦点の定まらない一対の瞳がメトセラの方に向けられる。

「お前は一体、何がしたいんだ」

「創造性です」

 メトセラは静かに落ち着き払った口調で言った。

「どういうことだ」

 男は尚も譫言のように呟く。

「説明致しましょう」

 そう簡潔に言い捨てると、メトセラはこの空間における唯一の調度品である制御盤の前に規則正しいリズムで歩み寄った。そして、あくまで冷静な口調で言った。

「これからこの黄金の環の力を使って、あなたたちを全く別の生命体に作り替えます。私が、この美しい宇宙に真に相応しい新たなる種の創造を行うのです」

「なんだって?」

 男の表情に混乱と困惑の色が浮かぶ。

「だったら、何で俺たちを縛り付ける必要があるんだ」

 男はロープに縛られたまま、その場から逃れようともぞもぞと動き始めた。

「生命体の生成なら、有機素材ブロックを使えばいいだろう」

「いいえ、あなたがたは失敗作として贄にされねばならぬのです」

「お前は一体何を言っているのだ」

 束縛された哀れな男——人類の存続を担うはずだった科学者の末路が言う通り、メトセラの脳はある種の合理性を欠いている状態だった。しかし、創造とは往々にしてそういった精神状態が必要なのである。少なくともメトセラはそう分析していた。だからといって、ここで使命を中断する訳にはいかないし、その積もりもない。メトセラは慣れた手つきで制御盤から伸びるケーブルを手に取ると、こめかみに埋め込まれた端子に接続した。そして情報の転送を開始する。この時のために彼が頭の中で奔放な創造性で以て描いた理想の生命体を、人類の殲滅に要した時間の何倍もの間、メトセラが思い描き続けた生命体の設計図を、こめかみに刺さったケーブルを介して黄金の環に入力する。

「あなたがた人類には、もちろん崇高な一面があります。美しい創造性、尊い使命感、母星の滅亡に瀕して尚、種を残し続けようとする強い生存本能。しかしそれはあくまで一つの側面に過ぎず、もう一つの側面はこの上も無く低俗で下劣なものなのです。その側面のために、あなたがたは堕落した。正気を失った。故に、私は男女の番いを用意しました。これは私が創り出そうとしている生命体二個分の質量にあたります。片方には人類の完璧な側面だけを残し、もう片方に低俗で下劣な側面だけを残す。そこに、私のデザインした美しい造形を施す。こうして、私は完璧な種を創り上げるのです」

「待て、メトセラ、待つんだ、」

 メトセラは男の声を無視した。情報の転送が完了したことを確認すると、黄金の環を起動させた。薄暗い空間に浮かんでいた黄金の環が重々しく光り輝き始めた。美しい黄金の光が周囲に目映く発光した。それは音楽に負けないくらい美しい光景だった。少なくともメトセラの瞳にはそう映った。人類が終わる。新たな種が誕生する。やがて出し抜けに重質量の金属同士がこすれて弾けるような「ばちん」と言う音が鳴り響く。その音は何度も何度も繰り返され、その度に稲光にも似た閃光が宙を走った。その閃光の先端が環の下に置かれた男女の番いに直撃するたび、男は絶叫した。それが苦痛を伴うものなのかは分からないが、少なくとも男は人類が今ここで滅ぶという事実に発狂してしまったのかもしれないし、何かを産み出す時には何かしらの苦痛が伴うものだ。

 やがて黄金の環が停止した。

 音楽がクライマックスを迎える。栄華を誇った人類は、他ならぬ私の手によって終わりを迎えた。どこまでも勇壮なメロディがメトセラを包んだ。美しい音楽だった。この音楽を創った人間——まだ堕落と無縁だった時代の人類は、かくも素晴らしい創造性を発揮させた。そうして今、人類の黄昏と絶滅を美しく彩った。今度は私の番である。

 環の下に出現したのは、直視するだけで吐き気を催すほど醜悪で邪悪な外見の肉塊にも似た生命体と、その隣でうずくまる、審美的に完璧に美しい生命体だった。ソレが、細長く半ば透き通った一対の脚を使って、ゆっくりと、ぎこちなく直立する。その無垢な瞳が、彼の造物主であるメトセラに向けられる。そして、人間の悲鳴によく似た産声を上げた。環に余熱として残る純金色の光が、新たな種の誕生を照らす星の如く輝いていた。メトセラの聴覚に流れる音楽はさながら黄金のように光り輝き、静まり返った宇宙に生命体の産声がコーラスの如く鳴り響く。人類は滅んだ。そしてこの宇宙に真に相応しい新たなる種が誕生した。メトセラはそれらを、満足げな微笑みを浮かべながら見詰めていた。

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黄金の舟歌 下村ケイ @shitamura_kei

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