三
広い草原に僕は立っていた。大地の緑や空の青の色も、風が巡る音も肌触りも、陽気も、何もかもが完璧で、しかしそれゆえに自分が彼らから隔てられている感覚がある。取り残されないように、大股で歩き出す。サーカスの始まりに響きそうな、愉快で、それでいて魅惑的なラッパの音が聞こえるようになってくる。僕の輪郭がさらに小さくなっていくようで、負けてしまわないようにと呼吸を深くして、腕を振って歩く。
やがて、二色しかなかった世界に二つの影が現れた。モモだ。それから真っ白な象。背は真正面の彼女よりも低いのに、付け根を撫でられている耳だけは地に着くほどに大きくて、儚げな麗しさがあった。
これは、夢だ。その光景を目にしてすぐにわかった。
そしてその瞬間、僕の頭に一年前の春の記憶が脳裏で映画のように蘇った。
──懐かしい。私も習ったわ。
中学二年生の授業に使う「アイスプラネット」という小説の予習をしていたその日。モモは僕のノートを覗いていた。「僕」とそのおじでほらのような話ばかりする居候の「ぐうちゃん」の話だ。
──あ。
彼女が小さく声をあげたのは、物語の結末をまとめていたときだった。旅に出たぐうちゃんから手紙が届く場面。「二枚の写真」と、僕は彼の旅の話が本当であることの証拠となったものについて、そう一言記した。それを見て、彼女はこんな話をしてくれたのだ。
──私が写真を始めたのも、これがきっかけだったのかも。
かも、という不思議な言い回しだった。というのも、彼女自身もその時に初めて気づいたのだそうだ。
──ぐうちゃんの言っていたことが本当だってわかって、ちょっぴり絶望したんだと思う。
なかなかピンと来なかった。僕にとってぐうちゃんのあの手紙は、絶望よりもむしろ、希望に分類されるメッセージだった。授業の主題にしようとしていたのだって、彼の言う「不思議アタマ」をキーワードにした学ぶことの大切さで。
──たとえば彼の話が、夢で見たものの勘違いだったらよかった。ねえ、あなたは思ったことない? 夢は夢のままだからいいんだって。
彼女はそう続けた。僕はますますわけがわからなくなった。「夢は叶えられた方が嬉しいと思うんだけど」、なんとかそう返した。今だってその考えは変わって……いない。
そうかな、と彼女は伏し目で呟いた。
──それが正しいことでも居心地が悪かったら、素直でいてもいい気がしてしまうの。夢って何もかも、ほんとうにするべきなのかな。
そうだ、その方がいい。はっきりと思っていたはずなのに、言えなかった。それを超えにして彼女を傷つけるのが怖かったからだと思う。でも、君みたく今気づいたことのなのだけど、これは僕が教師の道を選んだ理由の一つだったんだ。誰かの夢が「ほんとう」になるのを、応援したい。
あ。……ああ。
これも、他人に願っていただけなのか。
目を逸らし「ううん」と唸り続けて、逃げていると、ごめん、と聞こえてきた。
──その方が、いいよね。
僕が視線を戻したときには、彼女はへにゃりと笑っていた。一瞬気にはなったけれど、普段のゆるい表情として、あの時の僕は見逃してしまっていた。今記憶にある笑顔は、雨に打たれた花びらのように、こんなにも弱々しく見えるのに。
──わかってる、いけないって。わかってるから、私もぐうちゃんみたいに「ほんとう」を見つけだして映せる人になろうと思った。夢を『ほんとう』にできる側に憧れたの。
「モモ」
僕は彼女の名前を呼んだ。大声だったのだけど、彼女はピクリともしなかった。
──これはぬいぐるみなの。
返事は返ってきたけれど、自分がフィルムの外にいるような感覚が続いていた。声が遠かった。『白き象と女』なんて名前が付いてしまいそうな、芸術作品を見ているようだった。
知っている。そいつは夢の産物だ。そして卒業文集で君が信じていたフェアリーエレファントも、同じだったんだな。その「勘違い」を悟ったきっかけが、ぐうちゃんの二枚の写真だったんだろ?
──本物はまだ見つけられていない。でも探し続けるから。
彼女は、奇妙なくらいに同じリズムで象を撫で続けている。
「行くなよ」
僕は叫んだ。多分、一年前の僕なら選ばないはずの必死なことばと、声音だった。
はじめて、この世界のものが僕のことに注目したような気がした。彼女もその一つで、
「ずるいじゃない、珍しくわがままを言ったかと思えば。夢を諦めろって言うの?」
モモは「ほんとう」を目指そうとしていた。幼かった自分の夢を無きものにして、教科書や僕と同じ存在になろうとしてくれた。それでもこの景色を忘れられなくて、自分が「まともじゃない」と歯がゆくて、投げ出したくなってしまったんだと思う。
「そうだ。君の夢が僕のそばからいなくなるものなら、それだけは耐えられない」
それでも僕はなお残酷に、僕の「ほんとう」を告げたい。僕は確かに夢とか幸せを良いものだと言いながら、誰かに託して満足してばかりだった。それはエゴと呼ばれても仕方ない心で、認めることを無意識に避けていた。でも間違いだったとは、もう思わない。もう、怖くない。君や生徒たちに願うその僕は、紛れもなく「ほんとう」だったのだから。
なあ、信じてくれ。この夢が覚めて君が帰ってきたら、僕も僕の見たい夢や景色をたくさん話すし、案内するよ。君の夢のフェアリーエレファントほど美しいものは見せられないけれど、一緒に感想を言い合えるなんてのも幸せだと思うんだ。
「だって僕は君を」
フェアリーエレファント 幾兎 遥 @ikutoharuK
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