二
半年ほど経って、夏になった。彼女は戻ってきていない。友人の家にもいなかったし、連絡先も知らないので尋ねられていないが、不仲だったという唯一の肉親の母親のいる実家には戻っているということもないだろう。フェアリーエレファントもあれから図書館でも調べてみたのだけど、そんな生物を取り上げている書籍はなさそうだった。愛しているという彼女の話よりもネットや専門家の知識を信じようとする僕の方が滑稽なのだろうか。だがテレビで取り上げられたというのなら、ある程度の人に知られていることと考えていいはずだ。いくらなんでもこれで冷ややかに笑われたくはない。
一ヶ月ほどは隠す努力をしなければならないくらいには落ち込んでいたけれど、もう既にその気丈な振る舞いの方に心身共慣れてしまった。さらに新年度になると初めての担任を持つようになって、仕事に忙殺され、プライベートのことを気にしている余裕もなくなっていた。僕の家のテレビの録画リストには、まだ観られていないクイズ番組やミステリードラマが溜まりに溜まっている。食事も結局コンビニ頼りとなった。
夏休みの最中のその日、僕は一年前から副顧問を務めている吹奏楽部の定期演奏会のリハーサルのために会館に来ていた。吹奏楽部、といっても僕は楽器の類をやっていたことも、器楽を聞く趣味も元々はない。余りとして充てがわれたといったところである。とはいえ、大体のことはせっかくだからと一応足を突っ込みたがる僕の性格は、部活動というものにも順応する。放課後時間があるときは音楽室を訪れて、指揮者を兼任する顧問の皆川先生が演奏に出す指示をメモしてみたり、練習後は生徒のおしゃべりに付き合ったりしてきた。そのかいもあってか、今ではこの空間で過ごすことを実際に楽しんでいる。
楽器ケースのみが席を埋める客席の広報に座って音出しを聞いていると、中ほどにある出入り口が開いて、何やら大掛かりな荷物を背負った初老の男性がえっちらおっちらと入ってきた。手伝おうかと席を立とうとしたところで、彼が見知った人物であることに気づく。
「村田さん」
僕は思わず小さく声を上げた。
「おお、キミは……なんとか君」
モモの勤め先である写真館の店主だった。
午前中のリハーサルが終わり、生徒たちが昼食を取りにいっている間、僕は村田さんと話をした。聞けば毎年うちの学校の活動の撮影を頼まれているらしい。
彼とは一度だけ実際に会ったことがある。モモとの写真を撮ってもらった。もっともそれは彼から「是非に」と呼んでもらってのことだったのだが、できあがった写真は確かにどれも素晴らしかった。なんというか「証」と呼ぶにふさわしい一瞬が切り取られているのだ。だからこそ彼女の去ってしまった今の家では、時たまフレームの中のそれが目に入ると不安な気持ちになる。
「フェアリーエレファントって、知ってますか」
簡単な挨拶を終えて少し無言の間ができた後に、僕はそう尋ねた。
「はあ……聞いたことないねぇ」
「モモが残した置き手紙に書かれていたんですけど、調べても出てこなくて」
名字を用いるべきだったかとここまで言ってから気づいたが、その必要はなかったと思い出す。村田さんも彼女のことは「モモちゃん」と呼んでいた。
「ん? 朝井先生、知り合いなの?」
ステージ側から声がしたので見てみると、皆川先生が客席を上ってきていた。僕らの元にたどり着くと、今日はありがとうございます、村田さんに小さく会釈する。
「どうもどうも。ええと、彼はね……」
「あー、いいですよ村田さん。僕の彼女の勤務先の方なんです」
村田さんはちらりと気遣う視線を送ってくれたが、彼には素直に話すことにした。
「ええっ、朝井先生彼女いたの? いや、まあ……いてもおかしくない歳か」 「もしかしてバカにしてます?」
「だってあんた真面目人間だからさ、仕事とプライベート両立するの下手くそそうだもん」
「ひど」
「ハハハ、センセイの言っていることはわからなくもない」 「ちょっと村田さんまで」
僕の苦情をよそに年長二人はニタリと笑い合う。……実際できてなかったらしいから今に至るのだけど。
「センセイ、フェアリーエレファントって知ってる?」
二人は勝手に僕持ち込みの話を始めていた。
「へえ、なんですかそれ。曲のタイトルにあったらメルヘンなものになりそうだなぁ」
結局先生の回答も、ちょっとらしさが入っただけの同じもののようだ。
「だって」
「ですよね」
「朝井先生の話?」
「ええ……僕も実在するのかは疑っているんですけど。普通の半分ほどの大きさの、白くて、耳だけダンボみたいにでっかい象だと」
「ふうん、神秘的だね。いるなら会ってみたいなぁ」
皆川先生がステージを見る目を細める。戦隊ヒーローを呼ぶ少年のような瞳は、二十近く若いはずの僕よりもずっと何かを信じるのが上手そうだった。
「じゃ、僕は譜面の確認もあるしこの辺で」
不意にそう言って、皆川先生は村田さんにもう一度頭を下げた。近くの出入り口へと歩き出してしまう。単に用事というだけでなく、僕に気を利かせてというのもあったと思う。ただの茶化し好きに見えて、実はそのひょうきんさも含めて思いやりのある人なのは、彼の普段の生徒への接し方から知っている。
皆川先生がいなくなると、村田さんは独り言のように語り始めた。
「モモちゃんは本当にいい写真を撮る」
僕ももちろんモモの撮る写真を見たことはあるし、最も身近なファンであるつもりだ。なのに「知っています」という肯定も「どんな風に」という彼女の上司への質問も今の自分がしていいことじゃない気がして、僕は黙って頷くだけだった。確認してもらえるかわからないくらい小さな首の動きだったけど、僕のそれからほぼ正面を向いたままの彼の次のことばまでの空白はちょうどいい長さをしていた。
「風景にしろ人物にしろ、被写体の眼が素直なんだ。山や塔がどんな心で人々を迎えているか、人がどんな志でそこに立っているかが、どうしてだか、ちゃんとわかるんだ」
客席にいる人間の視線というのは、どうしてだか、度々ステージに向かう。僕もそう。たとえそこに演者もスタッフもいない時でも。ただ他に目をやるようなところがないからかもしれないけれど、そこで誰かが演じているときに感じるのとほとんど変わらない熱が、目の奥の方から湧いてくるのだ。
「だけどね、彼らを撮っている彼女の眼は違う。笑ってはいるけれど、それがすごく眩しいものを見るようで悲痛そうでもあるんだ。決して自分はなれないと、カメラで壁をつくっているように見える」
その熱の正体を何というのか、僕にはわからない。
「僕はちょっと人と違っていても、自由な彼女が好きでした」
それでも、彼女に注いでいた愛とは違うもののはずだ。僕は彼女にステージの上に立てるような人間でいてほしいと思ったことはない。定まった場所で大勢から注目を浴びる人でいてもらう必要はなかったのに。
「キミは、本当にいい人だね」
村田さんは穏やかに言う。僕は真逆の位置にいて、ますます増える見えないものに胸をざらつかせていた。
「よくわかりません。自由が好きというのは真面目と正反対な気がしますが」
「だけどキミがそれを勧めるのは、常に自分じゃなくて他人に対してでしょ」
ああ。それは、ぐうの音も出なかった。蜘蛛の糸ほどの光の爪先に、ちょんと刺されたようだ。確かにそうだった。僕は自由の尊さをモモや生徒に説いていただけで、自分がそうでなりたいと願ったことはない。僕には、怖かったのだ。自分が何か願うことで、今ある大切なものに見放されるのが。
「自由はいいものだ。責任が伴うという枷の話はよく聞くが、それでも好きなことができるということほどありがたいものはない。だから、キミの考え方はもちろん悪いことじゃあない」
村田さんは多分僕の恐怖まで知っている。それでも彼は、相変わらず穏やかだった。
「キミは何も間違っていない。真面目で、とても優しい。間違っていないからこそ、彼女も間違っちゃいけないと思ったのかもしれない」
「じゃあ、僕はどんな人間でいたら彼女を傷つけずに済んだと言うんですか」
冷静には言えなかった。半笑いで、空を引っ掻くようだった。悔しかった。
「それが真面目人間なんだよ」
村田さんはかかかと笑う。
「もう一度言うが、キミは間違っていない。誰の敵にもなっていない。だから、何も改めようとしなくていい。彼女に対してもう正しくあろうとしなくていいんだ」
彼が言うのは「しなくていいこと」だった。「すべきこと」は何なのだろう。そう考えたところで気づく。おそらく彼は、知っていて言葉にもできるのに、あえてそうしなかったのだと。
僕が自分で探さなければいけないのだ。いや、探せることなのだ。他人に縛られることなく、自分の自由を望んで。
僕の瞳が、村田さんの微笑みかける眼を映す。
「ボクはまだ、そのうち彼女がいつもの数倍の写真を引っさげて帰ってくると思ってるよ」
午後の日程の最後に、引退する三年生の記念撮影があった。ステージのひな壇に並んでぴんと立つ姿を、僕はまた客席で眺めている。
みんな、笑っている。目を半月に、歯を上品に見せて綺麗に笑う子、反対にそんなに上手くなくて、口角だけを遠慮がちにあげる子。けれども、七五三でカメラマンを困らせてしまう幼子のように全く笑うことができない少年少女はもういない。記念撮影とは笑顔で臨むべきものなのだと彼女たちはわかっている。成長の真っ只中にあるから。身体も、頭も心も。
だけど、君が羨んでいるほど完成した仲間じゃないんだぞ。
僕は姿の見えない僕の彼女を諭してみる。
同級生同士でもギクシャクした関係のところは今でもあるし、後輩に頭を抱えている子もいれば、逆に彼らの陰口に挙げられる子もいる。何人かは僕ら教員にも文句を言う。去年は全然練習に来なかった子もいるし、つい一週間前にソロが上手く吹けないと泣いていた子もいる。みんなカメラの前では隠して、あるいは忘れて笑っているだけだ。そういうのがちょっとずつ賢くできるようになってきただけなんだ。
……違うな。
ふと、彼女の背中に語りかけている僕の背中の方から、僕の声がした。
それこそが、彼女にとっては眩しかったのだ。絵画や写真の鮮やかさとは程遠くままならない現実に向かい合い、抗わんとする人たちが。その術にまだ幾多もの可能性のある子どもたちが。そしてその可能性というのは、自由とは少し違うものなのだと思う。
きっと、そこにフェアリーエレファントはいないのだろう。
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