神様編 #02 カルテジアン劇場の客席にて

 ひるは、あたまなかかんぜんげんじつかいえがいたとされている。かれこうせきのうないかいでのじっけんてきこうからげたものだとうが、そこにはひとつのもんだいしょうじる。ひるあたまなかかいそんざいするひるは、またかんぜんかいえがいているのではないか? あるいは、このかいもまた、ひるあたまなかのものではないか? こういったろんれんげんつづけつろんないことを“げんこう退たい”とぶ。

 さて、げんこう退たい何故なぜこってしまったのか。げんいんたんじゅんである。ひるえがいたかいかんぜんであったというぜんていちがっているのだ。かれは“げんじつかい”とばれる、じゅつがなくがくようはってんしたかいがあるとしんじていたが、それはかれもうそうさんぶつぎない。のうないの“げんじつかい”でらしているひるそうぞうし、ぶんしんあやつる“げんじつかい”のひると、かみとしてあがめられているじっかいひるどういつしたけっかれかいすべてをみずからがつくったとおもってしまっている、というわけだ。

ちゅうりゃく

 かれとくてきせいえ”は、わばばくはつである。かれとくだんたかのうこしたさっかくと、それによるなんらかのてきせい――おそらく、ふくすうてきせいふくざつかたちおうようしているとかんがえられる――のきゅうそくはつげん。そんなげんしょうてきこすことができるのだ。それはまさしくかみわざであるといえよう。そのかみたるのうりょくによって、かれおもみは益々ますますきょうなものになっていった。

 かれおもえがいた“げんじつかい”をねんしゃしたりょう、これはちゅうおうれきはくぶつかんのバックヤードにかんされていて、わたしはそれをたことがあるのだが、まさにようというべきしろものであった。じゅつなしでてっかいゆうし、けんちくのうなアーティファクトがそこらにらんりつしているのである。いくらがくはってんしているとはいえ、あれをげんじつとはとうていびがたい。

ちゅうりゃく

 てきせいというがいねんまれてからやく60ねんいまだ“え”にるいしたものははっけんされていない。それはせつげんのみならず、ぞまりによってかたられたせつぜんぜんにおいてもどうようである。もっとまれとされるてきせいみず”がかくにんされただけで8にんであることからかんがえても、やはりそのほかてきせいとはいっせんかくしたのうりょくおもえてならない。

 じょうが、わたしが“え”をてきせいひとつとかんがえないゆうである。


――あお61げんしんげつちょがくてきシュプレヒコールのススメ』だい4せつ「カルテジアンげきじょうきゃくせきにて」よりばっすい

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非科学的シュプレヒコールのススメ 亞屍(あかばね) @Akavane

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