夕暮れの怪物
サトウ・レン
夕暮れの怪物
あの日、夕暮れの緋に染まる異界に足を踏み入れた先で、僕は怪物と出会った。
十年ひと昔という言葉を実感するように、十年ぶりに訪れた地元の駅は有人から自動改札機に変わっていて、駅の周囲に立ち並ぶ店の看板は見知らぬ名前となっていた。高校の頃は変わり映えのしない寂れた景色にもやもやとした感情を抱き、この町から離れる思考ばかりが頭の中をぐるぐると回っていたのに、今では変わってしまった場所ばかりを探しては感傷に浸ってしまう。
『兄ちゃん、栄井くんって覚えてる?』
きっかけは妹からの電話だった。一時はほぼ絶縁状態だった両親との関係が一番悪かった時期も妹とは連絡を取り合い、定期的に会うようにしていた。雪融け、とまでは言えないけれど、両親とはときおり電話で声を聞き合う程度には改善傾向にあり、それでも実際に顔を合わせることはいまだにできずにいる。
久し振りに会う今日は朝から胃の痛みがずっと取れずにいるけれど、帰省の本来の目的は両親と顔を合わせることではない、と自身に言い聞かせることで精神の平穏を保っていた。
駅を下りてから乗ったバスはぼくの生まれた町を目指して、緩やかな走行を続ける。田舎の小さな町へと向かう道すがら、窓越しに見える景色の中に映り込むひとの姿はどんどん減っていく。
『栄井くん? ……あぁ、いや、覚えてるけど』
『うん。兄ちゃんの小学校の同級生の』
回想に逸れていた意識をもとに戻すように身体がすこし揺れ、気付くとバスは停まっていて、乗客は僕ひとりだけになっていた。そこは終点で、僕にとっての目的地でもあった。
お金を入れて、バスから下りようとする僕の背中に、
「久し振りだね」
と声が掛けられ、驚きつつも振り返ると、その顔に見覚えがあることに今さら気付いた。そのひとは僕が学生の頃からバスの運転手をしていて、近所に住んでいることもあり、顔ははっきりと覚えているにも関わらず名前が出て来ないけれど、十年以上会っていなかったそれほど近しくもない関係の相手に気軽に声を掛けてくる、という状況がこの地元らしく、すこしうっとうしくも懐かしかった。
「はい。お久し振りです」
「帰省かい?」
「そんなところです」
顔は当時とさほど変わらないけれど、頭髪の薄さに時の流れを感じさせる彼に軽く頭を下げると、彼はにこりとほほ笑みながら手を上げ、ゆっくりとバスのドアが閉まっていった。
動き出したバスは僕から離れていき、僕はバスをぼんやりと眺めていた。
『栄井くんが、どうしたの?』
『亡くなった、って』
僕はスマホを取り出すと、家にいるであろう妹に電話を掛けた。
「悪い遅くなった。今から帰る」
『遅い。もう夕方だよ』
停留所は緋色に染まり、その艶やかな風景に目を向けながら、僕は思い出していた。
自殺した、という栄井くん。そんな未来など頭を掠めることもなかった少年時代の、彼との苦い想い出を。
※
僕たちが小学生の頃、それが全国的なものだったのか、僕たちのクラスだけでのものだったのかは分からないけれど、都市伝説とか怪談とかがすごく流行った時期があった。ちょっと暇つぶし程度のものではなく、本格的な熱の入れようで放課後にクラスの生徒半分近くが真剣に幽霊がいるかどうかで討論になることまであり、今思うとなんでクラス全体があんなに熱狂していたんだろう、と不思議になる。
そんな中でも近所に住んでいて物心の付いた頃から知っている佐藤くんののめり込みようはすさまじく、雑誌の『ムー』を定期購読までしていて僕自身は一度も買ったことがないのに、あの当時、毎月のように彼の家で読んでいた。興味がなかったわけではなくそれなりに楽しんでいたけれど、今思えば能動的に興味を持って接していたかと言われれば、彼に巻き込まれていた部分が大きいのは間違いない。
「なぁ、知ってる?」
と、あの日も放課後、急に教室で佐藤くんに話しかけられたのが始まりだった。
「何が? いつも思うけど、何の話か、をまず話せよ」
「悪い悪い。ほらあれだよ。最近噂になってる」と佐藤くんがそこで声を潜める。「夕暮れに出る、っていう」
「あぁ――」
佐藤くんの最近の興味は学校や地元の怪談や都市伝説を発掘することで、町の人にまで聞き回っていることは知っていた。その行動によく誘われることがあったけれど、僕はどうも乗り気になれず理由を付けては断っていた。彼は僕以外にも怪談仲間というかオカルト仲間というか、そういう連れ合いが何人もいたので僕に断られても気にした様子はひとつもなかった。
実を言うと、佐藤くんのその熱中ぶりが最近怖くもあった。知らないひとの家に忍び込んだり、とかそんな犯罪めいたことを平気で行い、平然と口にする佐藤くんとその仲間たちからすこし距離を置きたいと思っていた。それでも子ども社会というのは大人のそれと変わらないくらいに複雑で、はっきりと声に出すことはできなかった。
〈夕暮れの怪物〉
町外れに、いくつかの家屋が立ち並びその周りを田んぼが囲む僕らの住む地区よりさらに寂れた地域があって、そこに夕暮れ時、怪物が出るという噂が学校内で流行っていることは僕も知っていた。
かすかな恐怖とは別に、僕はそれを口にすることにためらいがあった。
「決まった周期で出るらしいんだけど、今日がその日みたいなんだ。なぁ行かないか?」
「え、いや僕は――」
と言いながら、僕の目に帰る準備をする栄井くんの姿が入り、罪悪感に思わず声が止まる。
この罪悪感の正体をあの頃ははっきりと言葉にできず、もやもやとした気持ちになるだけだった。でも今考えれば、あの地域に住むひとたちにとっては気持ちの良い話ではない、という配慮が子どもながらにあったのだろう。
「行こうぜ。今日、一緒に行く相手がいなくてさ。どうせ暇だろ」
「別にやることなんていくらでも」
「ほらほら」
今回も断るつもりだったけれど、佐藤くんは僕の言葉に聞く耳を持ってくれず、「じゃあ正門にいるから」と言葉を残して、教室を出て行った。
はぁ、と心の中でひとつ溜息を吐き、僕も学校を出る準備をしていると、
「大野くん」
と声変わりを終えたすこし低めの声を掛けられ、声のほうに顔を向けると、栄井くんが立っていた。
大野は僕の名字で、栄井くんとは同じクラスにいても話すことはほとんどなかったので自分の名前を彼に呼び掛けられることに不思議な感覚を抱いていた。
「ど、どうしたの?」
さっきの会話に対する後ろめたさがあり、どもりながら僕が言葉を返すと、
「僕の住んでいる地域まで来るの? 怪物を探しに」
「え、い、いや」
「そっか。多分佐藤くんに言っても喧嘩になるだけだから言わないけど、大野くんは分かってくれそうだから、言うね」
「何を?」
「『夕暮れの怪物』なんて、いないよ。だから――」
「おい。遅いぞ。大野!」
と教室に戻ってきた佐藤くんの言葉に引きずられるように栄井くんと離れて、教室を後にすることになってしまった。教室を出る寸前に見た栄井くんの寂し気な表情が脳裡に貼り付いて離れず、栄井くんの伝えようとしていた言葉の先が気になって仕方なかった。
ほぼ強引に父親に渓流釣りに連れて行かれた時、その通り道でもある栄井くんたちが住む地域を車窓越しに見たことはあった。
ただ実際に足を踏み入れたのは初めてだった。
時刻は夕方の五時を過ぎていて、家屋や畦道、田んぼといった僕の視界に入る景色を緋色に染め、どんよりとしながらも鮮やかな光景に思わず息を呑んだ。
ここは異界に繋がっているのかもしれない。
僕は、僕の目に映る、その幻想豊かな世界に畏れながらも溺れていた。
栄井くんとの会話も忘れ、この先にある怪物の実在を信じたくなり、見たい、という欲求が募っていくのを感じていた。
並ぶ家屋の前を僕と佐藤くんはゆっくりと歩いていく。佐藤くんが何を思っているかは分からないが、そこに恐怖は感じ取れた。
「この辺にいるらしい……」
と、そんな佐藤くんの言葉を聞きながら家屋と家屋の間を通ろうとした時、「あっ」と佐藤くんが何かを指差し、
指の先に目を向けると、
そこには怪物がいた。僕たちの倍くらいの身長……いや実際にそんなにも大きかったわけではないだろうが、感覚的にはそのぐらいの大きさがあり、破裂寸前にまで膨らみ歪みのある容貌は僕に恐怖を与えた。身に纏う茶に変色した衣服を汚しているものは血にしか見えなかった。慌てて佐藤くんを見ると、彼も怖がっているようだったけれど、瞳の奥は嬉しそうだった。そんな表情を見ながら、自分にも似た表情があるのではないか、とさらに怖くなった。
怪物は口を開いて何かを言っているようだったが、僕には聞き取れず、ゆっくりと近付いてくるその姿は僕たちに襲い掛かってくるように見えた。
「に、逃げよう……」
と言った僕の手を佐藤くんが掴んだ。「あ、あぁ、でも……」
佐藤くんは道端に落ちていた石を拾うと怪物の頭へと投げた。その石は怪物の額に当たり、怪物はその部分に手を当ててうずくまっている。
「何、やってんだよ!」
「どんだけ身体の大きさに差がある、と思ってるんだよ。こうでもしないとすぐに追い付かれる。お前もやれよ」
「いや、だって……」
「あんな怪物に何やったって、同じだろ。ほら」
佐藤くんは僕に石を手渡した。その姿は、自分だけが罪を背負いたくない人間が共犯に誘うように見えた。
だけど僕は怪物に向かって、石を投げていた。
人間なら罪になるかもしれない。だけどあれは怪物で、僕たちの行動は正当防衛なのだから。苦しむ怪物を尻目にして、僕たちは怪物を背にして駆けた。
言い訳が何度も僕の内を駆け巡った。
だけどいつまでも罪の意識が僕の中から消えることはなかった。
翌日、学校に着くとその正門玄関で栄井くんとばったり会った。
「ごめん」
と開口一番、栄井くんが言って、僕は何のことか分からず、「えっ?」と聞き返すと、
「黙ってようと思ったんだけどね。大野くんには言っておくよ」
「何のこと?」
戸惑いつつも聞き返しながら、ひたひたと自身の内に迫ってくる不安には気付いていた。
「あんな人だけどさ、僕の父さんなんだ」
それだけ言うと、栄井くんは僕に背を向け、その背は急くように悲しそうに僕から離れていった。
それ以降、ほとんど栄井くんとは話すことなく僕たちは卒業し、別の中学に入ってからは一度も会っていない。
それでも僕にとって小学校時代、一番印象に残っている相手は栄井くんで、もっとも後悔している過去はこの出来事だった。どれだけ後悔しても遅く、過去は永遠に消えることがないと知りながら。
「怪物なんて、いない」と栄井くんは言った。
だけどすこしだけ栄井くんは間違っている……、
あの日、夕暮れの緋に染まる異界に足を踏み入れた先で、僕は怪物と出会っているのだ。一番出会いたくない怪物と。
※
通夜の会場に訪れるひとの数はすくなく、小学校時代の同級生を何人か見つけたけれど、それも決して多いとは言えない。中学校以降の彼のことはほとんど知らないけれど、積極的なひととの関わりを避けていたと聞いている。僕との間にあった一件と彼のその後のことが関係あるかどうかなんて彼にしか分からないことで、だけど関係あると決めつけてしまうほうが傲慢で、おそらく大して関係ないだろう。それでもあの過去のやり取りが僕に深い影を落とした。
「今日はありがとうございます……」
そう僕に声を掛けてきたのは、膨らみすこし顔の歪んだ、小太りなおじさんだった。
僕はそれが一瞬誰だか分からず、しかし額に残る傷痕を見つけて、「あっ」と思わず出そうになった言葉を抑える。
会釈をし、言葉を探して戸惑っている内に、かつて僕が怪物と呼んだそのひとは僕から離れ、別のひとに声を掛けていた。
僕たちの中で勝手に怪物というレッテルの貼られたそのひとは、穏やかな表情を浮かべ、どこまでも怪物という言葉に似つかわしくないひとだった、と今さら気付く。謝る僕の声が実際に外に出ることはなく、心の内でだけでただ反響し続け、僕はその場にいることが耐えられずひとり会場を後にした。
あの日、夕暮れの緋に染まる異界に足を踏み入れた先で、僕は怪物と出会った。
僕の心、という、どこまでも残酷な怪物と。
子ども心という言葉で許せる日など一生来ないだろうし、もしそんな日が来た、としたらそんな自身を一生許さない人間でいたい、とあの通夜会場で栄井くんのお父さんに何ひとつ言葉を発することのできなかったあまりにも弱い、怪物、は実家の布団にくるまりながらそんなことを考えていた。
夕暮れの怪物 サトウ・レン @ryose
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