12「帝国へ、――私達の住まいへ帰りますわ」
「貴公、気でも触れたか!?」
「お止めくださいませ! 公爵様!」
鈍い音がした。
鋼と皇帝服の飾りが軋むような音を発てる。
一瞬の出来事だった。
ニールセンはゆっくりと両膝をつき、やがてその身体を床に横たえた。
ジルはニールセンの傍らへ走り寄り、うずくまり震えるニールセンの身体を抱き起こした。
腕の中にあるニールセンの青白い顔。ひたいからは脂汗が流れ落ちている。呼吸もままならず、必死にジルの腕にすがりついてくる。
「皇后よ……。余……余は、終わりが近いかも知れぬ」
「陛下? どうなさったのです? いやですわ。せっかくここまで私のことをお迎えに来てくださったというのに……こんな」
ジルはニールセンの頬に手を添えた。
その上に、ニールセンの手が重ねられるようにして置かれる。
「よいのだ……そなたの顔をもう一度この目で見ることができて、余は満足なのじゃ……」
愛しい皇后ジルの腕の中で、ニールセンは言切れた。
「ア……アイゼン公! 何てことするんですか!」
ロビンはヴィンレットの胸倉に掴みかかった。
いくら継承権一位といえども、許されることとそうでないことがある。
ロビンは普段からニールセンを軽くあしらってはいるが、皇帝の影武者であることは肝に銘じていた。
それなのに、こんなみすみす目の前で、しかも身内の手にかからせてしまうとは――いくら責めても責め足りない。
ヴィンレットは掴みかかられた腕を振り払うと、自己嫌悪に陥るロビンに対し、なぜか不敵な笑みを見せた。
「僕はニールセンのためを思ってやったんだ。……いい加減、正気に戻ったらどうなんだ? まったく、軟弱にも程がある」
ヴィンレットが顎で指し示した先を、ロビンが辿っていくと――。
ニールセンの足元に、仰向けになった灰色の野良ラスビーが数匹転がっている。
「アイゼン公が切ったのは……まさか、それですか?」
恐る恐る、ロビンはヴィンレットに尋ねた。
「切るもんか。僕は動物には優しいんだ。驚いて気絶しただけさ。陛下と同じでね、はははは。わはははは」
ヴィンレットの高笑いが広間中に響き渡った。公爵殿御自慢の、無敵の笑顔だ。
ロビン少年、思わず絶句――。
ジルはそっと、腕の中のニールセンの身体を揺すった。
「陛下、お気を確かに」
するとニールセンは、ジルのドレスにしがみつくようにして、力なく呟いた。
「……余は、余は、余はそこら中でちょろめいている……白かったり黒かったりする輩が、ヴィンレットの次に嫌いなのじゃ……」
「ああ、僕の方がラスビーに勝ってますか。それは光栄ですね」
きー。きー。
どこかでまた、野良のラスビーがまるで相槌を打つように鳴いた。
――このラスビー、……ひょっとしてアイゼン公が飼い慣らしたものだったりして?
ロビンがふとそんなことを考えていたのは、ここだけの話。
「ジル殿」
ヴィンレットは剣を収め、茶色の短髪を軽く整えた。
「はい、なんでしょう?」
「父君に、ご挨拶なさい。そしたら、僕たちと一緒にオウチヘ帰りましょう。ね?」
行こう、ではなく――帰ろう、と。
ヴィンレットとジルはお互いの目と目を合わせた。
二人の間に流れる優しい空気。ほのかに漂う爽やかな香り。
「ひーっ、また寄ってきおったあっ! ロビン! な、何とかせぬか!」
きー。きー。
ニールセンとロビン、そしてラスビーたちは広間の中を駆け回る。
その異常な怖がりぶりが大公の衛兵たちにやたらと受けている。助けるどころか、指を差し腹を抱えて笑うものまでいる始末――。
「この屋敷に留まっていては、あなたの大切な伴侶が大変なことになりますよ?」
首を傾げて優雅に微笑むヴィンレットに、ジルは思わず自分の気持ちを告げてしまう。
「公爵様」
「どうしました、ジル殿?」
この男も自分のことを精一杯愛してくれている。
その気持ちに応えることができないということも承知で、愛情を惜しみなく注いでくれる。
「ジルのことを……お金を引き換えるための道具ではないとおっしゃられましたお言葉、――嬉しゅうございました」
「それはなにより。そうそう……あいつは初めから、お金のことなんか頭にありませんでしたよ。損得を勘定できるほどの知恵はないですからね」
「ええ――解っておりましたわ」
きー。きー。
「父上様。私は無理矢理借金のかたに嫁いだことになっていましたけれど――違いますのよ。あの婚礼の日に、私が自分の意志で選んだのです、皇后として陛下とともに歩む道を」
マイシェル公は何とか娘を説得しようと食い下がる。
「何をたわけたことを――ジル、お前は騙されているのだ! こんな茶番……ええい! 早くこのものどもを捕らえぬか! 姫もこの屋敷から出してはならぬ。はよう、はようせぬか!」
しかし、一同困り顔。衛兵たちはお互い顔を見合わせて、なかなか命令に従おうとしない。
「ナゼそうやって余の元に集まってくるのだ? ひいいっ。何かが余の背中を這い回っておるぞ!」
もはや腰を抜かし足腰立たなくなってしまったニールセンは、四つん這いになりながら、尚も小さな敵と格闘するのに精一杯だった……。
そんな情けないニールセンを、ジルは慈しむような目で見つめ、そして再び父の姿を真正面にとらえた。
そこに、迷いはない。
「ユアン国には参りません。帝国へ、――私達の住まいへ帰りますわ」
ジルがそう言うと――。
広間中が歓声に沸いた。
呆然とするマイシェル公とは対照的に、側近や衛兵たちはみな祝福の笑みを浮かべている。
そして次々と壁際に整列をし、帝国からの客人と麗しき姫君に、祝福の敬礼をもって応えた。
ヴィンレットが冷やかすように口笛を吹いた。
それを合図にするかのように、ジルはいまだラスビーから這い逃げ回るニールセンの背中に、勢いよく抱きついた。
きー。きー。
(第四話【帝国の落日編】 了)
恋に落ちた皇帝陛下 真辺 千緋呂 @manobe-chihiro
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