第7話

花梨の場合



星は輝き、誰もが眠る深い夜、辺りはしんと静まりかえっていた。

花梨(かりん)は、夜がいかにも夜という、のっぺりした顔をしているのが気に食わなかった。

これがまだ太陽が燦々と輝き、新緑の風が吹いている昼間なら、まだ気持ちも明るく保てるのに…

そんなことをうとうとしながら考えていると、突然プツッと線が切れたように、ワアーと泣き出す赤ちゃんの声がこだました。


ああ、まただ…

さっき寝たと思ったら、もう起きた…


花梨は幾度となく、1カ月前に産んだ赤ちゃんに起こされていた。


授乳をしたのがまだ10分前…

オムツはさっき替えたばかりだし…


花梨はこの男の赤ちゃんに、健人(けんと)と名付けた。

トラックの運転手である平太(へいた)と結婚し、すぐに健人を授かり、家族3人で築20年のアパート暮らしをしている。


花梨は、泣き続ける健人を抱きかかえ、早朝から仕事で遠方に出かける平太を起こしてはならない、とベランダに出た。

梅雨のむんとした生温い風が、重く頬を撫でた。

健人の薄く、綿のようにふんわりした髪も風で揺れている。

花梨が抱っこすると、健人は嘘みたいにぴたりと泣き止んで、母親の胸に寄り添って寝息をたてていた。


でも降ろすと起きちゃうのよね…


花梨の手首は抱っこのし過ぎで腱鞘炎になっていた。

健人が産まれてから毎日この調子で、まともに眠れない 。

元々実家とは疎遠で、頼るあてがなかった。

花梨の母親はスナックのママをしていて、夜はいつも居なかった。

子供に毎日1000円だけ渡して、これで何とかして、と仕事に行っていた。

花梨にはしっかりした姉がおり、小さい頃はそれでよかったが、高校生になると、母親同様男遊びに興じるようになり、花梨は学校から帰るといつも1人だった。

それでも顔を合わせると、姉はいつも優しく、どういう訳かお小遣いをくれたりした。

姉は母親似で美しい顔をしており、髪を明るく染め、短いスカートからスラリと長いあし、町を歩いていると振り返る男性も多くあった。

花梨もそこそこ可愛い顔はしていたが、姉や母親とは似てなかった。

童顔で子犬のようにまあるい目をした可愛らしい女の子、姉のように派手な格好に憧れていたがそんな勇気はない、大人しい子だった。

父親は産まれたときから居なかった。

姉とも似ていなかったので、父親が違うのかも知れないと思ったこともあるが、母親からよく

「あんたらの父ちゃんさあ」

と悪口を聞かされていたので、おそらく同じ父親に間違いないだろう。


ランドリーには山のように積み上げられた洗濯物。

シンクには汚れたままのお皿やコップ、食べ散らかしたカップラーメンの容器。

ゴミ箱には溢れかえるお菓子と菓子パンの袋。


野菜食べてないな…

この子の離乳食始まったらどうすればいいんだろう…

ああ、考えるのも辛い、考えることすら出来ない、もう全て投げ出したい…

花梨の寝不足と栄養不足の頭では、最悪のことしか思い浮かばなかった。


「けんちゃん、ダメなママでごめんね。君を満足に寝かすことも出来ない。でもママ、もう疲れちゃったんだ…」


花梨は3階のベランダから飛び降りたら、楽になれるだろうか、とぼんやり考えていた。

健人を抱き抱えながら、もうろうとする意識のなか、ゆっくり下を覗き込んだ。

下はアパートの駐車場になっており、まばらに車が停めてあった。空いているコンクリートの隙間から雑草が生い茂っており、誰も管理してないのだと伺えた。


「あそこに落ちたら死ねるかな…けんちゃん、ママが死んだら悲しい?まだきっと分からないよね…」


花梨はまるで幼子のように、ぐずぐず泣き出した。泣くともっと悲しくなって、涙がどんどん溢れ出てきた。


「バカなこと止めろよ」


背後から若い男の声がした。

驚いて振り返ると、薄暗い部屋に高校生位の青年があぐらをかいて座っていた。

肩まで伸びた髪をなびかせながら、すくっと立ち上がり、花梨のいるベランダまで歩いて来た。


「貴方は…?」

花梨が不思議そうに尋ねると、想像通りの答えが返ってきた。


「分かるだろ」


青年はふっと静かに笑った。


「ああ…貴方…そんなにいい男になるのね…けんちゃん」


花梨は今さっきまで抱いていた赤子が、クマのぬいぐるみになっているのに気づいた。


「ダメだ、落としちゃ!」


健人はすかさず、花梨の腕から離れたぬいぐるみの腕を掴んだ。もう少しでベランダから下に落ちるところだった。


「危ないじゃん。もう少しで俺、死んでたよ」


「何言ってるの、死ぬのは私だけよ」


「…俺を母親の居ない子供にするの?母さんは家族を作りたかったんじゃないの?」


健人は花梨を憐れむような顔で見つめた。


すると急に、花梨の周りの風景が一変し、気づくと大型トラックの中に居た。

窓ガラスから見えるのは奥深い山の景色だった。

花梨はセーラー服を剥ぎ取られ、下着姿になっていた。

自分の上には、息の荒い醜い男が乗っかろうとしていた。


やめて!


叫ぼうとするけど、全く声が出なかった。

男が太ももをまさぐり、パンツを脱がそうとしたその時。

トラックのドアを開け、勢いよく若い青年が助けに現れた。

旦那になる前の平太だった。

平太は男の顎を思い切り殴り飛ばし、花梨の手を引いて逃げた。

そして、花梨と手を繋いたまま海まで走った。


「俺も同業者だけどさあ、君みたいな可愛い子が知らない奴の車に簡単に乗っちゃいけないよ」


花梨は心が温かくなった。そうだ、平太との出会いはこんな感じだった。

そして、黙って家の近くまで自分のトラックで送ってくれたのだ。

別れ際、花梨は彼の名前だけを聞き、数年後facebookで彼を見つけ、猛アタックしたのだった。


気づくと花梨はまた違う場所にいた。

幅広の大きな川の中に立っていて、足に藻が絡まっている。

そして記憶が錯綜する。

痩せ細った姉が、病室のベッドで咳をしながらしくしく泣いていた。

過度のパパ活のせいで、姉はエイズを発症していた。


「お姉ちゃん?」


花梨が声をかけると、姉はぐずぐず鼻水をすすりながら無理をして笑った。


「まだこっちに来たらダメよ。

花梨が苦しんでるのに助けてあげられなくてごめん。でも私分かるの。赤ちゃんはあっという間に大きくなる。辛かったことが、思い出になって、笑える日が来る」


姉が座っているベッドの下を、川の水が勢いよく流れていた。


「見てご覧、花梨」


姉が手のひらを広げて、小さな一粒の種を見せた。


「これに水をかけるとね」


もう片方の手で、種に水をかけると、その種は姉の手の中で大きく膨れ上がり、輝く緑の葉を付けた1本の木になった。

その木は川の水と反射して、更に美しく揺らめいた。


「綺麗だね、お姉ちゃん…」


花梨はそう言うと、あまりの眩しさに深く目を閉じた。


「花梨、花梨!」


遠くで平太の声がする。ひどく慌てている。


「花梨、起きてくれ!花梨!頼むよ!」


今度は耳元ではっきりと聞こえた。

花梨の頬に、姉の手のひらに生えた木の葉から、水滴がぽとりと落ちた。

…気がした。

だがそれは、平太の涙だった。


「何よう、うるさいなあ」


花梨はうっすら目を覚ました。

ベランダの隅に座り込み、気を失っていたのだ。

そして、現実に戻り、一気に顔が青ざめた。


「けんちゃんは?けんちゃんはどこ!?」


慌てて立ち上がり、ベランダの下を覗き込む。

悪い予感が激しく鼓動を打ちつけた。

そこには見覚えのあるクマのぬいぐるみが落ちていて、泥まみれになっていた。 


「けんちゃんなら中で寝てるよ」


平太は花梨を抱き寄せると、


「ごめん、ごめんな。花梨ばっかり無理させて…俺さあ、早く帰ろうって休憩しないで帰ってきたんだ。そしたら家帰った途端、眠くなっちゃって…今日こそ花梨の代わりにけんちゃん見てやろうって思ってたんだ…ほんと情けないよ、ほんとごめん…」


花梨は、栄養失調の診断を受け、数日間病院で点滴を受けることになった。

その間、平太は自分の姉や、市の育児ボランティアに健人を時々見てくれるよう頼んだり、自分でポトフを作ったり、宅配弁当の手配をしたり、出来る限りの育児参加をしてみせた。

花梨が病院から帰ると、アパートの部屋は綺麗に片付けられており、気持ちいい空間がそこにあった。


お姉ちゃん、まだ人生すてたもんじゃないかな…


花梨は健人を抱っこして、まじまじと顔を見つめた。姉によく似た整った顔立ち、気の強そうな凜とした表情。


「夢で会った君はイケメンだったよ。楽しみだね、ママは長生きしなくちゃね」


花梨が小さく微笑むと、健人も花が開くように可愛らしく微笑んだ。

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彷徨う灯 @aoyama818

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