第6話

樋口の場合


向こう岸にたどり着けば、この針山地獄は終わる。

しかし、靄がかかって、本当に岸があるのか定かではない。

それでも樋口は、足に沢山の刺し傷を負いながら、前へ前へと進んでいくが、一向に岸にはたどり着けない。

しかし立ち止まれば、たちまち針が足の裏を貫通して、そのままズブズブと体を突き刺し、すぐに死んでしまうだろう。


いや、もう死んでしまったほうが楽かもしれない、だけどこのまま針に刺し殺されるのは、今より何倍も痛いだろうな…


樋口はこの地獄を何年も何年も味わっている気がした。


どうして死なないのだろう…


歩く度、磨き上げられた鋭利な針が、足の裏にぷつぷつと刺さり、無数に出来た小さな穴からどぶっと出血する。おぞましい程の痛みはもう限界にきていた。


「おーい、樋口くーん!もう少しよ、頑張って!」


向こう岸から、優しい女性の声がした。若い頃、一時期交際していた初江だった。樋口からプロポーズし、初江の両親に挨拶にも行ったというのに、最後は樋口の方が怖じ気づいて取りやめになった相手だ。


「初江さん…」


樋口は久しぶりに心が温かくなった。樋口の一方的な婚約破棄に、黙って従ってくれた女性だった。

初江には何も問題はなかったが、樋口の母親が完璧主義者で、初顔合わせの時、道に迷って時間に遅れた初江を許せずにいた。

つまらない事だが、時間に一分でも遅れて、自分のこの日のルーティンを崩されるのが堪らなく嫌だったのだ。

それから一度も初江とは会おうとせず、婚約は呆気なく破談となった。

樋口は飲食店対象の卸業者で、冷凍食品などの営業マンをしており、付き合う相手は飲食業を営む店の娘か、女性経営者が多かった。

腰が低く、いつも自虐的な笑いをとって、自己肯定感があまり感じられない、一見控えめな男性に見えた。

その謙虚に見える姿勢が、初江の親世代には評価がよかった。

しかし、裏を返せば、女性を幸せに出来ることなど、到底不可能な甘ちゃん男であった。

そのくせ、声のかけにくそうな美人を見ると、見境なく声をかけ、僕なんかが不釣り合いでしょうけど、と低姿勢でアプローチをかけてくるのであった。

意外と美人はこの手に騙されやすいのか、樋口の見てくれは並以下であるのに、次から次へと彼女ができた。

しかし、気まぐれで、好きだ、君しかいない、と言ったかと思うと、次の日は無愛想になったりして、相手の気持ちは関係なしに、ころころと態度が変わり、まるで女の腐ったような男であった。

そして、完璧主義者の母親にいつも怯えて、従うことが愛情だと信じていた。また、それを大切にも思っていた。その母ももうこの世にいないことに、樋口はまだ気づいていなかった。


「おい」


足元で男の声がした。

樋口が下を見ると、自分の横の針山の上に、ずうっと岸まで続く道が出来ており、そこに茶色の猫が一匹座っていた。


「猫が喋った!」


樋口は驚いてのけぞった。しかし、見覚えのある猫である。そう、初江が飼っていたアメリカンショートヘアが混じっているような、雑種の猫だ。


「俺はお前を許しちゃいないが、初江さんの願いだからね」


猫はふん、と首を振った。


「この道にのらないのか?」


猫に言われ、樋口は訳の分からないまま、素直に応じ、ひょいと道に飛び乗った。

彼にとって、久しぶりのまともで平らな道であった。

ただそれだけで、彼には涙が出るほどの安堵感が湧いてきた。

へなへなと膝が崩れ、「ありがとうありがとう」と、猫に向かって手を合わせた。


「やめろよ、気持ち悪い」


猫はそう言うと、岸に向かって走って行った。


「待って」


樋口はよろよろ立ち上がり、痛む足をかばいながら追いかけて走った。


とうとう岸に着いた。

しかし、無人島のようにがらんとしており、松林があるだけで、他に誰も居ない。


「おおい、君はツナだったよな、お寿司屋さんで飼われていた…初江さんもいるのかい?どうして僕なんかを助けて…」


雑草をかき分け、森の奥に入ろうとした瞬間、何者かが樋口の背中をドンッと突き飛ばした。

樋口は振り返って、「あっ」と小さく声を出した。

以前交際していた女性ふたりが、鬼のような形相で睨んでいた。二人とも樋口にさんざん弄ばれた後、ゴミのように捨てられていた。


樋口は落とし穴に落ちていった。永遠に続く真っ暗闇の落とし穴。落ちた先は確実に死ぬであろう、恐怖に震えながら真っ逆さまに落ちていく。


「女の恨みは怖いよ~、でも針よりマシでしょ。とりあえず初江さんの願いは聞いたからね」


猫はニンマリ微笑むと、慎重に穴の下をそうっと覗いた。

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