第5話

初江の場合


雪に濡れた柔らかい土から、黄緑の芽が顔を出していた。ふきのとうだ。

それから水仙も、ムスカリも、フリルのついた珍しいチューリップも葉が少し咲き始めていた。

これらは皆、初江の家の小さな庭に芽吹いた春の訪れである。

しかし、彼女はそれを実際に見ることは出来なくなってしまったようだー。 


人が倒れて、皿が何枚か割れた。

味噌汁の椀も、コロコロと台所の床を転がった。

初江は急に強い頭痛に襲われた。


もうすぐ9時 …

そうしたら、ヘルパーさんが来てくれるから…救急車を呼んでもらって…いいえ、大袈裟かしら…自分で立って…タクシーを呼ぼうかしら…


初江は以前にも、脳の血管の一部が破れ、意識を失い、救急車で運ばれている。

ちょうど着付け教室の帰りで、仲間と喫茶店でコーヒーを飲んでいた時だった。仲間が救急車を呼んでくれ、その迅速な対応で助かったのだ。



「大丈夫?初江さん」


茶色に染めた長めの前髪を垂らして、若い男が初江をのぞき込んだ。切れ長の目で、筋の通った高い鼻、ぷっくりと膨らんだ唇、なかなかの美男子である。


「あら?あなたは?新しいヘルパーさん?」


初江の頭痛は、嘘みたいにすっかり治まっていた。激痛が数分で済んで良かった、と初江はほっとした。 


「なあに、もう、忘れちゃったの?」


男は初江を軽々と抱き起こすと、コタツにある座椅子に座らせた。

そして自分も隣に座り、コタツ布団を首まですっぽり掛けた。


「まだ寒いねー」


男は背中を丸めて身を縮めた。


「ええ…でもあなた、仕事は?私を連れて行かなきゃならないんじゃない?病院まで」


「ああ、それは僕の仕事じゃないしね。僕が連れて行くのは天国だよ」


男は無邪気な笑顔でサラッと言った。  


「あなた、今なんて?」


初江は悪い冗談だと思い、少しムッとした。

 

「んもう、まだ分かってないの?初江さん、貴女はもう死んじゃったの!だから僕が三十年ぶりに迎えに来たんでしょ!」


「あなた…どこかで会ったことがあるような…」


「えー!まだ分かんない?僕だよ、ツナだよ!」


初江は目を丸くして驚いた。

ツナ、とは初江一家が飼っていた猫である。


「しっかし、歳とっても初江さんは綺麗だねー。まあ、僕もさ、三十年経って人間になれると思わなかったけど。三十年も経つとさ、何もかも変わるのかと思ってたけど、初江さんは何にも変わらないな。このコタツも~!懐かしい、この感じ!」


と、自分をツナという猫だと名乗る男が、コタツ布団を頬ずりした。


「なっ、何を言うのよ、綺麗だなんて」


初江は満更でもない様子で、少し照れた。

確かに、70歳を越えても、初江は清純女優がそのまま歳をとったような美しさがあった。

髪は真っ白で少なくなっていたが、ふわりと弾力があり、顔が痩せて彫りが深くなって見え、西洋人かと見間違うほどだった。


「でも、ちょっと待って。少し整理させてちょうだい」


と、初江は人差し指を口元にやって考えた。


「あなたがツナだったら…亡くなったのは30年前のクリスマスイブだったわよね!私の部屋の押し入れで、暖かい布団にくるまれ て…私が仕事から帰って、押し入れを開けると…眠るように亡くなってたわ」


「そうだね。初江さん、しばらく押し入れに入って、僕の隣で横になって泣いてたねー。だから僕、なかなか天国に行きたくなくてさあ」


「そうなの?」


初江は奇妙な感じはしつつも、懐かしい思い出話に花を咲かせた。


「あの後、続けてお父さんが亡くなって、お寿司屋さんも閉めちゃってね、お母さんがしばらくはやってたんだけど、お得意さんもどんどん亡くなって、続けるのが難しくなって…」


「知ってるよ。全部見てた。お母さんが亡くなったのは、10年前だったね。長生きしてくれたね」


「そうなの」


「玄関を改装したんだね、お店の面影少し残ってる」


そう言って、ツナはカウンターだけが残っている、広くがらんとした玄関を指差した。

そこには以前、業務用の大きな冷蔵庫や、ずらりと並べられた色んな種類の包丁や、客が座る椅子やテーブルなどがあった。


「あなた、いつも冷蔵庫の上にちょこんって座ってね、今から思うと、寿司屋に猫だなんて御法度だわね」


初江がクスクス笑わた。

それを見てツナが、


「笑ってくれた、可愛い」


と、愛おしそうに微笑んだ。


「全部知ってるよ、初江さん。お父さんとお母さんのお葬式、喪主になって、一人で頑張ってたね。ずっと独身でいてくれた、僕の為に。僕と出会った日に、僕達は結婚したんだからね。」


ツナは机に両肘をついて、両手を頬にのせ、初江にねーっ、と同意を求めるように首を少し傾けた。

その可愛らしい仕草が、本当に猫のツナのようだと、初江は思った。


ツナは初江一家が経営していた、自宅兼寿司屋の近くの公園の前にある、自動販売機の傍に、ダンボールに入って捨てられていた。

まだ産まれて間もない子猫だった。

店を閉めて、ミャーミャー声がするのに気づいた初江が見つけたのだった。


「あの頃、君はお寿司屋さんの看板娘だった。若い男はみーんな、初江さんを狙ってた。僕は気が気じゃなかったよ」


「でも誰も真剣じゃなかったわ、お酒飲んだ勢いでふざけてただけ」


初江は若い頃、8人の男性と付き合ったが、どれも長続きしなかった。男の方から愛の告白を受け付き合い始めるのだが、大概男の方から去って行くパターンが多かった。


「初江さんが本当の自分を見せてなかったからだよ」


ツナの言うとおり、いつも付き合う相手の性格に合わせて、自分を変えて作っていた気がする、初江は素直にそう感じた。

いつも無理をしていたー。


「そう思えば、あなたの前だけが本当の私だったのかもね…」


初江は特別な存在だったツナに、ほっこりする安心感を覚えた。

自分は、今も昔も孤独と向き合って強く生きなければ、と思っていたが、自分にはツナがいてくれたことを再確認した。


「さあ行こうか」


ツナが両腕をうーんと伸ばした。


「どこに?」


「だ・か・ら、天国。お父さんもお母さんも待ってるよ」


「え?どうして?だって私まだ生きてるじゃない!」


初江は矛盾を感じながらも、心のどこかで、この青年が自分に合わせた優しい嘘をついているのだと思っていた。


「じゃあ、台所でごろーんと寝てるのは誰?」


ツナが少し呆れた様子で言った。 

初江は引き戸が開いたままの、隣にある台所を恐る恐る覗き込んだ。

自分が倒れて横になったまま動かなくなっている!


「やだあ!なんであんなに顔色悪いの?私、危ないんじゃない?」


初江は思わず叫んだ。


「だって死んでるからねー」


ツナは少し面白そうに言った。


「今日は…ヘルパーさんに物忘れ内科の新田先生のところに連れて行ってもらって…そのあとスーパーに寄って、1週間分の買い物をして…ヘルパーさんに持ってもらって、それでー」


初江はぼんやりと今日の予定を思い返した。


「死んだのね…とうとう」


そして、ようやく全てを受け入れようと心に決めた。


「死ぬって突然だからね。誰でも最後の最後まで希望を持ってる。でも死ぬことは絶望じゃない。人生の1部だよ、まだまだ初江さんの人生は続いてる。もし新田先生に会いたければ会いに行くかい。先生に姿は見えないけど」


独自の宗教感を語る猫を、初江は不思議に思った。


「いいわあ、先生も私みたいなのが来なくなって正々してるでしょうから」


初江は急に吹っ切れた気がした。


「そんなことないよ、新田先生も、今日来るヘルパーさんも、皆みんな、初江さんのこと好きだよ。初江さんの魅力は…どう言ったらいいのかなあ、仏様タイプなんだよね。みーんなに愛されてる。だけど皆独り占めにはしたくないんだ」


「そんな人いる?私は愛なんて感じた事ないけど」


初江は全く信じられないという風に、手をひらひらさせた。初江は時々オーバーな身振り手振りをする。


「そうだ、初江さん、アメリカに旅行に行ってたよね?その時仲良くなった韓国人、どうなったか見に行く?あ、違う、あいつはダメか…軍隊に入って訓練中に死んじゃったんだっけ。じゃあー、突然婚約破棄して、派手に初江さんを振った奴見に行く?」


「いやあよ、幸せに暮らしてるとこなんて見たくない」

 

「皆、幸せじゃないんだ。初江さんと別れてから皆不幸になってる。僕が指を鳴らせばー」


ツナがパチンと指を鳴らした。

次の瞬間、初江とツナは周り一面グレーの異空間にいた。

歩いている所も壁も天井もふかふかの絨毯で出来ているようだった。


「なあに、ここ…」


初江は恐々とツナの腕を掴んだ。


「何処でも行けるし、何にでもなれる所さ。天国に行く前に通る道だよ。皆ここで会いたい人に会ったり、嫌いだった奴には石投げたり、この世に悔いが残らないように、なーんでも出来る所。いいでしょ」


ツナはズボンのポケットに手を突っ込んで、腰が引けている初江を優しく見た。


「試しに…」


ツナは肉厚のふわふわした壁に指で穴を開け、ぐぐっと大きく広げた。  


「ここを覗いてご覧」


初江が恐る恐る覗くと、ある家族のリビングがあり、疲れ果てた顔で料理を作る中年女性と、ソファーでテレビの野球中継を観ながらビールを飲んでいる初老の男性がいた。

初江が驚いて、後ろへ下がると、ツナが背後から両腕を掴んで受け止めた。


「大丈夫、向こうには見えてないから」


すると、この家の二階からヒステリックに叫ぶ男の声がした。何を言っているのか分からないが、ときかくワアワアわめき散らしている。


「初江さんのことが大好きで、お店にもずっと通ってた新聞記者の深山さん。若い奥さんもらって、最初はるんるんだったけど、息子がエリートコースから外れちゃって30過ぎても引きこもり。時々ああやってヒストリーをおこす」


ツナがバスガイドのように、二階を指して説明した。


「深山さん…うちの店のこと、とてもよく書いてくれたわ。歳とったわねえ、お互い…」


深山はわめき声のなか、現実から逃げるようにテレビのボリュームを上げ、真っ直ぐ前を見たまま動かなかった。


それから同じやり方で、初江と関係があった男達を見に行った。

どれも似たような感じで、家庭は持っているが何かしら問題を抱えていた。


「さっき話した…婚約破棄した男。あいつはさ、今植物人間になってるよ」


初江は目を見開いて驚いた。複雑な感情から何も言葉が出なかった。

ツナがまた壁に穴を開け、その様子を見せてくれた。

簡素な病院の白いベッドで、一人目を閉じ眠っている男、名前を樋口という。

点滴だけで生きながらえている苦労が顔に出ているようで、頬は痩せこけ、白い無精ひげをはやし、ひどく年寄りに見えた。


「こいつ、また同じ事何度もやらかしたんだよ。好きだ好きだって近づいては、結婚を前にすると怖じ気づいて気が変わりました、僕はマリッジブルーです、別れて下さいっていうのをね。で、振られた女性達がどういう訳かタッグを組んでメッタ刺し。当時はニュースでも取り上げられたよ。そして、何十年も寝たままさ。ベッドで歳をとってるよ。もう面倒見てくれる両親もいなくなって、この病院の厄介者ってとこ」


初江は、刺した女性達の気持ちが痛いほど分かった。もしかしたら自分も加害者になっていたかもしれない。


「ツナ…こういう人ってどんな夢を見てるのかしら。周りの人の声やお日様の光なんかは分かるのかしら」


「こいつ?刺されたんだ、当然だよ。人を傷つけて何にも罰せられない。毎晩悪夢を見てるに決まってる!」


ツナは珍しく声を荒げて憤慨していた。


「ツナ、私の為に怒ってくれてありがとう。でもね、何にも出来ない 動けない、喋れない、こんな人一番不幸だわ。私はもう何とも思わない、大して好きじゃなかったしね。それに、誰より幸せになるのが、彼への復讐だった。私は幸せになったから、彼にいい夢を見させてあげてくれない?」


「えっ、いいの?こんな奴」


「お願い」


初江に頼まれて渋々ツナは指をパチンと鳴らした。

すると樋口の口元がふっと緩んで微笑んでいるように見えた。


「優しいなあ、初江さんは」


初江はツナの案内で、モヤモヤしていた過去をきれいに払拭することが出来た。


「もう何にも思い残すことはないわ」


初江は背負っていたものが、すっと消えていくのを感じ、天国に行く覚悟が出来た。


「じゃあ最後に僕の願いを叶えてよ」


ツナが初江の手を優しく握った。


「僕達の結婚式を挙げよう」


ツナがにっこり微笑んで思いがけない言葉を言ったので、初江は口をぽかんと開けて驚いた。


「なあに、まだ僕を猫としか見てないの?だからこそ、結婚式挙げたら初江さんもその気になるんじゃないかな」


ツナが残念そうに、でも希望を忘れない、輝いた目をして、初江の両手を握った。


「場所はどこがいい?沖縄?ハワイ?」


乗り気満々で陽気なツナにつられて、初江も心が躍り出した。


「ハワイ!」


「ウェディングドレス?それとも着物?」


ツナの目もキラキラしている。


「ドレスは着てみたいけど…こんなおばあちゃんじゃあねえ」


初江は自分の痩せてシワだらけの手をまじまじと見つめた。

すると、不思議なことに、手に艶が出て、みるみるうちに潤い満ちた手に若返った。

手だけではない、顔も体型も全て若返り、20代の頃の初江に戻った。


「さ、準備はいい?次の瞬間ハワイだよ!」


ツナは勢いよく、パチンと指をならした。二人は人生で最良の時を迎えるー。













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