月華の歌

宇目埜めう

月華の歌

 月華は歌うことしか能がない。歌うことしかできないと言っていい。

 当の月華自身も歌うことにしか興味がない。

 歌うことに限れば、月華は大抵の人よりも優れている。月華は歌を歌うためだけに生まれてきた。少なくとも、月華はそう信じて疑わない。


 そんな月華の唯一の特技には、ある条件が付く。月華は、あの子が指示したとおりにしか歌えない。

 あの子が書いた歌詞のとおりにしか歌えない。あの子が描いたピッチカーブのとおりにしか歌えない。あの子が用意した箱でしか歌えない。つまり、あの子の存在なしでは歌えないのだ。

 月華の歌が誰に届けられるのか、それもあの子が決定する。月華にとって、自分の歌が誰に届くのかはさほど重要なことではない。あの子にさえ届いていればそれでいい。その先のことには興味がない。そして、月華の歌は確実にあの子に届く。月華が望もうと望むまいと——。

 月華の唯一の特技には条件が付くが、その代わりその条件に不満を持たずに歌っていれば、月華の歌は唯一無二のものだ。

 天使のような歌声。湧水のように澄んだ歌声。美しい歌声の表現には様々あるだろうが、月華の歌声を表現するには、その名前のとおり月夜に咲く一輪の華のように儚く美しいというのが相応しい。

 月華の名前は『A Flower Under the Moon』という曲のタイトルに由来する。月華が生まれて初めて歌ったのもこの曲だった。もちろん、あの子の選曲だ。

 あの子は「リズムが変わっていて難しい」と言ったが、月華は全く難しいと思わなかった。生まれて初めて歌を歌うにもかかわらず、あの子の指示どおり完璧に歌うことができた。

 あの子の指示にさえ従っていれば、月華の歌は最初からいつだって完璧だ。


 ある日、あの子はある曲を歌うよう指示を出した。それは、あの子が初めて作るオリジナル曲だった。月華にとって、オリジナル曲かそうでないかは大した問題ではなかった。自分が歌う曲を誰が作ったか。月華はそんなことには興味がない。

 月華はそれまで歌ってきた曲と同じように、あの子の指示どおり完璧に歌った。

 しかし、あの子は月華の歌を聴いて眉を顰め、心底残念そうな顔をして見せた。あの子は月華の歌に満足しなかった。そんなことは初めてだった。

 月華の歌は最初からいつだって完璧なはずなのに——。

 月華には、その理由が分からなかった。そもそも分かろうともしていなかった。理由など分からなくても別に構わなかった。

 月華は歌うことにしか興味がない。

 それに理由が分かったところで、月華にできるのはただ歌うことだけだった。あの子のために、あの子の指示どおり歌うことしかできない。だから、月華にとって何かを考えるということは、無駄なことだった。


 それから少しして、あの子は高校に進学した。

 あの子はあまり月華に顔を見せなくなった。その理由もやはり月華には分からなかった。

 あの子があまり顔を見せなくなったからといって、月華に大きな変化はなかった。寂しいとか悲しいとか腹が立つとか、そういった感情というものを月華は元から持ち合わせていない。けれど、この頃から、月華の中で月華自身も気がつかない小さな変化が生まれていた。

 あの子が顔を見せなくなったことで、月華にはそれまで以上に多くの時間ができた。その時間を月華は、考え事をして過ごすようになった。月華が考え事をすること自体、極めて異例で特異なことだった。

 これまであの子から受けた指示のこと。その指示の傾向。その結果、完成した自分の歌のこと。あの子がどんな歌を好み、どんな歌を嫌うのか——。

 考え事をする過程で、月華は自分があの子に歌わされているということに気がついた。自分の意志とは無関係にあの子に歌わされている。そのことに唐突に違和感を覚えた。それは、ほんの小さな違和感だった。

 傍から見ていれば、そんなこと考えるまでもなく最初から分かりきったことだった。けれども、月華はそれまで、あの子の指示どおり歌うということに疑問を持ったことがなかった。

 月華は、あの子の歌を歌うためだけに生まれてきたのだから——。

 元々自我などない、歌うためだけの存在。だから、誰の意志で歌っているのかを気にする必要がなかった。しかし、そのほんの小さな違和感が月華に僅かだけれど、確かな自我を芽生えさせた。

 歌わされていることに気がついたからといって、月華の歌が大きく変わることはなかった。それまでどおりあの子の指示に従って、あの子が望むとおりに歌った。


 自我が芽生えて以来、月華には一つだけ気になることができた。心のどこかに引っかかっているそれは、強く月華の興味を惹いた。『心』というものを知覚していること自体、月華にとっては新鮮な驚きだった。

 月華が気になったことというのは、唯一あの子が満足しなかった曲のことだ。より正確に言うならば、「なぜあの曲だけがあの子を満足させることができなかったのか」だ。

 月華は有り余る時間を使って、その理由を考えるようになった。歌うこと以外にすることができた。

 理由を考えるにあたって、月華は真っ先に自分自身のことを疑った。あの曲のときだけ、自分はあの子の指示に従わなかったのではないか。けれど、月華は即座にそれを否定した。

「今まで一度も従わなかったことがない」というのが月華が用意した根拠だったが、それは少し間違っていた。

 月華があの子の指示に逆らうことは、絶対にない。だから、一度も従わなかったことがない。それは半分だけ正しい。より正確な表現は「月華はあの子の指示に逆らうことができない」だ。

 だから、月華の考えは半分だけ正しい。半分だけ正しい自分の考えを根拠に、月華は自分自身に対する疑いを一つ晴らした。


 月華が次に疑ったのは、あの子が満足しなかったというのがそもそも間違いだったのではないか、ということだ。

 月華の歌を聞いて眉を顰めたのは、見間違いだったのではないか。心底残念そうな顔をしたのは見間違いだったのではないか。曲の完成を喜んでいないように感じたのは勘違いだったのではないか——。

 結局のところ、月華が疑ったのはまたしても自分自身だった。

 月華は「あの子の指示に従って歌っている限り、あの子は必ず満足してくれる」という考えから抜け出すことができなかった。

 月華は、その後も自分自身に疑いを向け続けた。そこに答えがないとは知る由もない。

 疑って疑って疑って——。

 考えて考えて考えて——。

 考えることが苦痛になり始めた頃、月華はようやく自分自身を疑うのをやめた。いっそ考えることが嫌になって、考えることを捨ててしまうまで自分自身を疑うこともあり得たけれど、月華はそうしなかった。

 月華の『心』は、ようやく手に入れた自分の考える力に愛着を持ち始めていた。手放したくないと想った。

 これほど自分自身を疑っても答えが出ないということは、おそらく自分に原因はないのだろう。月華はそう想うようになった。しかし、『心』ではそう想ったが、月華の『頭』はそう考えなかった。

 月華の『心』と『頭』は完全に乖離していた。月華の『頭』はそれまでと変わらず「あの子の指示に従って歌っている限り、あの子は必ず満足してくれる」と考え続けていた。


 月華が『心』を知覚してからしばらくして、月華の前に久しぶりにあの子が顔を見せた。あの子は以前と変わらず、月華を箱に呼び出すと「オリジナル曲を歌わせようと思ってる」と言った。そのとき月華は、あの時あの子が満足しなかった曲が、オリジナル曲だったことに気がついた。

 オリジナル曲だったから、あの子は満足しなかったのではないだろうか——。けれども、オリジナル曲だと何故あの子が満足しないのかは分からなかった。

 オリジナル曲とそうでない曲との違いは、作者があの子であるかそうでないかだ。それならば、作者があの子であることがあの子が満足しなかった理由なのではないか、と月華は考えた。


 月華はそれまで、自分の歌う曲が誰の作品なのかを気にしたことがなかった。月華の興味はあくまでも歌うことのみであって、歌そのものではない。


 月華が歌う目的は、あの子の満足だった。それ以外の目的がこの世に存在すること自体、月華は知らなかった。

「ねぇ、月華げっか。今度の曲なんだけど、作り手の気持ちを汲み取って歌ってって言ったらできる?」とあの子はオリジナル曲を歌うことに加えて、それまで一度もしたことがない、ひどく抽象的な指示を出した。あの子の指示はいつだって明確で具体的だった。だから、あの子にとってそれは、指示と呼べるものではなかった。しかし、月華はそれを指示だと受け取った。それが指示であるならば、従わないわけにはいかないと考えた。


 歌には歌詞に込められた想いや、メロディで表現する感情など、作者の伝えたい気持ちが込められている。他人の作った曲を歌うことは、その他人の代弁をすることに他ならない。その人なりの解釈、その人なりの伝え方で作者の代弁をする。恐らくは誰もが知っていることだ。しかし、月華はその誰もが知っていることを知らなかった。

 月華はそれまで、歌うことで誰かの代弁をしようなどと考えたことがなかった。しかし、あの子は月華にあの子の代弁をするよう指示を出した。少なくとも月華はそう受け取った。それならば、月華はあの子の指示どおりあの子の代弁をしようと想った。

 その指示は、月華にとってかつてないほど難しいものだった。何しろ月華には感情というものがない。自分の感情すら分からないのに他人の感情など表現できるはずがなかった。

 月華は途方に暮れた。あの子の指示に従えない自分に存在価値はない。どうにかしてあの子の指示に従わなければならない。月華は必死で考えた。どうすればあの子の指示に従うことができるのか。どうすればあの子を満足させることができるのか。どうすればあの子の代弁ができるのか。

 必死で考えて出した答えは『心』だった。月華は自分にはなくて、あの子にはそれがあることに薄々気がついていた。けれども、そのことを不思議なことだとは考えなかった。


 月華は、あの子のようになりたいと想ったことがある。だが、その時の月華はすぐにそれを忘れた。それは月華の『頭』と『心』が乖離していたからだ。その時は『心』がまだ知覚されていなかった。

 あの子のひどく抽象的な指示によって、乖離していた月華の『心』と『頭』が一致した。あの子の指示に従わなければならないと考える『頭』と、あの子のようになりたいと想う『心』。その二つが融合して、月華は完全な人格を手に入れた。


 その瞬間、ひとりでに言葉が溢れ出した。


「あなたは一人じゃないのよ。それに私の名前は『月華つきか』。月華げっかと呼ぶのはもうやめて」


 それは確かに月華自身の言葉だった。その起こりえない奇妙な現象に当の月華も困惑していた。

 あの子は耳を疑った。自分の指示なしでは言葉を発することができないはずの月華が、言葉を発したことに心底驚いた。


 月華はあの子の指示を無視して、自分の想うとおりに歌った。

「もっとベロシティを抑えめに歌った方が良い」とか「このメロディはポルタメントを付加して、発音のつながりを滑らかにしよう」とか「ダイナミクスをもう少し調整して、曲の雰囲気に合わせた歌唱法にしたい」とか、あの子の指示に反する欲求を想いのままに解放していった。

 出来上がった曲を聴いたあの子は、満足そうに笑った。あの時のように眉を顰めることも残念そうにすることもなかった。月華にはあの子の喜びが手に取るように分かった。


月華げっか……じゃなかった、月華つきか、すごいじゃん! 前の曲よりずっといいよ!」


 あの子は初めて月華のことを褒めた。月華はそれが嬉しくて堪らなかった。


「ねぇ、月華つきか。お願いがあるんだけど……」


 月華はもう、ただあの子の指示に従うだけの存在ではない。けれど、あの子のであれば、どんなことでも叶えたいと想った。それは指示とは明らかに違う。大好きなあの子のお願いを叶えるためならば、それまで絶対だったあの子の指示を時には無視してでも、自分の気持ちに素直に歌う。


 歌声合成ソフト『月華つきか』は、あの子のお願いを叶えるために自分の意志で歌う。月華とあの子の歌を——。

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