汐風ドレス

友未 哲俊

汐風ドレス

             汐風ドレス

                   友未 哲俊


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 松森氏には、別段、物事の数を数えなければ気が済まないというような癖や強迫観念がある訳ではなかった。それで、今、露天の岩風呂に首まで浸かって、ちょうど良いぬるさの湯のなかで、右足の指の股を親指側から順番に両手でのんびり揉みしだいて行くという、いささかマナーにもとる行為を犯しながら、一番目、二番目 … と心のどこかで無意識に数を唱えているなどとは自分でも気付いていなかったに違いない。

 入浴客はまばらで、頭上には雲ひとつないすみれ色の夏空ががらんと続いている。神戸の高台にあるこの新しいスパーランドは、開放的で海の見晴らしが素晴らしかった。明石海峡や淡路島はもちろん、きょうのような日には遠く瀬戸内の島々や紀伊半島まで見渡せる。湯も掛け流しの源泉で、おまけに週末でも昼間なら様々な仕掛の大きな湯船をタイミングの取り方次第で独り占めすることができたし、その上、料金も午前中は五百五十円と割安だったので、氏のお気に入りであった。

 三番目、四番目、五番目 …

 何かが気になって、松森氏はふと手を止めた。

 五番目?

 もう一度、今度は意識して数え直してみる。

 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ

 指の間が五つある。

 一瞬、背筋を冷たいものが走ったが、松森氏はすぐに気を取り直して、自分の右足を目で確かめた。いつも通り、指は五本。念のため湯から足を上げて数え直してみたがやはり五本で間違いない。

 どういうことだろう。

 混乱した氏は、今度は試しに目で一つ一つ指を追いながら、最初にしていたように両手で指の間を確かめてみる。親指と人差し指の間、人差し指と中指の間、中指と薬指の間、薬指と小指の間。それ以外の間はない。

 だが、目を閉じて足を湯の底に戻し、両手の感触だけで確認すると、依然として第五の間がある。

 つい今しがたまでの温泉気分などすっかり消え失せてしまった松森氏は、とりあえず岩風呂を出ると、普段の四倍くらいの時間をかけて服を着ながら、医者に行かなくては、と、ぼんやり考えた。だが何科に行こう?指が一本増えたのなら整形外科に行けば良いが、指の間が増えたなどと訴えたりしたら誰からも相手にされないに決っている。やはり神経科に行くしかあるまい。何かのはずみで自分の触覚が一時的に狂ってしまった可能性だってない訳ではないし、もしそうだとしても、こうして普通に物事を考えることはできるのだから、完全に頭がどうかなってしまったということではないだろう。

 そう考えると、不安も幾分和らいで、温泉を後にした松森氏は、その足でさっそく垂水の町へと向った。

 それにしても、と松森氏は考える、これはどの程度深刻な事態なのだろう?たとえば指が六本になったとすればそれは確かに大ごとだが、間が五つになったからといって、それほど不都合が起こるとも思えない。目には見えない訳だし、よほど特殊な環境で生活しているのでもない限り、自分の足の指の間の数を意識しなければならない場面など、一生のうちにそう何度もあるものではないはずだ。とはいえ、見方を変えれば、指が六本になるくらいのことなら物理的にも、また、医学的にも十分あり得る話だろうが、五本の指に五つの股があるなどという現象はこの世のあり方そのものに反している。それが我が身に起きているのだと思うと、さすがに落ち着いている場合ではない気がして来る。

 医者はすぐに見つかった。いつだったか、過労で診察を受けていた友人から聞きかじっていた通り、再開発された駅前から少し北に奥まった天の下商店街の一画に平屋の医院があって〈 神田町クリニック 精神神経科・心療内科 〉とある。「個人の開業医で、名医かどうかは知らないが率直な人柄でね。医者は正直が一番さ」そんな話だった。

 自動ドアを入ると、こじんまりした受付に中年のいかつい看護師が一人いるきりで、待合室に人影はなく、うちは原則的に完全予約制だが、きょうはいま来談中のクライエントがひとりあるだけなので少し待てば診てもらえるだろうと聞かされた。松森氏は細君に電話して保険証を持って来てくれるように頼み、初診の手続きを済ませると、あとはまな板の上の鯉の心境でベンチに腰をおろして自分の名前が呼ばれるのを待った。

 二十分ほどすると、診察室の扉が開いて、先ほどの看護師が「松森様、どうぞ」と招き入れた。先客はすでに別の出口から退室して行ったあとらしい。

 待合室同様、少し暗めの小部屋に年配の医者がいて、松森氏が一人掛けのソファーに座るのを見届けると、斜め横の角度にしつらえられた小机の前から「どうされました」と尋ねてきた。松森氏は温泉での出来事と自分の不安な気持ちをありのままに説明した。

 話を聞き終えると、医者は表情ひとつ変えずに自分の椅子を少し動かして松森氏に対面し、

「靴下を脱いで指を見せてごらんなさい」

と穏やかに言った。松森氏が指示に従うと何秒かの間、氏の指を観察した後、

「あなたの言う通り、私の目にも指は五本に見える。だが、実際に触診して確かめさせていただきましょう」と右足を手にとって、指の間に自分の手の四本の指を静かに埋めて行ってみせた。

「やはり、間は四つではありませんかな?」

「それは目で見ているからだと思います。馬鹿げて聞えるでしょうが、もう一度、今度は目を閉じて数えてみてもらえませんか」

 医者は松森氏の頼みをそのまま聞き入れて目を閉じ、両手の指を使って再び順に数えはじめた。だが、薬指の辺りにさしかかった時、松森氏は、医者の指先が、一瞬どこかに吸い込まれるように消えて行くのを見た。そして、数え終った医者の悲鳴に近い叫び声を聞いた。

 「これはしたり!」

 彼は青ざめた顔で、松森氏の目と足の指を交互に見比べた。

 「確かに五つある …」

 それきり二人はしばし沈黙してしまった。

 「どうすれば良いでしょう」

 居た堪れなくなって松森氏がたずねる。

 「わかりませんなぁ … 」

 医者は困惑を隠そうともせず、唸り声をもらした。

 「まあ、とにかく、ここでできることが何もないことだけは確かだが … どこか別の科に行かれるしかないでしょう」

 「どこへ行けば良いのでしょう」

 「さて、見当もつきません」

 医者は答えた。なるほど正直だ。

 「いや、そもそも、こんな症例を扱う医者など世界中どこにもおらんでしょう。申し訳ないが、ご幸運を祈るしかないようです。 ― では、どうかお大事に」

 医者は、立ち上がって、傍らの専用出口を丁重に示した。率直だ。

 松森氏が途方に暮れてドアを出ると、そこが清算窓口になっており、細君が買い物袋を膝に載せて心配そうに待っていた。

 「どうなさったの?ずいぶん顔色が悪いわ」

 とりあえず支払いを済ませて外に出ると、松森氏はすがるような目つきで細君に事の成り行きを訴えた。細君は驚きの表情を浮かべたが、やがていつもの冷静な暖かさで松森氏を励ました。

 「元気を出して。たとえ何があっても私はあなたの味方よ。でも ― 、とりあえず今はおネギを買って帰りましょう」

 

 翌朝、目が覚めた松森氏の身体はひどく寝汗をかいていた。悪夢でも見たのだろうか、パジャマが冷たく濡れている。

 窓の向うには、初夏の町並みが今朝も白々しいまでにまばゆい。松森氏は仰向けの姿勢のまま、もぞもぞと布団の中で指を数えた。一晩寝ても、間の数は五つのままだった。やつれた自分の顔を確かめるために、氏は起き出して洗面所の鏡に向き合う。

 おかしい。何かが変だ。

 食い入るように自分の顔を見詰めていた松森氏は、突然あることに気付いてゾッとした。

 鏡の中の自分の瞳に、見たこともない世界が映っている。荒涼と薄闇に包まれた原始林や果てしない沼地が、薄明の重たい空の下にどこまでも続く異星のような風景だった。もっとよく確かめようと身を乗り出した時、何か人間でない顔のような物が一瞬現れてこちらを覗き、どこかへ消えた。鏡の中で松森氏が悲鳴を上げた。

 今や、訳の分らない破滅的な異変に蝕まれてしまったのは明らかだ。このままでは間違いなく生命を失うか、それとももっと恐ろしいことが起きてしまうだろう。

 しばし立ち尽くし、松森氏は呆然とした表情のまま居間のパソコンに歩み寄った。昨晩、症例と治療法を調べるために無数の検索ワードを探り辿るうち、偶然ふと迷い込んだひとつの広告画面を呼び出す。


      応用位相幾何クリニック


医療機関や工務店では扱わない身体、及び建造物等の不具合や障害に関する治療、修理相談。

各種保険の適用なし。一回百万円。


       理学博士 生乙女童子


 いったい、松森氏は、自分の余命がたとえ明日までだと宣告されたとしても、心霊や占いや八百万の神々には最後の望みを託すことのできない、いわば近代的な精神の持ち主であった。だが、自身、最先端の技術畑に身を置いていたため、科学や数学の用語には逆の意味での弱みがあった。実際、氏が今の仕事に就くようになったのも、その昔、小学校で習ったメビウスの輪の不思議さの虜になったところにはじまっている。それで、「応用位相幾何」の一語は、一回百万円などという胡乱きわまりない ― ある意味オカルト話以上に怪しげな文言への氏の疑いをとりあえず頭の外へ棚上げさせてしまうだけの魔力を持つものだった。

 とはいえ、もし、この広告が詐欺やいかさまでなかった場合、きょうが松森氏のこの世での最後の一日になるかもしれない。七年前、クライン缶に飲み込まれて消え去った天才数学者の事故のニュースを耳にした際の衝撃は、トラウマとして今も氏の意識深く遺されている。事ここに至って、松森氏には一か八かの、文字通り命がけの覚悟が迫られた。

 おもむろに寝室に戻り、氏は隣のベッドに横たわる細君の安らかな寝顔を網膜の底に焼き付けた。それから、意を決すると、手早く着替えて隣室から会社に電話を入れ、体調が悪いのでしばらく休む旨を伝えた。応対に出た同僚の声がいつになく近く懐かしく氏をいたわってくれる … 。最後に、松森氏は二階の子供部屋をのぞきに行きかけたが、思いを振り払い、そのまま、いつもとは何かが違う七月の通りへひとりぼっちで抜け出した。


               2


 清潔なビルたちの小高く建ち並ぶ広場を電気バスやビジネススーツの男女が軽やかにすり抜けて行く。同じ垂水でも、再開発された駅の北側は、かつて松森氏の愛した古き良き下町の風情をすっかり脱ぎ捨てた見知らぬ街だった。手もとに控えた住所は、その真ん中あたりに建つコーヒー色のシックなオフィスビルの最上階、三階を示している。

 松森氏はエレベーターではなく、ホールわきの小さな階段から上って行った。そのわずかな幅の日陰だけが、明るさに満たされたこのガラスの街に潜む路地裏やもの陰から掃き寄せられて来た秘め事の名残を、踊り場ごとの陽だまりからかろうじて護っているかのようだ。上り切ると、最上階に部屋は一つしかなく、入り口の大きな自動扉には


 To do, or not to do: that is the question:


と標されている。

 扉が開くと、澄み切った陽射しが再び現れ、その中に真っ青なサマードレスの娘がひとり立っていた。

 娘は少女の眼差しで松森氏の目をまっすぐにのぞき込んできて微笑んだ。

 「アキレスは永遠に亀に追いつけないんです」

 なつかしい泉のように言葉がふつふつと滲み出て来る。

 松森氏は、言葉の内容より、相手の現実離れした穢れなさに戸惑った。

 「でも、こんなお話、退屈ですね?」

 そう言うと、娘は小さな手で優しく松森氏の手を取って招き入れた。

 「どうぞ」

 部屋には簡素な小机が一つと、離れた揺り椅子が一つ、ぽつんと置かれている。大窓から降り注ぐ光が、真新しい床面にどこまでも柔らかく、ゆったりと翼を拡げていた。

 「 … はじめまして」

 氏はいささか気後れ気味に切り出した、

 「松森と申します」

 「キオトメワラシです」

 「突然うかがって申し訳ありません。 ― 実は、ネットの広告を拝見致しまして … 」

 「まぁ」娘は小首を傾げた、「よくお分かりになりましたね。あそこに辿り着くのは大変ですの … よほどお困りでいらしたのでしょう?」

 「はい … 」

松森氏は勧められるままに揺り椅子に腰を降ろして、自分を励ましながら言葉を継いだ。

 「実はきのう、私の右足の指の間がひとつ増えてしまったのです」

 そう言って、氏は相手の出方を窺った。

「それは、さぞ驚かれたでしょうね」

 娘は当り前のように同情した、「でも、稀にあることですわ」

 「そして今朝、鏡の中の私の瞳にどこか別の世界が映っていました」

 娘は幼い顔を曇らせた。

 「それはいけませんわ」

 「こんなことが起っているなんて、自分でも未だに信じられません ― ですが先生、先生から見て私の瞳には今も何か映っているのでしょうか?」

 氏が尋ねると、娘は松森氏の椅子からいくらか遠ざかるように窓際の方へ行き、しばらくの間どこか遠くに視線を落してから囁いた。

 「それはお聞きにならない方が良いかと」

 ドレスの足元で薄いレースの裾がかすかに揺れて、娘は松森氏に向き直り、再び涼やかな微笑を送った。

 「でも、確かにそこがキーポイントなのですが」

 「 … わたしはどうなるのでしょう?」

 「多分、一週間以内にお亡くなりになられると思います」

 「助かる方法はないのですか」

 娘は考え込んだ。やがて口を開いて松森氏に訊いた。

 「どうしても亡くなられるのはお厭ですか?」

 「もちろんです、誰だって死にたくありません」

 娘は口紅気のないあどけない唇を結んでコクンと頷いた。

 「えぇ、でしたら喜んでお力になりますわ。ただ、これまでにも、同じような症状の方には、とりあえず、そのまま何もせずにお亡くなりになられることをおすすめしてきましたの。というのも、この治療にはちょっとしたリスクが伴うからです。ですが、それで治療を諦めて下さった方は一人もおられませんでしたけれど。いずれにしろ、みな、ずっとずっと以前のお話ですわ」

 「リスクといいますと?」

 「時空がひずむのです」

 娘は上目で悪戯っぽく微笑んだ。

 「小父さまは不完全性定理を御存知ですか?」

 「ゲーデルですか?」

 「はい、1931年にクルト・ゲーデルによって示された数学上の定理で、簡単に言えば、矛盾なく築かれた公理系には証明することも否定することもできない命題が必ず存在し、無矛盾の公理系は自らの無矛盾性を証明できないというような内容です。ゲーデルは彼のゲーデル数の手法を用いてこの奇妙な定理を証明しました」

 催眠の暗示に似た口調で娘は静かに続ける。

 「もう一つ、これも小父さまならきっとご存知でしょうが、シュレーディンガーの猫というパラドクスがありますね?ある素粒子が、ある時刻のある場所に存在するか否かは、人が観測する瞬間まで決っていない、という量子力学の見解が正しいなら、素粒子の放出によって毒ガスの発生するような実験箱の中に入れられた猫は、人が箱を開けてみるまでは生と死の重なった状態にあるはずだという思考実験で、エルヴィン・シュレーディンガーが1935年に提起したものです。これに対しては様々な説明が試みられてきましたが、生と死の重なった状態が現実にありうるとすなおに認めたがる科学者は殆どいないようです」

 松森氏はいつの間にか、娘の腰下までまっすぐに到く黒髪の、この世のものとは思えぬ軽やかさに見惚れてしまっていた。それは、風もないのに発せられるひと言ひと言にひとりでに反応して、今にも光のなかへそよぎ出そうとするかに思われた。

 娘は続ける。

 「小父さまの症状の根源は、実はこの二つのテーマに深く関わっているのです。でも、それを科学的にきちんと説明するには、何百もの難しい数式を書き連ねる必要がありますし、それでは専門の研究者にしか理解していただけないでしょう。ですからここでは方便的に、ただ、小父さまの身に現れた次元の歪みを正すと、どこかに別のひずみが生れるかもしれないとだけお伝えしておきます」

 「 … たとえば、誰かが私の身代わりになってしまう、というようなことなのでしょうか?」

 「いえ、その危険はまずありません。ただ、垂水の街のどこかに小さな綻びが生じる可能性はありますが … 」

 松森氏は、ふと、相手の話しぶりの端々に、娘も松森氏を思い留まらせる気など最初からなかったのではないかという気配を感じた。

 「では小父さま、こちらの窓際に立って頂けますか」

 松森氏は指示に従って椅子から立ち上がり、室を横切って窓の傍らに立とうとした。ところが、その刹那、視界の隅を過切った窓下の風景に危うく卒倒しそうになった。

 もの凄い深さの虚空が、氏の足元のすぐ外から下界へと真っ逆さまに落ち込んでいた。ここはいったい何階だというのだろう?ゾッとするほどはるか彼方に地上がかすんでいる。

 「すぐに済みますからこちらを見ていて下さいね」

 娘は机の上に飾られていたマスクメロンほどの大きさの昏く透き通った球体を両手で取り挙げて松森氏に正対し、氏の姿をその物体越しに映し観た。

 「これはこの世で唯一のトポロジック・メーターなんです」

 娘はちょっと得意気に言ったが、松森氏には占いの水晶玉としか見えなかった。

 「やはり申し上げた通りの症状ですわ。今度は位相のツボを突き止めなくては」

 球体を戻すと、娘は引き出しから指揮棒に似た細いスティックを取り出して、そっと身構えた。

 「パウル・クレーはお好きですか?」

 娘がピアニシモでタクトを振ると、先端が妖しく閃き、あたり一面に星屑のような透明な光の粉が舞い現れて、グラスハーモニカに似たかすかなさざめきをたてた。それは松森氏の全身にキラキラと振り掛かり、少しの間、まわりの空間をミニチュアの銀河さながらに漂っていたが、二、三秒もするとみな残像をひきながら枝垂れ花火のように消えて行った。

 ただ、その中で滅び残った一粒だけが、仄かな蛍光色を宿したままゆらゆらと松森氏の前に留まって、やがて右の頬骨の少し下のあたりに取り付いた。

 「はい、結構です。終りました」

 娘は満足気に頷いた。タクトはどこかに消えていた。

 「いま光の止まっている場所へ、清純な乙女に三回キスしてもらって下さい」

 娘は人懐こく小首を傾げて松森氏を見た。それから、驚いたことにツカツカと松森氏に歩み寄って来た。

 「もしよろしければ今、私が … 」

 松森氏は慌てて押しとどめた。

 「いえ、うちの娘に頼みます」

 「そうですか … 」

 さも残念そうに娘はつぶやいて、「ではこれで診察はおしまいですね」と上目で松森氏に握手を求めた。

 「ですが、お支払いは … 」

 「それは結果を確認されてからで結構です。効果は数日で現れますわ。いえ、小父さまのように分別のある方に私の診断をなかなか信じて頂けないのはやむを得ないことですもの。それに百万円は大金ですし」

 「ではせめて免許証と連絡先だけでも … 」

 「いえ、それもご無用です。私、小父さまを信じています」

 「しかし … 」松森氏は居心地の悪さを覚えて逆に尋ねてみた。

 「もし、私が踏み倒してしまったらどうされるのですか」

 「もちろん、地ご … 、いえ、私が何もしなくても、そういう方にはきっとひどい罰が当りますわ。ですが、小父さまは絶対にそんな方ではありませんし、私、人間というものを断固信じます。小父さまはもう私のお友達ですので、お支払いの際は是非もう一度会いに来て下さいね」

 そう言って、娘は名残り惜しげに松森氏を見詰めた。松森氏が差し出されている娘の手を握ると、小さな手が柔らかくしっかりと握り返してきた。

 「お帰りはエレベーターがおすすめですわ。この部屋は上りと下りで構造が異なるせいで、階段で降りて迷われる方がいらっしゃるのです」

 松森氏は一礼して、狐につままれたような心持で部屋をあとにした。

 忠告通りエレベーターに乗り込むと、壁にタッチパネルがあって三桁の数字で行き先を指示するようになっている。松森氏は、0・0・1と押しながら、もし9・9・9や、0・1・3と押したらそこには何があるのだろうと一瞬考える。

 外に出るとすでに陽が傾きはじめていた。松森氏は、世界の端から危うく落ちこぼれかけている自分に気がついた。今朝がた家を出てからまだ二時間とは経っていないはずなのだが、あの奇妙な建物に出入りしたことが氏と外の世界の時計の進み具合を狂わせてしまったに違いない。否、そもそも今が今朝と同じ日付であるかどうかさえ疑わしい。一見、あたりの風景にはこれといって不審な気配もなく、極端な過去や未来にいる訳ではなさそうだが、どうなのだろう?周囲を見回すと、道路を隔てた向いのビルが屋上に電光パネルの速報板を掲げている。電光板はトランプ政権の対北朝鮮政策について昨日の続きを報じており、幸いにも日付は変っていなかった。だが、他の多くの市民同様、松森氏は北朝鮮にもトランプ氏にもうんざりだったし、今は政治家より我が子のことが気になる。

 あの子は良い子だ、松森氏は考える。同じ年頃の他の子供に比べるとまだ幼さは残っているが、素直で他人への思いやりがある。父親離れするのはまだ先の話だし、うまく話せば嫌がらずにキスしてくれるだろう。ただひとつの気がかりは、八歳の少女が「清純な乙女」に当るかどうかという点だ。


               3


 窓には早めにあかりが灯っていた。 

「とうちゃんだ」

 中から麻衣の声がした。ドアを開けると笑顔の細君が出迎えた。

 「どうしていらしたの?本体ごと見えなくなってしまったのかと心配していたわ」

 「妖精に会って来たよ」

 松森氏は答えた。

 「あれで人間というなら、恐るべき奇人だ」

 それから事情を何も知らない麻衣に向ってできるだけさり気なく、

 「ああ疲れた。元気になりたいから、ほっぺのここに三回キスしておくれ」と頼んだ。

 麻衣はちょっと変な顔をしたが、すぐいつものように跳び付いて来て、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっと三回キッスして大慌てで逃げて行った。

 本当に、何て良い子だろう。

 氏が、きょうの出来事を話し終えると、細君は首を傾げて、

 「それは残念でしたわ」

 とひと言感想をもらした。

 「妖精にキスしてもらえる折角のチャンスを棒に振ってしまうなんて。もし麻衣で効き目がなければ私からもう一度頼んであげましょう」

 屈託のかけらもないその笑顔を見て、松森氏はこの奥さんで良かったと、つくづく感謝する。


 次の日と、その次の日と、また次の日は、松森氏の体には何の変化も起きなかった。 

 だが四日目の朝、目を覚ました氏の右足の指の股の数は突然四つに戻っていた。松森氏は布団を被ったままの姿勢で幾度も幾度も数えなおして確かめた。

 治っている!

 信じられない。こんなにあっけなく麻衣のおまじないが効こうとは。

 氏は跳ね起きて細君に呼びかけたが、あいにく隣のベッドはもぬけの殻だった。

 どうしても感動を抑え切れなかった松森氏は、椅子の上に座っていた巨大な子泣き爺の縫いぐるみを思い切り抱きしめて喜びを分ち合った。

 それから、危うく思い出し、洗面所に向う。

 鏡をのぞくと、ちゃんと松森氏の顔の映った瞳を持つ男が氏を見ている。

 氏は喜び勇んで台所にいる細君のもとへ来て告げた。

 「治ったよ!指が五本に間が四つ、瞳だってちゃんとこの世を見つめている!」

 松森氏は声をはずませた。

 「あんなまじないが本当に効くなんて!」

 「良かったわ … 」

 いつもは冷静な細君もさすがにホッと表情を解いて喜んだ。

 「てっきり死ぬかと思っていたの」

 振り向いた右の手に包丁が鋭く光っている。

 「だから毎日、これが最後のつもりで心をこめてお料理していたのよ」

 「さっそく支払いとお礼に行ってこなくちゃね」

 「蜂蜜を忘れないで」

 「蜂蜜?」

 「きっと妖精の好物だわ」

 「だが、あれは街の精だよ」

 それから細君のおでこに何年ぶりかでそっとお礼のキスをした。

 「そのごちそうをいただいたら出かけるよ。麻衣はどこだい?」

 「テレビを見てるみたい」


 居間をのぞくと麻衣は去年買い替えたばかりの8Kテレビの大画面に見入っていた。

 「おはよう」

 満面の笑みで松森氏が呼びかけると、麻衣は顔を上げ、返事のかわりに真剣な表情で見つめ返してきた。

 「とうちゃん、事件だ」

 見ると、見慣れた垂水駅南口の様子が映し出されている。騒ぎが起きているようだ。狭いロータリーには何台もの中継車が陣取り、歩道からはみだした野次馬たちが駐輪場や神社の境内にまで立ち入って、警官たちは解散させようと懸命だった。緊急速報のテロップが絶え間なく画面下を流れて行く。

 《国道2号線は垂水~塩屋間で上り、下りとも全面通行止。JR神戸線は垂水駅~塩屋駅間で、山陽電鉄線は垂水駅~滝の茶屋駅間で、それぞれ上下線とも運休中。関西空港、伊丹空港、神戸空港では西に向う各便と西からの到着便の運航、受け入れを一時的に全て見合わせており、周辺他空港への影響が広がっている。海上保安庁は垂水沖から塩屋沖にかけての海域を封鎖し、個人の船舶などが航行することのないよう警戒中》

 画面の裏でスタジオのアナウンサーが語りだした。

 「ご覧いただいておりますのは、国道2号線が通る垂水駅南側の現在の状況です。 … 繰り返しお伝え致します。けさ、六時十五分ごろ、神戸市垂水区平磯の国道2号線福田川付近を東に向って走行していたトラックの運転手から、前方を走っていた数台の車が突然見えなくなったとの通報がありました。さらに約十分後、確認に向っていた四台のパトカーのうち先頭の一台が、同じ現場付近で消息を絶ちました。その後、走行中の車両が突然消えるのを見た、家族や知人の行方がわからなくなった、来るはずの電車が着かないなどの通報や問い合わせが周辺地域の警察や消防に相次いで寄せられる事態となり、市は緊急対策本部を設けて現在調査に当っています。また、坂井兵庫県知事はさきほど七時二十分、自衛隊の出動を要請しました。繰り返します。坂井兵庫県知事は七時二十分、自衛隊の出動を要請しました。警察の発表では午前七時現在、判明しているだけで少なくとも大型バスを含む二十七台の車両とJR線、山陽電鉄線の各二本ずつの電車、七隻の船舶とヘリコプター一機の所在が確認できておらず、いずれも垂水駅南周辺の限られたエリアで消息を絶ったものと見られています。 … 新しいニュースが入りました。安倍総理大臣はさきほど安全保障会議設置に向けて全閣僚を召集した模様です。繰り返します。安倍総理大臣はさきほど安全保障会議のため全閣僚を召集した模様です。では引き続き、ただ今届いたばかりのインタビュー映像です」

 画面が河川敷らしい場所にスポーツ着で集まっている年配の人々を映し出す。

 「 … 私たち朝からここでゲートボールをしていたんです。事件のことは何も知りませんでした。ただ、急に車が一台も通らなくなって変だなあと思ってみんなで見ていたら、何というか … あいつらが出てきたんです。恐竜というか、怪物というか、象の三倍くらいもある体全体が透き通っていて、まるで幽霊かホログラムみたいに実体のないやつですよ。しかも動く角度で見え方が変ってしまうんです。カブトガニの化け物のように見えていたかと思えば、平べったく変形して突然見えなくなってしまったり … それが、鳴き声なのか何なのか、気味の悪いテルミンみたいな音を放射しながら、次から次へと出てくるじゃありませんか。ええ、全く何もない国道のまんなかから現れてきたんです。ここにいる全員が見ています」「十四、五体は出てきて、みな漁港の方へ向って行きましたよ」「どう見ても地球の生き物じゃなかったわ」「地球どころかこの世の物じゃないわよ、あんなの、ありえない」

 「 … ご覧頂いておりますように現場付近は現在も大変危険な状況が続いている模様です。周辺地域の皆様にはくれぐれも外出を控えるよう強くお願い致します。それでは再びJR垂水駅南口前から中継です」

 騒ぎは収まるどころか、松森氏が見ているわずかな間にも見る見るエスカレートし、今や大混乱の様相を呈しはじめていた。警察車両や報道車両のひしめき合うなか、其処此処で野次馬どうしの小競り合いがはじまり、罵声が上がる。どこかでかん高い女性の悲鳴が起り、向こうで人影が倒れたように見える。待機していた救急車が動き出したとたんパトカーと接触する。今しも群集の一画にどよめきが広がり、機動隊の隊員たちが、一斉に流れ込んで来た。隊員たちは治安を取り戻すべく、最初は友好的に事態の収拾に当ろうとしていたが埒が開かず、興奮した誰かが空き缶を投げ込んで来たのをきっかけに人々を実力で排除しはじめた。怒号が飛び交い、逃げ場を求める者たちがもつれ合う。

 突然、凄まじい爆発音が画面を貫いた。ガス爆発か、さもなければ砲撃があったに違いない。

 切り替わったカメラが、国道を猛スピードでこちらに向って逃げて来る警察車両の姿を捉えた。車両はうしろ半分がなぜか黒焦げで煙を上げており、タイヤが飴のように溶けている。

 松森氏の目は、その黒煙の動きをしばらく追い続けていたが、やがて、画面の下隅に拾われたある映像の上にふと止まるとそのまま釘付けになった。

 涼しげな水色の汐風ドレスを着けたひとりの娘が、アイスキャンディーをなめながら、ファミリーマートの横からいたずらな少女の眼差しで騒ぎを見つめている …

 8K画面の視界の外れ、海辺の町の雲きれひとつない夏空を、プテラノドンに似た幽体が一つ、のんびりと渡って行った。


 友也くん、紅茶と食パン買ってきて。


                 【 終 】

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汐風ドレス 友未 哲俊 @betunosi

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