【4】
友希ちゃんは、今日も図書館に来なかった。理由を考えたって仕方がない。少なくとも、頭ではそう理解している。そもそも、あの子とは決まった日時に図書館で会う約束をしていたわけではない。たまたま何度か同じ場所で会って、話をしたことがあるというだけの関係性でしかない。そんな相手にたまたま会えないだけのことで身体が不調になるほどに動揺してしまう。何も失っていないのに、取り返しのつかない喪失を感じる。
何か一大決心をしたような気になっていた自分が情けなくなる。図書館で偶然知り合った中学生に一体何を期待していたのだろう。私が友希ちゃんにとってそんなに重要な存在であるはずはないのに、私は私の内面をあの子に知って欲しいと思っている。私の今の境遇や、過去のことをあの子に話して何になるのだろう。同情してもらうのは簡単だ。SNSに漫画を上げたときみたいに、自分に都合の良い印象を持たれるように語れば良いだけだ。そんなことをしても少しも満たされないことはわかってるのに、また同じことをしようとしている。
綺麗な秋晴れの空だった。透き通るような白い雲が美しい。それなのに、それを受け取る私の方が閉じていて、色鉛筆を握った手は少しも動いてくれない。
「高野美咲さん?」
不意に名前を呼ばれた。振り向くと、私と同い年くらいの女性が立っていた。黒のブラウスに黒のロングスカート。どことなく眠たげな二重瞼の、地味な顔つき。
「友希さんに言われて来ました。あの子、体育の授業で怪我して入院したんですよ」
図書館でいつも会うお姉さんがいて、突然現れなくなって変に思ってるかも知れないから、と言っていたのだという。
「えーっと…」
それで、あなたはどちら様ですか?とこちらが言う前に、相手の方から仲澤かなめ、と名乗った。
「昔、塾で友希さんを教えていました」
小学生時代の塾の先生と今でも連絡を取っているとは聞いていた。この仲澤さんがその「かなめ先生」なのか。
「あと、あなたの後輩です」
そういえば、一度友希ちゃんにどこの高校出身なのか聞かれたことがある。知り合いと同じ学校かも知れないと言っていたが、その知り合いというのが仲澤さんなのだろうか。
…それにしても、なぜ私とこの人が同じ学校が同じ学校かも知れないと思ったのだろう。
「だって高野さん有名人じゃないですか。村瀬先生を辞めさせたの、あなたでしょう?」
血の気が引いていく。他人からその話を振られるのは初めてだった。仲澤さんの目が、およそ友好的なものではないということに今更気がつく。村瀬先生の身に起こったことを知っている人であれば、私をどう思っているかわかったものではない。慌てて何かを言おうとしたけど、うまく言葉が出てこない。辞めさせたのではない、辞めさせるつもりがあったのではない。結果的にそうなってしまっただけだ。私にそんなつもりはなかった…絵や文章で言えたことも、人に面と向かって言うのは難しいのだろうか。身体が強張っていた。責められる、と身構えていた。でも、仲澤さんは素っ気ない。
「申し訳無いんですけど、私自身はあなたにあまり興味が無いし、あなたを裁いたり赦したりする資格も無いので、私に何かを言い訳しても無意味ですよ」
これまで自分に向けられた、どんな言葉よりも辛辣だった。いっそのこと、口を極めて罵ってくれた方がどんなに楽だったか。それは、初対面の相手に求めるにはあまりにも甘えた要求であるということに、気がついたのはずっとずっと後になってから。人生で初めて平手打ちを食らったような感覚に呆然とする私を無視して、仲澤さんは鞄から何かを取り出す。
「これ、あの子からです。描き途中でごめんなさい、とのことでした」
仲澤さんが差し出したのは、B5サイズの画用紙に描かれた、女の人の絵だった。
女の子らしい、可愛らしいイラスト。陰影も無ければ身体と顔のバランスもちぐはぐで、上手いとは言えないけど、どこか影のある大人びた女性を描こうとしているのだということはわかる。空を観察する理知的な双眸が印象的だった。友希ちゃんが描いたのだろうか。
「…これ、私?」
「空の絵のお礼のつもりだったけど、怪我のせいで最後まで描けそうにないから、って言ってました」
こんなの嘘だ。私が、こんな素敵はずがない。単なる病気持ちの、フルタイムで働くことさえ出来ない、実家住まいの派遣社員でしかない。
「…東京にも、空はある」
仲澤さんの、誰に言うともなく、つぶやいた言葉に、私は目を見開く。
「村瀬先生が言ってましたよね。空は空でしかないんだって。そこに意味を見出しているのは人間の方だって」
「ほんとの空」なんて観念は都会の人間の作り出したものだ。だから智恵子が「東京に空がない」と言うのは、都会人・高村光太郎の価値観を内面化した結果であるような気がしてならない、と。「ほんとの空」と偽物の空があるのではない。空は空でしかない。ただ人間が、「ほんとの空」という幻想を見出しているに過ぎない。
それは、あの人が私に話してくれた内容と全く同じだった。もう一度、友希ちゃんの書いてくれた私を見る。私は、私でしかない。それでも、あの子には、私がこんなふうに見えている。たかだか、空の絵を描いてあげただけの私が、色鉛筆の使い方をちょっと教えてあげただけの私が。
喪服のような黒服に身を包んだ仲澤さんの後ろ姿を、私は黙って見送った。雲ひとつない秋の空は、人間の都合などお構いなく澄み切っていて、残酷なほどに美しい。
東京にも空はある 垣内玲 @r_kakiuchi_0921
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