【3】

 最近改築された区立図書館は、館内にチェーンの喫茶店が入っていることや、最上階に広くてお洒落な雰囲気のテラスのあることで話題になった。家の外で絵を描きたい気分の時は、私はこの図書館のテラス席を使う。

 夕方4時。秋の空はまだ明るい。雲には所々黒い影が見える。私はこういう雲が好きだ。単に青い空と白い雲の組み合わせは、綺麗ではあっても退屈だし、描いてて面白いものではない。真っ黒な雨雲はそれはそれで絵にならないし、そもそもそんな雲が出ているときは外で写生をするわけにもいかない。今日のように、透き通るような白の中に、陰影のように黒が混ざっている、そんな雲は描いていてとても楽しい。私の目が、私の手が、その束の間の情景を捉えようと、感覚を研ぎ澄ませる。


 出来上がった絵は、我ながら悪くない仕上がりのように思えた。何の変哲もない空と、雲と、テラスから見えるビルが描かれているだけの絵だけど、こういう平凡な風景から何かしらの魅力を引き出すのが絵の醍醐味じゃないだろうかという気がする。


 自己満足に浸っていたところに、誰かの視線を感じた。振り返った先には、近所の中学校の制服を着た女の子の姿があった。さほど荷物の詰まっているようにも見えない学生鞄が重そうに見えるのは、持ち主が小柄だからだろうか。

 「あ、ごめんなさい。あの、すごく綺麗だったから、びっくりしちゃって」

 慌てる様子はいかにも真面目な女子中学生という雰囲気で可愛らしかった。人に見てもらうために描いたのではない作品が、思いがけず誰かの目に留まるのは、驚いたけど嬉しかった。

 「…あげようか?」

 いいんですか?と彼女は驚いていたけど、私が持っていたところで、見返すことはないだろうし、そのうち捨ててしまう可能性の方が高いようなものだ。気に入ってくれた人に受け取ってくれた方が、絵にとってはどれだけ幸福なことかわからない。


 友希、とその子は名乗った。友希ちゃんとはそれ以来、図書館で会うようになっている。図書館と言っても、テラスや喫茶店では話もできる。友希ちゃんも絵を描くのは好きなのだという。色鉛筆での色の出し方を教えてあげると、喜んで聞いてくれた。考えてみると、スケッチブックに色鉛筆で絵を描くやり方を教わる機会はそれほど多くはないだろう。デジタル絵ほどの投資もいらない手軽な趣味なのに、思いの外敷居は高いのかも知れない。

 友希ちゃんの絵はキャラクターありきだ。好きな漫画やラノベのキャラクターの姿を再現して、物語を付与することが、これまで友希ちゃんのやろうとしていたことだった。だから、色を出すことを追求したことはなかったらしい。たとえば木の机を描くときは、全部同じ茶色に塗ってしまう。光の当たる位置によって、同じ茶色でも濃淡が生まれるし、木目にも模様がある。そういうことは意識してこなかったようだ。私がちょっと手近なものを描いて見せると、いたく感激してくれた。

 「私、全然身の回りのものを見てなかったんだなって思いました」

 この感想は嬉しい。それはまさに、私が絵を描くようになって実感したことで、ほとんど絵を描くことの目的がそれだと言えるくらいに大事なことだと思ってるから。


 最初は絵の話ばかりしていたけど、だんだんお互いのことを話すようになる。友希ちゃんは、話をしている限りでは、大人しくて礼儀正しい女の子という雰囲気で、ただ、学校の友達はそんなに多くないようだった。2つ年下の弟と、小学校の頃に教わっていた塾の先生の話がよく出てくる。もう辞めた塾の先生にそこまで心を許しているのはちょっと不思議な気がする。私なんかと話しているのも、年上の方が波長が合うということなのだろうか。

 「美咲さんは絵の仕事をしてるんですか?」

 こう聞かれたときは、さすがに戸惑った。プロとして通用するような技量かどうかくらい見てわかりそうなものだ。

 「…絵は趣味だよ」

 かろうじてそう答えたのが、何かひどい嘘をついてしまったように感じられて心が痛かった。「絵の仕事」をしてるどころか、働いてると言えるのかどうかすら怪しい。週3日、派遣の事務として勤務することを「働く」と言って良いのだろうか。

 友希ちゃんに、私のことをどれだけ話して良いのだろう。まさかこの年で中学生の知り合いができるとは思ってなかったので、距離感が難しい。

 それでも、人間関係の作られていく感覚は懐かしかった。SNSでは駄目なのだ。私の経験や感情を、たとえば漫画という形にして拡散することはできる。バズらせる技術もある。けれども、拡散されていった私の漫画は、私に固有の何かを表現したものではなくなってしまう。流行りの「ジャンル」のどこかに区分される、紋切り型のネタになってしまう。それを描いたのが私である必要はどこにもない。SNSのフォロワーは、一時5,000人以上になったけど、私の何かが理解されているという実感は得られない。拡散され、いいねが増えるほどに、私の価値は損なわれていく。それが嫌になったので、アカウントは閉じてしまった。


 SNSを閉鎖して以来、私には私のことを話す相手がいない。でも、友希ちゃんになら、私のことをもう少し話しても良いのかもしれないという気がしてくる。誰かと、共有したいものはたくさんあるのに、私はそれをずっとひとりで持て余している。私にとって、友希ちゃんの存在は貴重だった。ありふれた空の絵を気に入ってくれた子であれば、それを描いた私のことにももっと興味を持ってくれるのではないか。友希ちゃんなら、私の過去を、消費されるネタとしてではなく、受け取ってくれるかもしれない。そんな期待が、胸をよぎる。

 自分が今、定職にはついていないこと、そうなるきっかけになった出来事を、次に会ったときに友希ちゃんに話してみたい。そうしたら、今度こそ楽になれるような気がする。今度こそ、ずっと抱え続けてきた重い荷物を、どこかに下ろすことができるような気がする。


 私がそんなことを考えるようになってから、友希ちゃんは図書館に現れなくなった。次の日も、その次の日も、これまでだったら現れたはずの曜日に、会えなかった。

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