回帰
目々
回帰
この土地では葬式があると家中の丸い物を隠す。死人の魂がその身を離れて、人の胎に戻る前に丸い物に宿って再びの生を望むからだという。胎に潜り損ねた死人の魂はその球に宿って生まれ直す。けれども宿った球を粗末に扱えば、生まれ直しに支障が出て、片輪になったり白痴になったり、ひどいときには人にさえなれないこともある。だから死にも殺しもしないために、死人の傍には丸い物を供えない。そんなことをすれば、お互いが余計な罪業を背負う羽目になるからだ。
それを知っている筈の従兄は仏壇に西瓜を供えて、訪れた私を平然と迎えてみせた。
「止めなよ。こういうの――止めなよ」
「触るな」
降ろそうと伸ばした手を掴まれる。その顔には悪びれた様子も無い。昔から少しも変わらない、感情の読み辛い癖にそれなりに整った、能面のような顔だ。
「俗信だ。何を供えようが生きてる奴の勝手だろう」
「信じてなくても良いけどさ、ほら。お姉さんは信じてたかもしれないだろ」
従兄の姉は先月死んだ。傲慢な笑顔の似合う人で、従兄は彼女をひどく慕っていた。
彼女のことは嫌いでも苦手でもなかったが、強いて言えば難しい人だったというのが多くの人に納得してもらえる表現だろう。悪辣でも卑劣でもないが、辛辣で苛烈な人だった。その癖妙な所に無頓着だったり無防備だったり、厄介なのに見ていたくなる類は台風のようだと思ったことがある。そういう点は、血縁である従兄も良く似ている。ただ彼の方が幾分か人間らしく、頑なな性分を除けば随分と付き合いやすい人物だ。
「信じていた。俺も、信じている」
黒の濃い目を心持ち俯かせながら呟くように従兄は答えた。
「じゃあ何でこんな事をするんだ」
私の問いかけに僅か眉を顰めて、従兄は言った。
「……生まれ直させたくはないんだ」
何か気配を纏った言葉に、蝉の声が重なった。
気圧され理由を問い詰めるのを諦めて、私は従兄から目を逸らした。
「――大体、どこから持って来たんだこれ。ここで西瓜なんか売ってくれる奴いないだろうに」
「外から買ってきた」
「ならまあ――今割る分には問題無いだろ。冷やして割って食べよう」
「割るな」
頭を小突かれた。
「割るなら明日にしろ」
「明日なら良いのか」
「ああ。一晩供えれば、きっと入る。入ってから割るのなら、俺にとっても都合が良い」
冗談かと思って従兄が笑うのを待ったが、真顔のままだった。どう返していいのかいい加減分からなくなって、私は仏壇の方へと視線を移す。
丸々とした西瓜を従えた従姉の遺影は、晴れやかに笑っている。記憶の中より幾分か顔色の良いその顔は、生きていたときより見映えがするなと罰当たりなことを思った。
※ ※ ※
「入ったとして、割ったら意味がないんじゃないのか」
「生まれ直されたら、困る」
「どうしてだ。帰って来るだろ」
「……肉が、違うだろ。違うものになったら、姉さんじゃなくなる。それじゃ、意味が無い」
「中身は一緒だろ――前提が非科学的だけど、魂は球に捕まるんだから」
「血肉が違う。俺と違う。そうしたら、それは――違うものだ、俺の姉にはならない」
「そんなに姉が良いかよ」
「血が繋がった人間だ。大事なのはそこだ。魂が欠けても肉が欠けても、俺はそんなものは欲しくない」
「欲張るなよ。だったら全部諦めろ」
「嫌だ」
夏の軽やかな闇を肴に、身を投げるように酒を飲んだ。
開け放した窓辺からは生温い風が吹く。その風が肌を撫でる度、切ないような気分になってまた酒を呷る。視界も思考も揺れ始めて、互いに何を言っているのか分からなくなっていく。
「お前が怖いよ。考え方が真っ当じゃないもの」
「俺は姉さんが怖かった」
「だからだよ。そんなに執着して、何がしたい。碌なことにならないだろどう転んでも」
「お前に分かるかよ」
「私はお前が分からないよ。葬式の時そんな風じゃなかったろ」
去年の葬儀を思い出す。従姉が死んだのは五月の梅雨になりかかった頃だったので、どれほど冷房を効かせても抜けきらない湿気がべとべとと喪服に纏わりついて難儀した覚えがある。その状況で遺族として別席に座っていた従兄は平然として葬儀を眺めていて、周りの人間がそれなりに泣き崩れている中で一際目立つ有様だった。いっそ冷淡にすら見える落ち着きようだったのに、今となっては随分な吹っ切れ具合だと思う。
「悲しんではいた。怒ってもいたが」
言って従兄は一息に酒杯を空ける。日本酒を水でも飲むように干す癖に顔色が変わらないので、酔っているのかどうなのかも判然としない。
「お前はどうしてそう何もかも分かりづらいんだ……伯父さんたちは分かりやすかったな」
「顕れ方が違うだけだろ。近い身内が死ぬっていうのはそういうもんだ」
お前はまだみんな生きてるだろと、従兄は手酌で酒を注ぎながら答える。つまり四等親では遠すぎるのかと聞けば馬鹿を見るような視線が向けられた。
親族の死に対しての反応は、おそらく正しい反応だろう。現に葬儀の諸々を終えて以降、伯父たちは自宅にいるのが堪えがたい――娘の生前のあれこれを思い出すのだろう――という理由で、別に部屋を借りて暮らしている。週に一度は帰ってきているとは従兄が言っていたが、それではこの従兄の奇行に気づかないということがあるだろうかと考えたが、気づいてなお放っておいている方がよほど恐ろしいということに思い当ってしまった。
どちらが人らしい反応をしているのかは私には判断できない。受け入れ難く逃げ出すのも正しいのだろうし、立ち向かって奇行を凝らすのも錯乱の形としては正しいのだろう。私が不思議に思っているのは、ただ血が繋がっているだけでそこまでのことができるというその一点だ。
「血が繋がってるのがそんなに大事か」
「俺と同じものだ。勝手に死にやがった。そんなことが許せるものか」
「死人にそんなことを言ってどうする。西行でも失敗したんだ、こんな田舎の俗信程度で」
「黙れよ」
見返す目がぎらりと底光る。けれども回った酔いはその威圧をすり抜けて、私はだらだらと問い詰める。
「何が欲しい。何がそんなに怖い。どうして――」
「黙れ」
凭れるように押し倒されて、天井の明りが浩々と眼を焼く。押し倒す従兄の顔は逆光で見えない。怒っているのか笑っているのか、それとも、泣いているのか。どの表情でも違和感がある。いっそこの影のようにのっぺりとした無貌であればいい。
くらりと影に視界が眩んで、そのまま陶然とした眠気が押し寄せる。従兄は殴ろうとも締めようともせず、押し倒した姿勢のまま動こうとしない。肩を押さえる手が、じわりと熱を帯びていく。
肩に縋るような力を感じたまま、飲み込まれるように眠りに落ちた。
※ ※ ※
ぱっくりと二つに割られた西瓜は鮮やかな赤い身を夏の日差しに曝け出している。
「残念だ」
包丁を片手にぶら下げたまま、あからさまな落胆を滲ませて、従兄が言った。
「……良かったじゃないか。殺さずに済んで」
縁側で日に焙られている従兄を横目に、昨夜の所為で荒れ放題の部屋で散らばった缶やら瓶やらを拾いながら答える。それを聞いて、従兄はあからさまに不機嫌になる。
「昨日から余計なことしか言わないな、お前。覚悟もしたのに、拍子抜けだ」
「覚悟って何をだ」
「中に何が入っているか。どんな様でも驚かないようにと思ったんだ」
言われて脳裡に幾つかの情景が浮かぶ。赤い肉に窮屈そうに白い腕。果汁に浸った柔らかな足先。しなやかな黒髪で空洞を満たす、彫像のような首。それを見た時、従兄はどんな顔をする気だったのだろう。
「まあ課題だな。高い西瓜だから駄目だったのかもしれない」
「まだやるのか」
「まだ改善のしようはあるだろ。一晩だけなのが悪かったのかもしれないし、夜に馬鹿騒ぎをしたせいかもしれない。西瓜の質が悪いのかもしれないし、時期が悪いのかもしれない」
従兄は淡々と改善点を述べていく。先程の落胆は既に無い。この強靭さは良く似ていると思ったが、言えば今度こそ殴られるような気がしたので黙っておいた。
「――次は止めるなよ」
背中を向けて西瓜を切り分けながら、従兄はぽつりと呟く。頷いても首を振っても、彼には見えはしない。見る気も無いだろう。
従兄の顔を見ないようにして、縁側へ這い出す。切り分けられた西瓜を一切れ手に取れば、滴る果汁に手がべたつく。
かじりついた西瓜の儚い甘さが、いつまでも舌に残った。
回帰 目々 @meme2mason
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