第4話 やっぱり俺は――

 ――匂いがする。どこかで嗅いだことのある匂いだ。でもどこだったっけ?


 この匂いがしていた場所を考えていると、ぼやっとしていた意識がだんだんはっきりしてきた。そして、それが病院だと思い出すと同時に、それまで重く感じていた瞼をやっと開くことができた。


「う…………ん」


 部屋は暗く、俺のすぐ右にある窓からかすかに月の光が差し込むのみだった。


「あ、目覚ましたね。ちょっと先生呼んでくるよ」


 その声を聞いて左を見ると、ちょうど母親がドアを開けて病室から出ていくところだった。


 どうやらここは小さな個室のようで、俺以外には誰もいない。そういえば、どうして俺は病院に――ああ、そうか。鳩尾みぞおちを殴られて意識を失ったのか。


 すると、60歳くらいの医師が病室に入ってきて、続いて母親も来た。


「川原くん、調子はどうかな? どこか痛いところはないかい?」


「えっと、少しお腹と顔が痛いぐらいで、他は何ともないです」


「なら良かった。では、あと30分くらい安静にしたら、もうお帰りになっても大丈夫ですので。これで私は失礼します」


 俺と母親が礼を述べると、お大事に、と言って医師は病室から出て行った。


 時計を見ると、時刻は8時半になったところだった。じゃあ、9時になれば帰っていいということか。


「あんた災難だったね。でも、倒されてすぐに非番の警官が偶然通りかかって、犯人が逮捕されて、怪我も打撲と意識失っただけで済むなんて運良かったね」


 母親が近寄ってきて言った。


 確かにかなり運が良かったのかもしれない。あの体格だったら俺に重傷を負わせることも出来ただろうし、なんなら連れ去ったり、殺すことも……。


「ああ、いけないいけない。ちょっと待ってて」


 母親は急にそんなことを言うと、病室の外に出た。一体どうしたんだ?


 母親が出て行ってから1分くらいして、ドアが開いた。でも、入ってきたのは母親ではなかった。


「良太!」


 病院内だから声のボリュームを下げつつも、俺の名前を叫んで病室に入ってきたのは陽菜だった。陽菜はこちらに早歩きで向かってくると、優しく俺に抱きついた。


「良太、無事でよかった。私、おばさんから良太が襲われて病院に運ばれたって聞いて……もし良太が……っ……死んじゃったら…………どうしようって…………っ…………」


 この後も陽菜は何か言っていたけど、泣きじゃくっていてもう言葉になっていなかった。


 俺としては、幼馴染とはいえついさっき浮気をしらばっくれたばかりの相手に心配されても、何とも言い難い思いだ。心配してもらえることは純粋に嬉しいけど、どうしてもその内面を信用できないというか……。


 すると、いつの間にか戻ってきていた母親が、俺の心情を察してこう言った。


「さっき陽菜ちゃんから色々聞いたけど、やっぱりあんたの勘違いだよ。陽菜ちゃん全然浮気なんてしてないよ」


「いや、でも――」


「まず、あんたが浮気相手だと思った男、陽菜ちゃんの従兄だよ。今大学生で、今日たまたま用事でこっちに来て久しぶりに陽菜ちゃん家に来てたんだよ。見慣れない青年が陽菜ちゃん家に今朝入っていったのは私も見てる」


「え……」


 従兄? 陽菜に従兄いたの?


 視線を母親から俺に抱きついたままの陽菜に移すと、


「うん……今日会ってたの従兄の優くんだよ」


 と、いかにも泣き止みかけの細々とした声で陽菜が言った。


「じゃあ、ハグとキスは……」


「それはね、うーん、これは陽菜ちゃんに説明してもらいながら見た方が早いか。陽菜ちゃんごめんけどもう一回やってくれる?」


 陽菜はゆっくりと俺から離れ、母親の前に立つと、少しかがんで陽菜と従兄の身長差とほぼ同じになるようにして、そして説明を始めた。


「えっと、まず私が転びかけて優くんに助けてもらった時に、優くんの首に蚊が止まってるのに気づいたんだ。で、それを言ったら優くんが手で蚊を探って潰そうとしたんだけど、探ってる途中で蚊を潰したのに気づかなくて、蚊と血を延ばしちゃったの。だから、私がこうして蚊と血をティッシュで拭き取ってあげてたんだよ」


 そう言うと陽菜は母親の首に右手を回し、体を近づけて母親の左肩に頭を預け、続いて左手を回してハグしているような恰好になると、首筋から首裏を拭く仕草を始めた。また、時には右の首筋を見ようと背伸びして顔をもっと首に近づけていたが、これがまるで首筋にキスをしているかのようだった。


「これを陽菜ちゃんがいる側から見てハグとキスをしてると勘違いしたんだよ。ハグはしてるって言えなくもないし、唇も軽く触れたかもしれないけど、相手従兄だし、少なくともあんたが思ってるような意味でのハグやキスは陽菜ちゃんしてないよ」


 なんだ、そうだったのか。


 最初は陽菜が嘘をついた可能性も考えたけど、相手は従兄だし、こうして実演されるともう疑いようがない。でも、こんなのあんな遠くから分かる訳ないじゃないか。


 俺はほっとして、全身から力が抜けていくのを感じた。


「あと聞いたよ。あんた陽菜ちゃんに怒鳴ったんだって? どうせお腹減ってて怒りを抑えられなくなって、それで陽菜ちゃんの話も聞かずにキレたんでしょ。出かけるって私に言った時、あんたのお腹鳴ってたし。それちゃんと謝りなさいよ」


 本当にそうだ。俺は陽菜にひどいことをたくさん言っしまった。


 陽菜への申し訳なさと、陽菜を愛おしく思う気持ちが溢れて、俺はベッドから立ち上がると、陽菜を強く抱きしめた。


 安静にしてろと言われたけど、そんなのお構いなしだ。


「陽菜ごめん! 陽菜の話全然聞かずに決めつけて怒鳴ったりして」


「うん。分かってくれたならいいよ。私の方こそ紛らわしいことして良太を混乱させちゃってごめんね」


 すると、母親は俺らに配慮してか病室を出ていった。


「じゃあ、私は先に車に行ってるから、9時過ぎたら来て。場所は陽菜ちゃんが知ってるから。あと、ベッドあるからって、いくら盛り上がってもここではだめよ」


 こう言い残して。


 ったく、余計なお世話だ。誰が病院でするか! 


「ねぇ陽菜。俺、今日一度陽菜を大嫌いになろうとしたんだ。でも、出来なかった。やっぱり俺、陽菜が大好きだよ。陽菜以外の子を好きになんかなれない。一生陽菜を手放したくない!」


 母親に水を差されて若干盛り下がったけど、俺は陽菜を抱きしめたまま思いの丈を全部伝えた。


「私も、良太に嫌われたのかもって考えたらすごい辛かった。それに、今日久しぶりに良太以外の男子と長く一緒にいたけど、やっぱり良太といるのが一番楽しいって分かったよ。私もずっと良太と一緒がいい! 良太が大好き!」


 俺らはより一層強く抱きしめ合い、どちらともなく離すと次に見つめ合った。月明かりに照らされた陽菜の表情は、この上なく可愛かった。


 そして、それはそれは長い口づけを交わした。


「えへへ。ところで良太、さっきのはプロポーズってことでいいの?」


「うん、いいよ。てか、陽菜もプロポーズしてきたよね?」


「うん! ついついしちゃった。あ、でもこれじゃどっちも返事してないことになっちゃう?」


「まぁ互いにプロポーズし合ったら、それはもうOKし合ったってことでいいんじゃね?」


「あはは、そうだね! じゃあ私の旦那さん、ハグして!」


 俺たちはここが病室であることを忘れ、思いっきりいちゃついた。今日すれ違いを起こしたカップル、もとい夫婦とは思えないくらいに。


 

 

 


 

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幼馴染である彼女に浮気されて軽く死にたい 星村玲夜 @nan_8372

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