安楽生

naka-motoo

楽々と生きる方法を誰か譲っておくれよ

 楽々と坂道を下る荷車を押すように。


 らくちんだ。


「薬、今日も取りに行けないんです」

「いつなら来れますか?」

「15日なら」

「必ず来て下さい」


 わたしの薬じゃない。


 母親の、ク・ス・リ


「余ってるはずだよね?だってわたし、休日出勤が立て込んで来ていつ来られるか分からないからあなたの代理問診に行った時に6週間分ぐらい貰ってたもん」

『いや。どうだったかな』


 答えるのは母親じゃない。


 父親。


 わたしは一旦電話を叩き切って、さあどうしようとこめかみを両手で支えて肘をテーブルについてたら着信があった。


「はい」

『お母さんに訊いたら一週間分はあるらしい』

「・・・・・・・わかってるよね?この病気って薬切らしたら布団から起き上がれなくなるぐらいのダメージがあるって。もしかして大雪で身動き取れないわたしが悪い訳?」

『いや、そんなことはないんで・・・・』

「じゃあもしほんとうに今日で薬が切れてたらどうするつもりだったの?」

『そう言われたら何も言えないが』

「デイサービスも嫌、ショートステイも嫌。あなたたちわたしに言ったよね?わたしが毎日いじめに遭っていて、熱を出した時、わたし熱が下がろうともこのまま学校なんて行きたくないって思ってたけど、無理やり学校行ったその日に、『よかった。お前もう学校行けなくなったのかと思った』って。それがなに?」


 わたしは母親に向かって『デイサービスもショートステイも行きたくなくないあなたが引きこもりじゃないの』と、言いたかったけど、やめた。


 どうにもならないから。


 車で外を走るのも危険な状況の雪の中、今このタイミングでケアマネさんに泣きつくことなどできない。


 ああ・あ。

 ああ・あ。

 ああ・あ。


 悲観しそうになってとりあえずお風呂に入る。


 湯船の中でなんとなく声を出してみた。


 男性ロック・シンガーが女性アーティストの曲ばかり歌ったカバーアルバム。その中の一曲の出だしを歌ってみた。


「なんて高いキー」


 女のわたしだって超がつくそのスーパースターの可憐な歌唱力をフォローするのが到底困難なのに、その男性ロック・シンガーは絞り出すようにしてファルセットでない突き抜けるような高音域を歌い上げているのだということが改めて認識できた。


 思えば彼の浮き沈みはわたしの人生の浮き沈みとほぼシンクロしていた。


 わたしが就職活動で苦戦してなかなか正規雇用を得られなかった時、彼らはレーベルから契約を切られ。


 奇跡のように就職して結婚し子供すら授かった時、彼らはライブハウスで悲しみと優しさと切なさを歌い上げた素晴らしいヒット曲をリリースし。


 わたし自身が内面の病気になった時、彼らも再びカルト的な存在としてセールスは伸びず。


 わたしがどん底の状態の時、バンドのヴォーカリストである男性ロック・シンガーは片耳が聞こえなくなり。


 奇跡のようにわたしの内面の病気が完治してわたしが小説を書き始めた時、彼らはドキュメンタリー映画の被写体となった。


 内面の病気を受け入れた時、わたしはひとり屋上に出て歌った。


 太陽と月をふたりになぞらえた美しい歌を。


 けれども、そこからわたしは彼の人生をなぞらえることができなくなった。


 彼は光の当たる場所に居る時間が長くなった。


 爆発的なヒットではないけれども、彼の書く詩とメロディーは働く人やココロ押し殺しながらも真摯に生きる人たちが口ずさむようになった。


 長い全国ツアーに出た。


 とうとう、年末の夜の、歌手としての最高峰のステージに立った。


 それからは人生の悲哀を描いたドラマの主題曲や、超一流の男性歌手が主演するドラマなのにその歌手でなく、彼らのバンドの曲が主題歌になった。


 彼はとうとうソロ活動を始めた。


 凄まじい恋愛を描いた漫画が原作の映画の凄まじい主題曲を日本最高のギタリストと組んでレコーディングした。


 そして、きらめくばかりの女性アーティストたちの名曲を歌ったカバーアルバムが、とうとう週間セールスの一位となった。


「おめでとう」


 つぶやいてみる。


 わたしの今現在の日々を思い。


 不思議なことに、今、湯船の中でわたしが歌い出したのは、彼らの初期の曲。


 誰にも聴かれないけれども、彼らを選んだ人間のみがリアルタイムで聴くことのできた、人知れぬ名曲の数々。


『シーソーを、傾けてあげる』


 背骨周辺に溜まった乳酸のせいで一瞬眠ってしまったわたしは、確かにその誰かの声を聴いた。


「シーソー・・・・・・?」


 意味がわかったのは翌日の朝だった。


『お母様風呂場で倒れて、救急車を呼びました。すぐに来ていただけませんか?』


 ケアマネさんから連絡が入ってわたしは職場の上司に何度も頭を下げ、車で実家の街の病院に向かった。


「クモ膜下出血です」


 画像を見せながら説明してくれる医師の前にはわたしと父親が座って。


 父親は医師にこう訊いた。


「在宅介護、続けられますかね?」

「・・・・・どうして在宅介護にこだわるんですか?」

「私、町内会長やっとるもんで・・・・・女房が病気で入院したり施設に入ったりってなると町内会長の仕事に支障が出るんですよ」

「お父様は席をお外しください」


 医師はわたしだけに話した。


「残念ですが、お母様は後遺症は避けられません。しかも国指定難病の治療中でしたよね?24時間の介護が必要となるでしょう」

「先生。特養を紹介していただくことは・・・・・・」

「大変申し訳ないが、どこも入居待ちの状態で、わたしの力でお探しすることは難しいです。ケアマネさんと一度相談なさってください。それから、お父様ね」

「はい」

「認知症じゃないですかね」


 認知症を疑われて当然だろう。


 それほど自分の身を守ることしか考えることのできない乳幼児と同等だということだろう。


 一気にわたしの負担は増えたが、『シーソー』の意味がようやく分かり始めた。


 業・・・・・ゴウ、というものは、その根本原因が消えていかないと無くならないものだ・・・・ずっと以前に人の生き死にをすら『視る』ことのできる女性がこう言った。


『あそこを歩いている男性がいるでしょう。あの男性は親が死なないと運が開けないのよ』


 シーソーの、わたしが下の方になったのだろう。


 ふた親がわたしから掠め取っていた運勢というものが、わたしの方にシーソーの傾きが逆となった今、転げ戻っているんだろう。


「受賞するかも」


 バカげているとは思うよ。


 親の運勢が弱まったことがわたしの運勢の強まりじゃないか、って思い始めた。


 でも、違った。


『あなたのココロが大切です。遠回りだと感じても楽しんでできる道を選びなさい』


 神籤、というよりは。


 わたしを慰めてくださっているのだろうと思った。


「親の問題じゃなかったんだ」


 これまで、わたしがほんとうに認められたいことを棚上げし続けてきたけれども、今生まれて初めて言って貰えた。


『あなたのココロが大切です』


「嬉しい」


 だから、わたしは、わたしの書きたい小説を、書きたいように、書く。


 誰の運勢がどうとかじゃなく、わたしのココロを大切に扱ってくださった、その意思にこたえられるように。


 わたしが楽しい小説を。


 そしてそれはエンタメって意味じゃない。


 深甚な沈み込むような小説をほとんど死んでしまうんじゃないかというダウンなココロで書くことも。


 わたしの楽しみ。


 だって、わたしが花よ蝶よとにこやかに書いている誰かの不遇な、けれども極めてアージェントに救わなくてはならない状況を書いても、その人は喜ばない。


 わたしは、それすら、楽々さ。



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