後編
海斗くんの家から逃げ出してしまった後、偶然にもコンビニ帰りの彼と鉢合わせた。
この世の終わりのような顔で走ってきた私を見た彼は「何があったの」と尋ねてきた。私は息も絶え絶えになりながら事の次第を告げる。
私が「黒髪の女が」と話しだすと、彼は一瞬冷たい眼差しを向けた。
すると、
「3年も住んでるけど、一度もそんなの見たことないよ。見間違いじゃない?」
と、笑いながら返されてしまったのだ。
だが、私は確かに覚えている。
恨みの籠もった目で見つめてきた、あの女の顔を。そして突如右耳に響いた掠れ声も、未だ脳内にこびりついている。
「見間違いじゃない! 私は、この目でハッキリと見たもん! そうじゃなきゃ、こんな大慌てで外に出たりしないよ!」
見に覚えのない恨みをぶつけられた恐怖、冗談だと笑い飛ばされて真面目に取り合ってもらえない腹立たしさに、私は思わず声を荒げてしまった。
ボロボロと泣き崩れる私を見て、海斗くんはようやく事の重大さに気づいてくれた。
そして、コンビニのイートインスペースで介抱してもらった後、彼に駅まで見送ってもらったのである。
「……あのさ、また今度僕の家に……は、無理、かな?」
「ごめんね……。あんなの見ちゃった後だと、ちょっと行き辛い……」
「分かった。じゃあ今度は、裕香さんの家に行ってもいい?」
「私、実家暮らしだから難しいかも……。親からは『結婚すると決めた相手以外は家に連れてくるな』って言われてるから」
「そっか……。ご両親優しいね。それだけ大事にされてるってことだよ。
じゃあ、お互いの家に行き来できないなら、またどっか遊びに行ったりしよ?
ほら、前に言ってた猫カフェに連れて行ってあげるから」
「……いいの?」
「うん。今日は怖い思いさせちゃったから、お詫びにさ」
「ありがとう海斗くん……! 迷惑かけてごめんね!」
「迷惑なんて思ってないよ。じゃあまたね、裕香さん!」
私が改札口を通り、見えなくなるまで海斗くんは手を降ってくれた。
しかし、海斗くんが言った『またね』は、ずっと来なかったのだ。
ゼミや講義で一緒になるものの、「ごめん、塾のバイトが」と「ちょっと家の用事が」と、事あるごとに交わされてしまう。
それから1ヶ月が過ぎて10月に入った頃、彼からLINEの返事が来なくなった。
『今何してるの?』『レポートやった?』などと送っても、一向に既読すら付かない。
私はついに初めての恋の終わりを実感し、その日の夜は目が腫れるほどに枕を濡らした。
翌日。しょぼくれたまま大学に行くと、海斗くんは講義どころかゼミすら無断欠席していたのだ。
一人暮らしなので連絡が付かず、教授もどうしたものかと思い悩む。
そんな時、私は「彼に会いに行ってきます」と手を上げてしまった。
もしかしたら彼の身に何かあったのかもしれない。「別れろ」と訴えてきたあの存在が、私の脳裏によぎる。
根掘り葉掘り聞くこと無く、教授は私の申し出に甘えてくれた。
そして私は2ヶ月ぶりに、海斗くんのアパートへと足を運ぶことになったのである。
「うーんと……卵にネギ、あとしいたけ……うん、これで全部!」
彼が風邪を引いて寝込んでいる可能性も考慮し、彼のアパート付近にある商店街で買い出しをする。
私は買い物袋を片手に、小さなコンビニの前を通り抜け、あの所々剥げかけた白ペンキのアパートへと辿り着いた。
「あら、足立さんじゃない? 久々ねえ」
アパートに足を踏み入れると、玄関口を掃除していた女性と目があった。大家の丸山さんだ。
「お久しぶりです。か……栗原くんは家にいますか?」
「さあ。ずっとアパートの外にいたわけじゃないからなんとも……。栗原くんに何か用事?」
親身に接してくれる大家さんに、すっかり心を開いた私は、これまであったことをすべて伝える。
「――ほ〜ら、だから言ったじゃない。何かあったらおばちゃんがビシッと言ってあげるから、って! まったく、これは厳しく叱る必要がありそうね」
丸山さんは頬に手を添えて唸る。
「……にしても困るわあ。海斗くんのことも気になるけど、まさかお化けが出たなんて……。こんなこと周りに知れたら、次住んでくれる人がいなくなっちゃうじゃない。まったく営業妨害もいいとこだわ! お化けなんて家賃払わないくせに!」
さすがは大家と言ったところか。私に対しての心配もそうだが、まず自分の収入源の方を心配するとはしっかりしている。
「だけど、何十年と住んでる私でさえも見たことないわね。もしかしたら栗原さんが霊感強いとか?」
「それが私も初めて見たんですよ。あの一件以来、他に変なものを見た覚えもなくて」
「ん〜、不思議なもんねえ。まあ、何はともあれ早く会いに行ってあげなさいな。もしかしたら風邪で寝込んでるのかもしれないし。はい、合鍵」
丸山さんは快く小さなディスクシリンダー錠を渡してくれた。
「あっ、ありがとうございます!」
「インターホン鳴らしても出なかったら、それ使って入っていいから。栗原くんによろしくね」
そう言うと、丸山さんは自分の住まいである103号室へと入っていった。
彼女の背を見送った後、私は階段を駆け上がり、彼の部屋のインターホンを鳴らす。
しかし、待てど暮らせど一向に返事がなかったので、私は合鍵を使って彼が待つ201号室に入った。
「栗原くん、こんにちはー。大家さんから断って合鍵使って入ったよー」
海斗くんの部屋に無断で上がった理由をつらつらと並べるも、キッチンとリビングを隔てるドアの向こうからはまったく何の反応もない。
またアレがいるかもしれない……。
恐怖心を押し殺し、意を決して扉を開けるも、部屋はもぬけの殻だった。
鍵はしまっており、ロックはかかっていない。状況から察するに、きっとどこかへ出かけてしまったのだろう。
「じゃあ作って待ってようかな」
せっかく買ってきたのだから、と私は彼のキッチンを借りて、お粥を作って待つことにした。
「えーっと、お鍋とお米と、塩胡椒と……あっ、お醤油ってどこかな?」
必要な調理器具をシンク下の棚から取り出し、コンロの横の引き出しから調味料も取り出す。
だが、醤油だけが見当たらなかった。上や下の戸棚をくまなく探してみたものの一向に見つからない。
思い当たるとすれば冷蔵庫だけだが、彼からは「開けるな」と言われていたのを思い出す。
「うーん……でもなぁ……後で謝ればいいかな。海斗くん、ごめんね!」
意を決して、私はガバっと冷蔵庫の扉を開けた。
しかし、私は彼の忠告に従っていればよかったとすぐさま後悔する。
「いやあああああああああああああ……ッッッ!!!!!」
冷蔵庫を開けると、そこに食材は殆どなかった。
代わりに冷蔵庫の中を占めていたのは、黒くて髪の長い、白目を剥いた女の生首だ。
「あ……あぁ……ッ」
窓に女の怨霊が現れた時と同様、私は腰を抜かしてしまった。
そのうえ、私はこの顔に見覚えがあった。
「こ、これってまさか……あ、あの窓にいた……」
そう。「別れろ」と訴えてきた亡霊と、瓜二つだったのだ。
「――あ〜あ、だから言ったのに……恥ずかしいから冷蔵庫の中は見ないで、って」
玄関の方を振り向くと、ズボンのポケットに手を入れて、悲しげな笑みを浮かべて立つ海斗くんの姿があった。
「か、海斗……くん……」
「ただいま、裕香さん。ごめんね。
ここ最近バイトで忙しくて体調崩しちゃってさ。だからさっきまで病院に行ってたんだよ。
来月になったら裕香さんの誕生日だから、良いものプレゼントしたいと思って頑張りすぎちゃった」
いつもの優しい微笑が、今となっては絶望の塊でしかない。
「はははっ。綺麗でしょ、その子。裕香さんみたいに髪が長くって。でも、前に髪をバッサリ切ろうとしたことがあってさ。もったいないよね。こんなに綺麗な髪なのに」
海斗くんは爽やかな声で、淡々と冷蔵庫の中にあった物について語る。
まるで映画の感想を語るような、普段と何ら変わらない口調。
だが、海斗くんは口角を上げているものの、彼の瞳は深い谷底のように暗い。
忍び寄る毒牙の恐怖に、私は気づけばボロボロと涙を流して震えていた。
ゆっくりと歩み寄ってくる彼から逃げようと後ずさるも、背にパイプベッドが当たり、私の
「裕香さんが悪いんだよ? 君が僕の約束を破らなければ、こんなことにはならなかったのに。
本当はこんなことしたくはないけど、でも綺麗な君をずっと眺められるなら、それでもいいか……」
◇
足立裕香が栗原海斗の
古びたアパートの入口には、黄色いテープが貼られ、物々しい空気に包まれていた。201号室の入り口はブルーシートに覆われ、大勢の捜査官が現場を調べている。
パトカーの音に釣られて野次馬が群がり、テープから超えないようにと警察官が立ちふさがる。
野次馬の後ろには、メディア関係者がカメラを回して現場の状況を伝えていた。
「えー、女子大生連続猟奇殺人事件の犯人は、大学生の栗原海斗容疑者、21歳。
調べに対し栗原容疑者は『自分の理想の髪の長い彼女のままでいて欲しかった。髪を切ろうとしたのが許せず、綺麗なままの彼女を保とうと思って首を切った』と供述しているとのことです。
なお、男の自宅のベッドの収納や、箪笥、冷蔵庫からは、これまで行方不明となっていた女性の頭部が発見され、先日行方不明となった足立裕香さんの頭部も発見されました」
女性レポーターは真剣な眼差しでカメラの向こう側へと伝える。
その様子を、佐伯実香がやるせない表情で、201号室の部屋の窓からじっと見下ろしていた。彼女の
――だから、だから言ったのに。
――『あいつは危険だから早く別れろ』って。
だから言ったのに……。 ゆにえもん @blue_you1
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