中編

 海斗くんの部屋は一人暮らしには丁度良い1Kだった。


 扉を開けると廊下兼キッチンスペースがあり、キッチンの反対側にはトイレ付きバスルームがある。そして廊下を抜けると、奥がリビングとなっていた。


 リビングに入ると、向かい側には小さな窓があり、窓の下には黒の収納付きパイプベッドがあった。


 右手には壁に面した大きめの黒の本棚と箪笥が立っていて、本棚には参考書や少年漫画、多肉植物の植木鉢が置いてある。


 左手にはダークブラウンの木製PCデスクがあり、海斗くんの部屋は必要最低限のものしか置かない簡素なものだった。


「うわぁ……」


 居心地の良いカフェのような住まい。


 インテリアのセンスも合ってすごいな、と感心しつつ、思わずキョロキョロと見てしまう。


「ははっ、どうしたの? 別に珍しいものなんて置いてないよ?」


「だ、だって海斗くんの部屋おしゃれなんだもん。私なんて本ばっかり置いてあって、女っ気もないし……」


「あっ、またそうやって自分を卑下ひげする。ダメだよ? 裕香さんは綺麗なんだからもっと自信を持って、ね?」


 俯き加減になった私を、海斗くんはじっと覗き込んできた。


 目鼻立ちもくっきりとしていて、あどけない少年の面影を残した童顔は、曇りのない眼で私を見つめている。


 そんな状況に胸を高鳴らせながらも、私は彼の優しい励ましに小さく頷いた。


「う、うん……! ごめんね。この前も注意されたのに……」


「良いんだって。これから自信がついていけば、きっと卑下する癖も治るよ。あと、その謝り癖も禁止だよ。……返事は?」


「はーい」


「うん、良い子良い子」


 彼はニコリと微笑むと、私の頭をそっと撫でてくれた。


 顔も良くて、勉強もできて、見た目も良くて、性格も完璧。海斗くんの彼女になれてよかった、と幸福感に浸る。


「――あ、そういえばさっき下で大家さんに会ったの。二人で仲良く食べてねって」


 私は肩に下げていた麻のトートバッグから、このアパートの大家――丸山さんから貰ったゼリーを取り出す。


「マジ? あ、これコンビニの夏限定ゼリーじゃん! 美味しいんだよなあ、これ。今テーブル広げるから待ってて」


 海斗くんはそう言うと、箪笥の隣に立てかけてあったプラスチックの白い折りたたみテーブルを持ってくる。


 ガチャンガチャン、と足を組み立てると、彼はビーズクッションを2つ敷いて私に座るように言った。


 そして彼はキッチンへと向かい、引き出しからスプーンを取り出すと――


「あ、裕香さん! ゼリーをソーダと合わせて、フルーツポンチにするってどうかな?」


 日が落ちたと言えど、まだ夏も盛り。


 透明感もあり喉越しのあるゼリーと、シュワシュワとした炭酸飲料の合わせ技は反則だ。


 私は間を置かず「賛成!」と手を挙げる。


「よし、じゃあそうしよっか……って、あれ?」


 海斗くんはソーダを取り出そうと冷蔵庫を開ける。しかし、彼は顔をしかめてしまった。


「おっかしいな……。買いそびれてたかな? ごめん、裕香さん! 僕すぐそこのコンビニまで走ってくるから!」


「えっ、もしかしてソーダなかった? なら、普通に食べるよ」


「いや、せっかく来てくれたんだし、ちょっとはりたいなと思ってさ。まだあっちーし。……ってことで行ってくるから、そこに座ってて!」


 海斗くんは財布を尻ポケットに入れ、玄関へと駆け出した。


 そしてサンダルを履いていると、彼はこちらを振り向いた。


「あ、あのさ……悪いんだけど冷蔵庫の中は覗かないでね?」


「なんで?」


「いやあ……実は裕香さんにだけ言うけど、僕あんまり料理得意じゃなくてさ。雑な男飯しかなくて恥ずかしいから、冷蔵庫見られたくないんだよね……」


 海斗くんは顔をポッと赤らめ、頬をポリポリと掻く。


 完璧人間だと周りから評されていた海斗くんでも、できないことはあるんだ。


 自分だけに秘密を告げてくれた特別感と、仔犬のような愛らしい表情で照れる彼を見て、私は小さく微笑んだ。


「ふふっ、分かった。冷蔵庫は覗かないし、ここで大人しく待ってるから。気を付けてね!」


「はーい、行ってきまーす」


 そして、彼は扉の向こうへと消えていった。


「……本棚くらいは良い、よね?」


 手持ち無沙汰の私は彼が所有する本が気になり、膝に手を乗せて立ち上がる。


 この部屋に入った時にチラッと見えたが、彼の本棚には授業で使う参考書や研究資料以外にも、様々な漫画が並んでいた。


「ふぅーん……あ、これって最近話題になったアニメの原作本? 凄い、全巻揃えてある。……あっ、少女漫画まである! へぇ〜、可愛い」


 気づけば私は、まるで宝箱を漁る賊のように本棚を漁っていた。


 某有名な少年漫画や、学園青春ものの少女漫画まで、海斗くんの本棚はバリエーション豊かだ。


 夢中になってあれやこれやと読み耽っていると、ふと奇妙なものが目に入った。


「――えっ? これって……髪の毛?」


 少女漫画のページをめくると、はらりと1本の髪の毛が落ちたのだ。


 濡羽ぬれば色の絹糸は、私の髪の毛と同じくらいに長い。だが、しばらくページの間に収まっていたからか、ヨレヨレとうねっている。


「前の彼女さんのかな?」


 丸山さんの言う通り、確かに彼はプレイボーイなのだろう。おそらくこの少女漫画も、かつての彼女である佐伯さんか、もっと前の彼女の持ち物かプレゼントなのかもしれない。


 しかし、もしそうだとしたら複雑だ。今の彼女は自分だと言うのに、前の彼女から貰ったものを後生大事に持っているとしたら、少々妬けてしまう。


 漫画そのものに罪はない。だが、仮に前の彼女の物だったとしたら、捨ててしまいたくなる。


「……はぁ。私ってサイテー」


 気づけば己の中で醜悪しゅうあくな感情が湧き上がってきた。


 初めてできた彼氏が非の打ち所がない人間だからなのか、異常なまでの執着心が芽生えてしまう。


 まさかこんな感情を抱く日が来るとは。


 ついこの前までは、男性経験と無縁な喪女もじょのまま荼毘だびすだろうと考えていたのに。


「とりあえず髪の毛は捨てよっか。落ちたままなのも、なんかね」


 そう思い、私はフローリングに落ちた髪の毛を拾い上げた。


 すると突然、背筋をナメクジがったかのような、ゾワゾワとした感覚が走る。


「なっ、何っ!?」


 バッと振り向くも、特に部屋は何も問題ない。背中を払ってみたものの、天井の雨漏りもなければ、虫が落ちてきたわけでもなかった。


 気のせいか。再び本棚の方へ向き直そうとすると、私はと目が合ってしまった。


 黒のパイプベッドの上にある小さな窓。スモークもかかっていない剥き出しのガラス素材。


 そこに映る、ボサボサに伸びた長い髪を持つ女の生首が、髪の隙間から凄い形相ぎょうそうでこちらを睨んでいたのだ。


「ひぃッ……!?」


 私は腰を抜かして小さな悲鳴を上げる。が、その後は何かを発しようにも、口をパクパクと開くことしかできなかった。


 声が出ない。超常現象のせいか、単に驚きの余り声が出ないだけなのか。


 だが、今の私にとってはどちらでも良い。否、そんなことを悠長に考えられる暇などないのだ。


「ま、まさか……この部屋に入ろうとしてる……!?」


 先程まで生首しか見えなかったが、窓に張り付いたことで女には手もあることが分かった。


 手だけではない。裂けて血を流す首元と胸元まで見えたので、明らかに体はしっかりとある。


 謎の女は般若が如き相貌そうぼうを窓に押し付けながら、両手をバンバンと窓に叩きつける。


「や、やめて……来ないで……!!」


 抗議も虚しく、窓を叩きつける音は段々と激しくなる。


 それと同時に、女が何かを訴えるように口を動かしているのが見えた。


『……ッ、カ……ロ……ッ!』


 薄い窓越しであれど、向こうから若干声が聞こえる。


 よく耳を傾けていると、


『――別レロッ!』


 と、声は突然右の耳元まで急接近した。


「きゃああああああああああッ!!!」


 ようやく叫び声を挙げられた私は、あまりの恐怖に耐えられず、荷物を抱えて彼のアパートから飛び出してしまった。


「ハァっ、ハァッ……」


 もしかしたら、アイツが追ってきてるかもしれない。


 息を荒げながら、私は真夏の夜を駆ける。


 海斗くんの家は、それ以降行けなくなってしまった。


 ――あの日までは。

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