だから言ったのに……。

ゆにえもん

前編

「えーっと、確か海斗くんの家はこっちのはず……」


 8月の終わり。なずみ、夕食の材料を買いに来た主婦たちで賑わう商店街を、私――足立裕香は歩いていた。


 スマホの地図アプリを見ながら、おのぼりさんのように辺りを見回す。


「――あっ! あのコンビニ!」


 アプリと彼氏からの事前情報を頼りに、私は地域密着型の小さなコンビニを見つけた。


 あの店の通りを真っすぐ歩いたところに、私の最近できた初めての彼氏――栗原海斗くんの家がある。


「早く行かなきゃ」


 憧れの彼を待たせてしまっては悪い。自分の方向音痴を恨みながら、私は少しばかり駆け足で向かった。


 海斗くんとは、同じ某KO大学に通う同級生であり、ゼミ仲間でもある。容姿端麗、成績優秀、文武両道と才気煥発な人物で、私は入学した頃から憧れの念を抱いていた。


 しかし、転機は訪れる。


 3年に上がった頃、偶然にも私と彼は同じゼミを選択していたのだ。憧れの彼と同じゼミで学べると浮足立つも、私はすぐさま自分の分不相応さに辟易し、消沈した。


 彼は絵に描いたような完璧超人。対する私は、特段美人でもなければ、成績優秀というわけでもなく、図書室でひたすら本を読み漁る本の虫。


 大学デビューをし、多少垢抜けた格好をしてはいるものの、周りの女学生たちよりも地味だ。強いて言えば、幼少期から伸ばし続けた腰まである髪ぐらいが、私の美点と言えるかもしれない。


 大学入学を機に暗めの茶髪に染めたものの、毎日欠かさず髪のケアだけはしている。たとえどんなに面倒であっても、これが私の自己同一性アイデンティティなのだから。


 だが、その甲斐あってか、なんと彼の方から付き合いを申し出てくれたのだ。


「僕、前から図書室にいる君が気になってたんだ。初めて見た時から、他の子達よりも綺麗な髪で、ちゃんと毎日手入れしてて、努力してる良い子だなって」と。


 私は初めて異性から褒められた。そのうえ、自身が陰で努力していることも、彼はちゃんと分かってくれたのだ。


 私は二つ返事で了承し、人生初の彼氏をゲットしたのである。


 頬を染めて、声を上ずらせながら告白してくれた彼の顔を、未だに覚えてる。


 ――あれから3ヶ月。順風満帆な日々を送る私は、初めて彼の家に招かれることとなったのだ。


「はぁ……ようやく着いた」


 私は胸をなでおろし、息を整える。


 小走りで辿り着いた先は、2階建てのアパートだった。白のペンキが所々剥がれかけ、建物の年季を感じさせる。


 アパートの隣には、青いネットで覆われたゴミ捨て場があり、大家の手書きと思わしきゴミの分別の仕方や、ゴミの回収日の看板が立てかけられていた。


 彼の部屋は201号室。つまり、階段を上がって3つ奥の部屋だ。


 私は彼に会う前に、走ったせいで乱れた髪や服を直し、メイクが崩れていないか手鏡でもチェックした。


 ――よし、大丈夫!


 そう思って階段を登ろうとした瞬間、


「あら? 佐伯さん?」


 と、後ろから声をかけられた。


 振り向くとそこには、買い物袋を両手に持った、ふくよかな女性が立っていた。


 だいたい60歳くらいだろうか。人の良さが滲み出る相貌には、彼女の人生経験の豊富さを物語る痕が口周りに刻まれている。


「ごめんなさい! 人違いだったわね。栗原くんの彼女さんに似てたから、つい……」


「す、すみません。私がその、栗原くんの彼女です」


「まあ、そうなの! ってことは、また別れたのね。もう……。


 ――あっ、私はここの大家の丸山です。初めまして」


 特徴のあるしゃがれ声の女性は深々と頭を下げてきた。


 私も彼女に倣い「初めまして。足立です」と頭を下げる。


 すると丸山さんは、買い物袋をゴソゴソと漁りながら、こちらに近づいてきた。


「勘違いのお詫びに……はい、これ。栗原くんと二人で仲良く食べてちょうだい」


 丸山さんは、みかんやパインが入ったフルーツゼリーを2つ渡してきた。彼女の買い物袋の中には同じゼリーが複数あり、おそらくこの人の好物なのだろうと合点する。


「ありがとうございます」と受け取ってバッグに詰めた私は、丸山さんに尋ねてみることにした。


「あの、『また別れた』ってどういうことなんです? それに、佐伯さんって……」


 すると、大家はハッと目を見開き、辺りを見回して小声で話し始めた。


「ここだけの話なんだけどね、栗原くんってプレイボーイなのよ。


 ほら、彼ってイケメンじゃない? それに成績もいいし運動神経もいいから、女の子が放っておくわけないでしょう。


 だからあの子、女の子と付き合っては別れてを何度も何度も繰り返してるのよ……。


 彼が大学入学した時からこの家に住んでるから、かれこれ3年ね。その間に7人くらいの女性と付き合ってるのを見たことがあるわ。貴女も含めたら8人目ね」


「そ、そんなにいたんですか……」


「そうなのよ〜。しかも1年付き合うどころか、半年も経たずに別れるなんてザラなんだから……」


「それで私を前の彼女さんだと勘違いしたってことですか?」


「ええ。だって別れたとか聞いてなかったし、付き合って3ヶ月も経ってなかったんだもの……。まあ、惚れた腫れたを逐一ちくいち大家に報告する人なんかいないんだけどね。


 それに、後ろ姿がそっくりだったのよ。佐伯さんも清楚な子で髪が長かったから。


 とにかく、足立さん――だったかしら? 貴女も気を付けなさい。余計なおせっかいかも知れないけど、もし栗原くんに泣かされたら、おばちゃんが一言言ってやるわ!


『いい加減落ち着いて、ちゃんと一人の女性を愛しなさい』ってね!」


 丸山さんは買い物袋をぶら下げた右手で力こぶを作ってみせた。


 彼女の陽気な人柄に思わず笑みが溢れる。


「ありがとうございます。もし何かあったら相談します」


 こうして、私は丸山さんと別れ、海斗くんの部屋に入るために階段を登った。


 丸山さんにああは言ったものの、今は私が海斗くんの彼女だ。たとえ過去に何人付き合っていようとも、今は関係ない。


 私にとって海斗くんは初めての彼氏。完璧超人の彼がいるという現状が今の私を輝かせている。


 だからこそ、彼好みの彼女になり、料理や掃除、洗濯などの家事スキルも見せつけて、海斗くんを繋ぎ止めたいのだ。


 でも、もし彼に嫌われてしまったらどうしよう。「もう飽きた」と、まるで飴の包み紙のようにあっさりと捨てられてしまったら……。


 悶々としながらも、私は彼の部屋の前にあるインターホンを押した。


「海斗くん、こんにちはー」


『あっ、いらっしゃい裕香さん。今開けるねー!』


 爽やかな声がインターホン越しから返ってきた。10秒もしない内に、アパートの扉が開かれる。


「いらっしゃい。さあさ、上がって」


 私は彼に促されて間口へと上がりこんだ。











 しかし、私は後悔するのだった。を無視したことを。


 恋は盲目とはよく言ったものだ、と――。

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