ネメアーは何処にも居なかった。


 森を抜け、平原を抜け、山を越え、街を横切っても姿は見えない。三日かけて周辺を探し回ったけれど、一日目にして湯気は晴れ、空は澄み渡っている。鬱蒼とした森の中の小さな村で悲劇的なそれが起こっているというのに、世間は無関心だ。いつもそうだ。自然的な事柄において人間は無力だし、無力であることを受け入れている。そうなってしまったのだから仕方がないと言う。まあ、でも確かにその通りだ。この場合においては、人間に助力を求めるのは下策だった。知っているものは知っている。狂獣の存在を。そしてその醜悪さと理不尽さを……ケリュネイアの、幼い少女の言など聞き入れてくれるわけがないのだ。誰かに殺されるくらいなら、自分自身の手で殺そう。そも思って結局村に戻ってきた。


 二体の狂獣は相変わらず奇声を発していた。


 見ていると、虚しさが募ってゆく。まさかこんなことになるなんて。



 ネメアーは言った。それは別の個体を引き寄せるということではなく、新たな狂獣を生み出すということだったのだ。


 でなければ、狂獣は三体になっているはずだ。ネメアーが言った二体目とは、狂獣となったハンセンのことだ。どうしてそうなるのかは分からないけれど、それはこの世界において、とても大切な事であるように思えた。そしてそれを知った日に、ネメアーと出会っている。それは偶然ではないだろう。すべてが必然なのだとすれば……きっと、私は西に向かわなければならないのだろうと、思惑通りにされている悔しさを感じながら、ケリュネイアは思った。


 ハンセンではない方の狂獣は全身を切り裂き、それぞれを別の所の土に埋めた。ハンセンだった方の狂獣は、蔓を使いながら、盗賊団が拠点にしていたところの、最も奥の広場に留置することにした。幾つもの蔓を使ってバリケードを敷いた。誰も入ってこられないように厳重に。そうすることでどうなるのかも分からないし、もしかしたら、さっきしたようにハンセンもバラバラにして埋めてやるのが、供養してやるのが、正しい選択なのかもしれない。だからこれは自己満足だ。そうしたいからそうするだけ。


 ギンターとアルフレッドの首を持って次の街に向かった。


 ハンセンの馬車の積み荷を回収しようとしたら、いつの間にかなくなっていた。まあ、もう何だかどうでもよかった。がどこまで生き永らえたところで、ケリュネイアにはどうでもよかった。強いて言えば、ハンセンの意思は継いであげたいけれど、しかし逃げられてしまった以上、彼の捜索に時間を費やすのは酷く億劫だった。


 いっそ奇妙な程に呆気のない幕引きだった。ケリュネイアはやがていつもの旅路に戻っていった。のんびり歩き、二日後に町についた。ギンターとアルフレッドの首を対価に大金を得たものの、ただ荷物が重たくなっただけだった。ケリュネイアは基本的にお金を使わなかった。あるのなら食事に使うくらいだ。なくたって自前で狩れる。本来であればこの半分の量の重さだけでよかった。でもそれは、もう言わないでおこうと思った。ハンセンが苦しみ続けていることだけを、私だけは覚えていなければならないとケリュネイアは決意する。空は晴やかだった。まだ耳元で狂獣の唸り声が響いている。ケリュネイアは西に向かった。





 とある街の酒場に立ち寄った。


 陰気な照明と粗野な賞金稼ぎたちが巣食っているそこの、壁にかけられたデッド・オア・アライブの手配書には鋭い目つきの男、妖艶な女、山のような肩をした大男など、凶悪な犯罪者の似顔絵が描かれている。ケリュネイアは一枚一枚、その顔を脳に記録していく。ギンターやアルフレッドの手配書もあった。そして一番右隅の方に、おおよそ凶悪とは思えない面の、幸の薄そうな男の手配書がある。首元にはがかかっている。ケリュネイアは目に留まった三枚の手配書を壁のボードから引っぺがす。カウンターの奥に立つ店主の前にそれを並べた。


「ねえ、店主」

 ケリュネイアが呼ぶと、店主は無言でチラリと視線を向けた。


「この三枚はもう貼らなくていい。死んだから」


「そうかい」


「本当かどうか直ぐに分かるけど、一応伝えておく」


「ああ」


「エールを一つ」


「あいよ」


 ケリュネイアは一度見た手配所の顔は忘れなかった。

 礼儀としての一杯を嗜むと、すぐにそこを出た。広い世界の中の一人を見つけることは容易ではない。賞金稼ぎだってちゃんと情報を辿らなければ出会えないし、ネメアーにいたってはどうしようもない。気ままに進んでいくしかなかった。



 ああ ケリュネイア

 黄金の角に青銅の蹄を持つあの仔は草を食べているね

 ほんとうによく食べるの みんなとは違うから

 そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ

 みんなが歩くとパカパカ鳴るのだけど

 あの仔が歩くと音がしないの 歩いた場所に蹄の跡もない

 そして兎に角速いわ

 矢よりも速い

 風よりも速い

 みんなよりも速い

 そう みんなとは違うのよ あの仔だけは黄金の角に青銅の蹄を持つ

 ああ ケリュネイア ああ ケリュネイア




 何時ものように唄を口ずさみながら、旅をする。世界はどこまでも美しく、どこまでも残酷で、どこまでも慈悲深く……。

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ケリュネイアの鹿 甘露 @yuyuto57

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