ハンセンの馬車はすぐに見つかった。


 ただ、心配だった二頭の馬は、既にこと切れていた。全身をズタズタに切り裂かれて出来た黒ずんだ地面……大量の出血の跡がある。馬車の帆も破け、折れ、倒れている。予想はしていた。ケリュネイアがハンセンの身に起こった悲劇を知らなかったように、馬たちに起こった悲劇もしらなかったのだ。ケリュネイアの身に降りかかるものはなかった。ケリュネイアよりも弱い者のところにそれは降る。弱肉強食とはまた違った、無慈悲な法則だった。


 ケリュネイアは馬たちを土に還した。能力を使えば簡単なことだった。そのあと、直ぐにハンセンを追いかけた。向かった先は村だった。村長もハンセンも何処にいるか分からなかったけれど、何となく其処に辿り着いた。


 酷く嫌な予感がまとわりついていた。馬の死体を見た瞬間からだ。早くハンセンの下に向かわなければ、と思う。ケリュネイアは生き残っていた盗賊にハンセンが殺される想像をした。


 しかし、事の次第は、想像を絶する光景を生み出している。それは、このである。村に辿り着いたケリュネイアには、その事がよく理解出来た。そして、誰しもが、その光景を説明するには言葉足らずだろう。いいや、言い表してはならないのかもしれない。それは禁忌的で冒涜的であるのだから。


「……ハンセン?」

 狂獣がいた。


 黒く蠢くそれは、何かを咥えている。それが何処の部位だったのかは分からない。狂獣が纏う黒い狂気と同じような、黒い肌のそれは、最早原型を留めておらず、滴り落ちる血の鮮明さだけが、それが何処かの部位であることを証明している。狂獣の傍らで跪く者を見る。右腕がなかった。あの木炭のような黒い部位は、恐らくハンセンのものだ。考えるよりも先に、能力が発動されていた。狂獣の足元から飛び出してきた二本の蔓が、狂獣の身体を拘束する。遅れてもう二本の蔓が飛び出し、ハンセンの身体を持ち上げ、ケリュネイアの方に運ぶ。間近で見ると、なくなった腕の先から流れる血が、事の深刻さを物語っている。


「生きてる?」


 ケリュネイアが言うと、ハンセンは声とも呼べない呻きを発した。辛うじて生きているけれど、今にも死にそうだ。


 そしてケリュネイアは気が付く。ハンセンの傷は、何一つ癒えてはいなかった。胴体の裂傷や四肢の打撲はいぜんとしてなまめかしい。ネメアーは嘘をついたのか。そんなはずはない。ケリュネイアには確信があった。どういうことだ。そもそもまだ日は落ちていない。何故狂獣が活動しているのだろう。疑いようのない異常事態だ。


「頑張って生きて。あとは何とかするから」


 ケリュネイアは言うと、呼応するようにたくさんの蔓が現れる。狂獣を取り囲み、それらは回転しながら狂獣に襲い掛かる。蔓は鋼のような硬度をもって狂獣の身体を貫く。全身を穿たれた狂獣は、奇声をあげながら、しかし、精気は衰えることなく、動かせる範囲で四肢をジタバタとさせている。全身の穴から煙が噴き上げ、傷を修復しようとするけれど、蔓がそれを妨げている。その間にも蔓は増え、穴を増やしていく。隅々まで蔓に覆われた狂獣は、やはりくぐもった奇声をあげ続けている。容易く死ねない身体も難儀なものだった。


 ケリュネイアは狂獣という存在が嫌いだ。つまらない。人としての面白さも、獣としての面白さも持ち合わせない、無機質な生物。機械的に人間を殺し続ける姿は、異常な嫌悪感を覚えさせる。そのくせ醜悪だ。殺すのにも時間がかかる。物語の登場人物として狂獣が出てきた時の落胆といったらない。さっさと始末してしまおう。そう思い、ケリュネイアが攻勢を極めようとしたその時だった。


 背後から、狂獣の奇声を呑み込むような、大きな叫び声があがった。もちろん、それはハンセンの声だった。振り向くと、のたうち回るハンセンがいた。何よりも異様なのは、ハンセンのなくなっている腕の先から、のようなものが発生していた。


「そんな」

 ケリュネイアはポツリと呟いた。


「そんな馬鹿な」


 その靄から覚えるこの感覚。その禍々しさ。


 考えるよりも先に、それは起こっていた。黒い靄が一瞬で膨れ上がり、ハンセンを包み込む。それは渦を巻きはじめ、大気を震わせた。やがて靄は収束し、そしてそこから現れたのはハンセンではなく、だった。


 ケリュネイアは息を呑む。後ろには蔓で張り付けにされている狂獣がいる。そして、先までハンセンがいた場所に、二体目の狂獣。つまりはそうだ、ハンセンが狂獣になった、ということなのだろうと、ケリュネイアは半信半疑のままに思った。同時に奇妙な納得もあった。


 それは恐らくネメアーの言葉に起因するものだ。そしてふとした時に思ったことがある、狂獣とは何処からやってくるのだろうという自問自答の答え。摂理の一輪を垣間見た時の、視界が開ける、世界が広がる感覚。それらが感情的なものはさておき、ケリュネイアを納得させにくるのだった。


 遅れて感情がやってくると、自分が少し悲しんでいることに気が付いた。ハンセンはいなくなった。躍りかかってくる狂獣の姿を見つめながら、物語の顛末に思いを馳せる。ケリュネイアの周りを蔓が覆い、狂獣の爪を受け止める。そのまま攻撃に転じると、狂獣は一体目と同じように、全身を蔓によって射抜かれ、張り付けになる。どうしたら、ハンセンは帰ってくるのだろうと考えたけれど、五分経っても、十分経っても、三十分経っても、良案は何も浮かんでくるものはなかった。


 治癒能力を持つらしいネメアーなら、何とか出来る可能性がある。気になるのは、ネメアーはハンセンが狂獣になる未来を知っていたことだ。その上で殺せと言った。ケリュネイアとハンセンの繋がりは知らなかったのかもしれない。誰が狂獣になるかは知らなかったのかもしれない。だけど、すべてを知っていたのなら、殺すしかないのかもしれない。これは考えても仕方がないことだ。ケリュネイアにはどうすることも出来なかった。


 ネメアーを探すことにした。


 今まで漂っていた湯気は、次第に薄らんでいた。


 森の中を全力で駆けた。鹿のように軽快な足取りで。


 狂獣は動けないし、死なない。だけど、時が経つにつれて戻れなくなるかもしれなかったし、きっとハンセンは辛い筈だった。自我がないのかもしれないし、でもやっぱり、ハンセンは辛い筈だった。


「頑張って生きて。あとは何とかするから」

 ケリュネイアはもう一度、そう言った。

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