⑤
アルフレッドとギンターの首を持って洞窟の外に出ると、黄金の毛並みを持つ獣がケリュネイアを待ち構えるように、腰を据えている。澄んだ湖のような双眸が、ケリュネイアを鋭く射抜き、豊かな鬣がしなやかに揺れている。一瞬、ハンセンが出会ったという狂獣の存在を思い浮かべる。ただ、今は夜ではない。熱気に包まれていようともそれくらいは分かる。何よりもその黄金の毛並みを持つ獣……獅子は、とても言い表すことの出来ない神聖な雰囲気を纏っている。そしてその身体からは白い煙がモクモクと立ち込めていた。
「何者?」
ケリュネイアは端的に聞いた。
獅子は答えなかった。しかし、その瞬間、ケリュネイアの脳裏に鋭い稲妻が奔ったかのような感覚が生じた。天啓を授かったみたいに、気が付けば「……ネメアー」と呟いている。
「応。我はネメアーである」
そうして、ライオンは口を開いた。身体の内側に直接響くようだった。不思議と人の言葉を介すことに違和感も、驚きもなかった。
「君がこの熱気を生み出していたの」
「如何にも」
「早く止めて。自然が死んでしまう」
「それは出来ぬ。これは我の身体から勝手に発生するものだ」
「じゃあ何処かに行って。重篤な怪我人もいるの」
「であれば、我は今暫く此処に居た方が其奴の為になるであろうな」
「どういうこと?」
「我が生み出す此れには、治癒効果がある」
「嘘」
「本当に嘘だと思うか」
「…………」
嘘だとは到底思えなかった。
それはほとんど確信的だ。もしかしたら、この獣に思考を操作されているのかもしれない。ふとケリュネイアはそう訝ったけれど、そんなわけがない、とこれもまた確信を抱いていた。何の根拠もない確信が芽生える。そう聞くと抽象的な感情論のようなそれを思い浮かべるけれど、実際はもっと幾何学的な法則に基づいた、言うなれば、運命、に出逢ったかのような、定められた理に教えられたかのような、そんな超常的な力を前にしている気が、ケリュネイアにはしていた。
「当然、自然への被害もない」
「そうだ。我々は自然を愛さなければならない」
「そう、ね……。愛さなければならないってことはないけど」
ネメアーはゆっくりと身体を起こした。ボウッ、と音がすると、立派な
ネメアーとの会話は、雲をつかむような感覚があった。そして嫌悪感もなかった。存分に身を委ねられるような存在の強度がある。しかし、それは燃えた蝶と同じなのかもしれない。触れるとどうなるか分からないような、不穏な気配も感じられた。少なくとも、普遍的な存在でないことは確かだった。
ゆっくりとネメアーが近づいてきた。その足取りに魅入られて、ケリュネイアは一歩も動けなかった。動かなかったのかもしれない。世界は白く、そして段々大きくなるネメアーに収束されていく。二人だけの世界が誕生する。ケリュネイアの心臓が、ドクンッと大きく跳ねる。少女と獅子の周りの地面が蠢きはじめ、そこから沢山の萌芽が生まれ、急激に茎を伸ばし、葉を増やし、やがて色とりどりの花を咲かせ、果実を実らせる。そしてすぐに青白い焔がそれらを燃やし、ゆっくりと萎ませ、地面に落ちていく。小さな煙を燻らせ地面に馴染み、そこからまた新たな萌芽が生まれる。現象が繰り返される内に、ケリュネイアとネメアーは肌を寄せ合っていた。ケリュネイアがネメアーの首を抱き、ネメアーはケリュネイアの頭から肩を大きな頬で撫でつけるようにして……誕生と滅亡。再生と破壊。人間と獣……はまるで一つの生物であったかのように、触れあうことに何ら違和感を覚えることはなく、慈愛に充ち満ちた気持ちが溢れ、世界を浸していく……我々は世界を憂うために存在する。我々は世界を救うために存在する。我々は自然を愛するために存在する。それは獣も人間も全てに博愛を以て至らしめる。我々は神獣である。まごう事なき神獣である。
ネメアーがゆっくりと離れていくのを、ケリュネイアはぼんやり眺めた。入り乱れるように伸びていた燃える植物たちは、元々存在していなかったかのように、まるで煙のように姿を消していた。
「西へ向かえ」
ネメアーは言った。
「西に?」
「そうだ」
「西に何があるの」
「行けば分かる」
「……じゃあ気が向いたらそうする」
「フン」
ケリュネイアはそう言ったものの、多分その通りにするだろうと思った。ネメアーは面白くなさそうに鼻を鳴らすと、ゆっくりと踵を返した。「ねえ。それを伝えるために来たの?」とケリュネイアは背に問いかける。ネメアーは首だけを此方に向けた。一瞬の沈黙のあと、
「頼まれたのでな」
と、答えた。
「頼まれた?」
「どうでもよいことだ。それよりもこの地には狂獣が二体いる。疾く処理しろ。あ奴らは全てにおいて害悪だ。跡形もなく始末しろ」
「狂獣が二体? 一体は知ってるけど」
「厳密にはもうすぐ二体になる」
「二体になる」
「そうだ。狂獣は狂獣を呼び寄せる」
「聞いた事がない」
「見た方が速いだろう。今から赴けば見れるかもしれない」
ネメアーはそれだけ言うと、白い湯気の中に消えてしまった。ケリュネイアは暫く考え込んでいたけれど、とりあえずは馬車を探すことにした。怪我人の歩く速度などたかが知れているし、回収してからでも十分間に合うだろう。ケリュネイアはハンセンの生き様を見届けねばならなかった。
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