陽炎 二
「まずは、そこの花畑から君が一番気に入ったひまわりを選ぶんだ」
少年は少し歩いて、咲き乱れるひまわりの花々を見て回る。たくさんあるし、奥にあって他のひまわりに視界と行く手を阻まれているものもあったため、全てを詳しく見ることはできそうもない。できる限りでくまなく確認し、一番橙も効いた明るい黄色をしていて、その色の花びらが全面にいい具合に広がっている一本を選び取った。
「これがいい」
「わかった。そいつから花びらを一つむしってくれ。ちぎれないように、丁寧にね」
いきなりやや抵抗感が出てくる指示を受けてしまう。少年にとって花は病床の自分を何度も元気づけてくれたものだったから、なんだか申し訳ない。だが世界を救うためというならば個人的な小さなわがままも言ってられないだろう。心の中でごめん、と言いながら花びらの根元をつまんで引き抜いた。
「取れたよ」
「よし。それを右手の親指と人差し指中指の先でやさしくつまんでおいてくれ。さて、海の向こうに瑠璃色の球体があるのが見えているかい?」
瑠璃色。ここに来たとき見つけたあれかと少年は理解する。るりいろって言うんだな。
「うん。きれいで、ガラス玉みたいだ」
「これから、相棒にはそいつに向かって矢を放ってもらう」
「矢? そんなのどこにもないよ」
「今から君が生み出すんだ」
さらりと奇妙なことを口にされる。どういうことかと聞き出す前に、犬は淡々と手順を説明し始めた。
「さあ、まずは構えだ。ゆっくり、呼吸を挟みながらやるのが大事だよ。最初に姿勢を確認しよう。肩の力を抜きつつぴんと立って。そうするとおのずとへその下あたりに力がこもるのを感じるはずだ。基本はその姿勢を忘れないようにね」
当分はどんな文句を言っても意味はなさそうだと、少年は感じ取った。諦めて犬に従うことにする。ええと、へその下に力……こもっている、ような。
少年の姿勢が一旦定まったところで、犬の指導が再開される。
「的を見つめながら足を開こう。左足を目標の方向に踏み出す。右足は一旦左に引きつけてから開く。ぴんと伸ばした背筋を軸に肩幅よりやや広く、足先は外に向けて。手は左で弓を外側から握り、右に矢を持って、腰に置いておくといい」
「うう……ん。ねえ、ちょっと説明多すぎない?」
ついさっき覚悟したはずなのに一瞬で集中力が切れてしまった。だって、肩、へその下、左足、呼吸、踏み出す、引きつけて……これだけ体の部位や動作を表す言葉が出ておきながら、まだ足の話しか進んでないから。
「そう言ってくれるな。君の身体の部位の一つ一つ、細やかな動きの全てが成功に関わるんだ。察しのとおりまだまだ当分続くが辛抱してくれ」
犬は叱るでも嘆くでもなく、これまでと変わらぬ口調のまま返答する。少年は呼吸を、というよりため息をついてから、説明にならって足を開くことにした。
「いいだろう。次は肩の高さで矢を番えよう。先に言っておくが、今君の手元には見えずとも既に弓と矢がある。そう信じるように」
とはいえさっき自分だって期待したのだ。自分は勇者になれるのだと。ぼくが遊んできたゲームのシリーズの勇者は諦めない。くじけることはあってもそれで冒険をやめることはない。そして勇者は信じる心を忘れない。どうせなるなら自分もそういう風にかっこよくありたい。相棒を信じて、そのゲームで見た弓矢を自分の手元に目で描いてみる。
「弓は地面に対して垂直に。右手を弓の外側の、握っている部分の前に運んできて、矢を左手の人差し指と中指の間に挟む。できたら右手を矢の中央、ちょうど右眼の前あたりに持ってきて、親指から中指まででつまもう。そして矢羽の後ろまで沿わせる。そこから矢を押し込んでごらん」
犬の説明を脳内で繰り返しつつ、なんとか手順を追った。
少しすると、自分の右手が暖かくなっていく感じがある。より詳しく言えば、親指と、人差し指と中指の先。ひまわりの花びらを持っていた部分だ。そこに光が集まってきている。ひまわりの色を借りたように、黄金に輝いていた。光はどんどん巡っていき、左も暖かくなったかと思えばそのときには一筋の、矢の姿を成した光線となっていた。そして今度は左手の親指と人差し指の間と小指の側面から溢れ、少年の側に向かって弧を描いていく。半円の手前に来たところでその両端がちょっと外側に巻き上がって、次は手を繋ぐかのように互いの方へと伸びていき直線を作る。半月に似た形ができた。光の弓矢が、少年の手に現れたのである。わあ、と声を上げずにはいられなかった。
「ほうら、あっただろう」
「うん、すごいや」
少年はすっかり、弓矢の煌めきを写し取ったかのように目を輝かせている。
「さて、準備はまだ続くぞ。弓の下の方の端を左の膝に、右手は一度腰に戻そう。……ああ、深呼吸をしておこうか。姿勢は崩すんじゃないよ」
言われたとおりにして、興奮していた心身を落ち着かせる。すると一気に冷静になりすぎてしまったのか、最後の不安が押し寄せてきた。
「……チャンスは一回きり?」
「ああ、そうだな」
「ほんとうに、ぼくにできるのかな」
弓矢を引いたどころか本物を見たことすらない自分が、どうしてこんな役目を任されたのだろう。ぼくができなければ世界が終わってしまうなんて。
「それについても問題ない。なんたって相棒は射手座だからな」
「それ関係あるの?」
声の主のお告げではない。今の一言は犬の、少年をよく知るツンの、完全なるアドリブによるものだった。
「ああ。誇りを持て。そいつさえあれば君は、後は私のちょっとした手順の説明とアドバイスだけで誰よりも上手い弓使いになれる」
崇高な思想を持たぬ犬の一言に明快な根拠など望めない。しかし、少年はそれで充分だった。何を言ってもらえたかよりも、誰に言ってもらえたかの方が大切だったのだ。
「君を信じる」
ありがとう、相棒からそう返ってきた。
「よし。じゃあ、右手を弦にかけるぞ。下は左膝につけたまま弓を体の中央へ傾けつつ、人差し指の側面が矢に触れるあたりの弦に右手を持ってくる。親指は弦と交わって十字ができる角度を保ちながら中指の付け根において、薬指と小指だけを力を込めて折り込もう。そうすれば中指と人差し指もつられて動くはずだから、そのまま添えるだけでいい。握るというより包んだ形になるはずだ」
少年はその複雑な所作を、さっきよりも少し自信を持ってこなせるようになっていた。
「体の前で左手を整えよう。矢の下に握り直す。弓の外側に人差し指から小指の根元の膨らみの下あたりをあてる。ちょうど弓の内側が親指と人差し指の間の水かきに密着することになると思う。こっちも十字をつくろう。そうなったら中指から小指を揃えて折り、中指の先の側面に親指を乗せる。……これでやっと、構えの完成だ」
弓矢というのは、少年が想像していたよりも自然な動きの連なりからなるものだった。特別な動作と集中力は必要とはいえ、根元にあり続けるべきものは呼吸や身体の自然な反応のように、日常生活に染みついているもの。それは決して簡単にできたという話ではなく、むしろ当たり前だからこそ身体に改めて意識させなければちぐはぐになるのである。少年はこれまでの儀式めいた行程を実行するなかででそれを体感的に学習し、今も自ら深呼吸した。
「いいかい。よっぴいて、ひょうだ」
「よっぴいて?」
少年は聞き返す。
「そうだ、矢を放つまでに君が頭の中で唱えるべき音。まずは的を見る。いきなり首を曲げるんじゃなく、段階的に、滑らかにやろう。弓、矢、矢を放つ道筋、的の順に。ここからは最後まで的から目を離さないように」
弓、矢。それから海に視線を巡らせる。だだっ広い青に、定規を当てるつもりで自分の矢の軌道を描くことにした。手前から奥へと線を走らせて、的と結びつけた。
「構えた位置からそのまま両腕を軽く上に挙げよう。重心はへそから下の下半身にかけるのを忘れずにね」
全身に異なる種の司令を巡らせながらこれを行う。
「いよいよ弓を引くぞ。先に左腕から。地面と矢の水平を維持しながら、左腕だけを的に向かって一直線に伸ばす。……そこから右腕を肘が肩の後ろに来るところまでしっかり引こう。そのまま、全身の力を上下左右に伸ばし続けて。これが、よっぴいて」
よっ、ぴいて。
「いいぞ。最後だ。矢の発し方は動いてもらう前に説明しておく。合図をしたら、右手を後方に引き切りながら弦から離せ。そして肝心なのは、矢が離れた後もその行き先がわかるまで同じ姿勢でいることだ。いいね?」
少年は小さく頷く。もう、この矢を放つまでは一言も声を発さないと決めていた。
番えた矢は、彼の目の端できらきらと光っている。
「呼吸をしながら、祈るんだ。何でもいい。君の個人的な願いでもいい。とにかく、君が一番聞いてほしい願いを、強く思え。その祈りが腹の底で一つになるのを待とう」
一つ、呼吸をした。ぼくの願い、何だろう。もう一つ。さらに深く。ああ。全神経の巡りが太くなっているからだろうか。ひねった蛇口から流れる水のように、答えは簡単に湧き出てきた。
いつかまた、みんなに会えますように。
風が凪いだのを耳と肌が感じた。
「放て」
ひょう。
その音は浦に響くほど長鳴りした。しばらく、世界の音がそれだけになったのではないかと錯覚してしまうほどに。少年が描いた道筋を、流星のごとくまっすぐ辿ってゆく。まっすぐ、まっすぐ進んでいって、やがて空と海の間に留まる瑠璃に吸い込まれていった。
「これは……」
まだ、耳は矢の飛ぶ音に支配されている。自分が漏らしたその声も発してから自分のものと気づくほどに不明瞭に聞こえたが、犬にはちゃんと届いていたらしい。
「成功だ。流石だな相棒」
少年の聴覚は、その一言でやっと戻ってきた。
「やったあ……」
へにゃあ、と大きな脱力感があって、自分が思ったより緊張していたのを知る。そのまま後ろに手をついて座り込んでしまった。はああ、と息を吐き出す。でも、なんだ。終えてみると、本当にあっけなかった。これでぼくは世界をちょこっとだけ救ったことになったらしい。
「それで、ぼくの放った矢がどうなるの」
てっきり例の球体に突き刺さるのを見届けられるのだと思っていたが、そんなことはなかった。確かに今考えてみれば、うんと遠くにある目標に対して、あの矢はあまりに小さすぎる。
「ああ……それも知らない」
犬の答えはおなじみのものだった。
「知らないことばっかじゃん」
「そうなんだ。私も文句を言ってやりたい」
思い切り呆れてやったつもりが、呆れ返された。完全に張り合いがなくなってしまった。へへっ、と笑いがこみ上げてくる。姿の見えない相棒も、きっと笑っていた。
「それじゃあ、ぼくたちがこれからどうなるのもわからないか」
「いや、それは何となくわかる」
意外にも犬の解答はこうだった。なおさら不思議さが増してしまう。どちらもぼくらが決められることではなさそうなのに、何が違うというのだろう。
「そうなの? 君をここに連れてきたひとに教えてもらったの?」
「そうじゃない。……相棒もそろそろわかるんじゃないかと思う」
そんな意味深長な一言が返ってくる。すると、本当に彼女のことばが引き金となったかのように、何か重大な疑問がはっきりしていく予感がした。ぽかぽかとあたたかい気分になっていたのだ。
「蒸発というのを知っているか」
「どっかで聞いたことはあるけど……わからないな」
だんだん、身体と心の一部が外へ漏れ出しているようで慌てて手を伸ばしているのだけど、捕まえられない。
「そう。液体が温度の上昇によって気体となって飛んでいくこと。これと似たことが私たちにも起きる。みんな、みんな蒸発するんだ。身体も、記憶も、心も」
全て、決まっていたことだった。生きることを愛していたこの少年が死を迎えたときから。彼が役目を引き受けること。あの球体に光の矢を一本で的中させること。そして、最後には陽炎のように蒸発すること。
全て、太陽に呼ばれた全ての無垢なる少年少女が繰り返してきたことだった。皆が世界の明日をそのやさしい眼で、残酷に救う。
「消えちゃうってこと?」
少年は怖くなっていた。死ぬということは受け入れていたはずなのに、消えるというのは、今自分の身体にある感覚は、それともかけ離れている気がして、ここに来て泣きたくなった。
「そうとも言えるかもしれないが、溶けてゆく、の方がより近い。溶けて、私たちが今見ている景色と同じになっていく。……そうだ、チョコレートを想像するといい」
ちょこれいと。……ああ。
自分と自分以外との輪郭が、あいまいになっていく。
「ああ、そうか。お母さんが、よく溶かして、お菓子を作ってた」
「そうだったな。食べられなかったが、あの匂いは好きだった」
眠たく、なってきた。
「ぼくも。もちろん……味も……」
「そう……なんだろうな……」
「……そっか、なら、あった……かいね」
「……ああ。それと……同じだ。私、たちの名前は、一度、とけて……いっしょくたになって……なにものでも、なくなるんだ……」
「うん………だけど」
「きっと何者でもなくなるから、再び、何度でも、何者にでもなれるんだ」
漢字織 幾兎 遥 @ikutoharuK
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