陽炎 一

本日の漢字:学、気、九、休、玉、金、空、月、犬、見 (20/2136)


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死んだツンの鳴き声がした。メスの柴犬で、少年が生まれる四年前には彼の家族と暮らしていた先輩だった。利口で人懐こく、少年が赤ん坊の頃にはお守りを、幼稚園に入るくらいの年頃になれば遊び相手をと、家で過ごすときは常に彼女がそばにいた。

「ツン? どこにいるの?」

少年は大声で犬の名前を呼ぶ。少しして、

「相棒、久しぶりだな」

とゆったりとした声が返ってくる。

「悪いが、会うことはできない。私ができるのは話すことだけだ。ちょっと、こっちに来てくれないか」

本来ならここで犬が喋っていると驚くべきなのだけど、なぜか少年はそのことに関してはあっさりと受け入れてしまった。生きていた時からツンは自分と話せたし、こういう男勝りな姉ちゃんみたいな存在だった。そんな思い出がいつの間にか頭の中に刷り込まれていたのである。

そんなことより、会うことができないというのを理解したくなかった。そんなばかな。だって声が聞こえているのに。ツンの言うとおりに向かってやれば、結局ひょっこり現れるに違いない。根拠のない絶対的な自信を握りしめたまま、少年は指定されてもいないのに全速力で駆け出した。


走り出してみると、自分が全く知らない景色の中にいることがわかった。知らない小屋のある緑豊かな、知らない土地。それでいてどこか懐かしさを感じるのは、この情景が絵の具で描いた絵本のようなタッチをしているからだろうかと思う。水を多めに含ませて塗った水色の空、赤にちょっぴり茶色を混ぜたような小屋の屋根の色、少しずつ色味を変えた緑をいくつも重ねたような木々。


声を辿っていると、岬に着いた。辺り一面黄色に染まっている。ひまわり畑であった。その先には鮮やかな青。海が広がっていた。岬が突き出ている方向に沿ってさらに向こうへと焦点を合わせてみると、水平線の一点に何やら球体があるのが見える。野球のボールほどの大きさで、海と空のものよりも一層深い青をして輝いている。

そうした風景を眺めていたら、一瞬、犬の影が砂浜にゆらりと見えた気がした。

「いるじゃん」

少年は叫ぶ。しかし彼が声を発したときには完全に、砂浜はただの無人のくすんだベージュの地に戻っていた。

「いいや。本当に、声だけなんだ」

犬の声は相変わらず落ち着いている。まるでRPGの最初で主人公にいろいろ説明してくれる老人みたいだ。

その静かな声は、次の一言を告げるときでさえ変わることはなかった。

「それから、相棒ももう死んでいる」

少年は目を少し大きくしたものの、犬の冷静さに多少飲まれたせいで慌てふためくことができない。

「そうなの?」

「ああ」

「でもこれ、ひまわりだよね。シゴノセカイ、ってヒガンバナが咲いてるってお母さんから聞いてたんだけど」

「ヒガンバナ?」

「うん」

「知らないな」

「ぼくもどんなのかはよく覚えてない」

「そうか」

RPGの案内役、とはたとえたものの、この犬は特に物知りという訳ではないらしく、小学生との会話に発展をもたらす技能に欠けていた。

「でも、ぼくが死んだっていうのは本当だよね」

しばらくして、少年はぽつりと言った。犬はものを飲み込むような間を置いてから、ああ、とやはり同じ声音で答える。そう、と少年は頷いた。ようやく、今自分に起きていることのいろいろを素直に受け入れられてきた。そういえばぼくがこんなに元気に走れるなんてことは、ないよな。


泣きたいとは、思わなかった。

ずいぶん前からわかっていたことだった。小さい頃から体が弱くて、幼稚園も学校も休みがちだった。年度のうち悪い時は半年以上、良い時でも三ヶ月近くは教室の席を空けていた。そして三年生の秋の終わりに行ったのを最後に、それからはずっと入院生活で……春が来る前に「もう長くないかもしれない」と目に涙をためたお母さんに伝えられていたのだ。

悲しくはある、とても。もっと学校に行ってみたかったし、家族と一緒にいたかった。もっと一緒に、笑いあっていたかった。だけど手は充分尽くしてもらったし、自分だって頑張った。そして何より両親も友だちも先生もお医者さんたちも、みんなぼくをずっと大好きでいてくれたのを知っている。お父さんたちは毎日手土産を持ってお見舞いに来てくれたし、看護師さんはたくさんおしゃべりに付き合ってくれた。友だちもいっぱい励ましてくれた。ああでも、アキラは最後には泣いていたな。ぼくの大親友。とにかく、それだけ少年には自信があった。満たされていたということに。九才までの自分が欲しかったものは、もう全部胸の中にあった。


だから悲しくはあっても、ここで「嫌だ」と泣き喚いてあてもなくどこかへ走り出したくなるような衝動に駆られることはなかった。

「それで、ここがシゴノセカイなの?」

気を取り直して、少年は自らのんきに尋ねていく。

「そう。太陽の上だ」

「太陽だって?」

初めて少年はうわずった声で聞き返す。これまでどんな非日常的なこともそうかと受け入れていた彼が、ここにきて突然そんな声を出してきたものだから、犬も少々面食らったようで、そんなにおかしいかい、と聞いてきた。

「だって、人は死んだら月に行くとか、星になるとかは聞いたことがあるけれど、太陽は聞いたことがない」

「いやいや、君の意見もあいまいじゃないか」

「そ、そうだけど。でも死んだのにあんなにあたたかい場所に行くはずないよ」

少年にはとても理解しがたい事件であった。少年にとって、死とは夜のことだったのだ。暗くて冷たいもの。あの明るい昼にしか見えない太陽が、死と結びついていいはずがなかった。

犬は相棒の言わんとしていることが何となくわかって、なるほど、と一度理解を示した。

「だがな相棒。そもそも太陽も、星の一つなんだよ」

「そうなの?」

少年はびっくりする。

「そうさ。太陽も、月も、地球も、ひっくるめて言えばみんな星なんだ。それぞれちょっとずつ特徴は違うらしいが……宇宙に散らばっている物体であるという点では同じなんだよ」

「へえ……世界には知らないことがいっぱいあるんだなぁ」

少年は、さっきの穏やかな気持ちをちょっと揺らがせてしまった。まだ、普通に生きていたら勉強できたことがたくさんあったんだろうな。やっぱり、もうちょっと触れてみたかったかも。あ。あのゲームの新作、結局出る前に死んじゃったんだな……

「ただ、相棒は実を言うと、他とは少し違うルートを辿っている」

ぼんやりしていると、犬が新たな話を切り出してきた。

「え? みんな太陽には来ないってこと?」

「ああ。何やら君には、やってほしいことがあるそうなんだ」

「ぼくに?」

問い返したところで、彼女の言い回しにある微妙な違和感に気づく。

「というか『あるそう』ってなんだよ」

「私からの頼みではなくてね」

「だれ?」

「それはわからない」

少年は顔をしかめる。はっきり言って、疑っていた。

「本当なんだって」

わかりやすく表情を崩した相棒の心情を、犬は見事察して弁明する。苦笑いが混じって聞こえたようだった。

「私もただ見知らぬ声に頼まれて、気づいたらここにいたんだ。ここで、君が来るのを待っていた」

少年は一度うーんと小さく唸った。だが、この相棒が嘘を吐いているとは思えない。なんたってツンは忠犬だった。ぼくに対してひねくれたことなんてないのだ。……まあ少年の主観に過ぎないのだが、幼子の視野に多様性を求めるのは困難なことである。

少年は観念して、犬に詳細を聞くことにした。

「……なに、そのやってほしいことって」

答えが返ってくる。

「君に世界を救ってほしい」

また、彼女を疑いたくなった。世界だって?

「ぼくを子ども扱いしすぎじゃない?」

だが、なおも相棒は至って真面目な様子であった。

「にわかには信じられないだろうが、これも本当のことなんだ。この尻尾に誓ってもいい」

少年は彼女の生前のクロワッサンのような愛らしい尻尾を思い出す。あの尻尾を賭けられちゃ反論もしづらい。

「でもきっと人違いだよ」

それでも少年は、自分がそんな大役を仰せつかったということだけは信じられそうもなかった。

「いいや。間違いなく、君が選ばれたんだ」

「そんな。ぼく体も弱いのに」

世界を救うなんて、ぼくよりももっと賢くて、腕っぷしの強い人がするべきことなのだ。

「そんな大掛かりなことはしないんだ」

犬は少年に小さな勘違いがあることに気づき、そう補足した。

「危険もない。救う世界というのも、明日きりの話だ」

それを聞いて少年はようやく少し冷静になれた。犬が察知したとおり、少年の「救う」とはゲームのストーリーのように壮大な行為であった。自分にお門違いの期待をかけられているのではと少し怖かった。だがその心配はしなくてもよいようだ。

しかしかといって快諾してよいものなのかはわからず、しばらく黙りこくってしまう。その様子に、犬がいつもよりもちょっと声色を低くして囁いてきた。

「実を言うと、私もこの頼みを聞き入れてやるべきなのかどうか、わからないんだ」

意外な一言に引き寄せられ、少年は「どうして?」と尋ねる。

「こんなことを言うと傷つけるかもしれないが、みんなを助けたって君が生き返ることはない。みんなが生きていても、君は死んだままだ。おまけに、君が世界を救ったことは誰にも知らされないから、感謝されるわけでもないんだ」

「……あまり、カンケーない気がするな」

少年は、犬の言っていることの意味をちょっと考えた後にそう言った。

「だって、お父さんやお母さんやアキラたちが明日も生きてくれたら嬉しいよ」

すると犬が言う。

「君の知らない人はどうなんだ」 

少年はきょとんとした。今度の質問は、どれだけ考えたとしても意味がわかりそうもない。

「知らなくたって人が元気に生きてくれるなら嬉しいし、その人たちも喜んでくれると思うけどな」

「そうじゃない人もいる」

ふいに犬が語気を強くする。

「人間には悪いヤツだっているんだ。私の同族を蹴飛ばすヤツとかね。ヒドいヤツは主人のくせに何も食べさせてやらなかったり、しまいには捨てたりするんだ。生きるのが好きじゃないヤツもいる。私たちが住んでいたマンションみたいな高い所から、自分で飛び降りるんだ」

ツンがツンじゃないように見えた。彼女は決して自分を責めているわけではない。それは感じつつも、少年は不安になってしまった。

事実、少年の感じたとおりだったのだ。犬が今しがた問うたことは、犬の意見から発されたものではなかった。あのような高度な知識や崇高な思想を持つイヌというのはそうそういない。さっきのヒガンバナのやりとりでも垣間見えたとおり少年の相棒も例外に漏れず、生前は平均より優秀ではあったものの、後はごく平凡な種にすぎなかった。では誰のものかと言えば、犬に使いを頼んだ声の主のものである。声の主は彼女に対し、少年への頼み事と共に、いくつかの使いとしての心構えも密かに預けていた。

「君は、あまりに恵まれていたんだ」 

ただ、妙だからといって避けてもいい質問ではないのだと少年は悟った。多分、ぼくが元気に生きていたらいつかはぶつかっていた問題なんだと思う。そんな直感があった。うんと頭を回して考えてみる。それこそ、初めてお母さんに自分の命に残っている時間について話されたときと同じくらい、真剣に考えた。考えに、考えて、結局ある一つの結論に至った。

「ぼくにはわかんないや」

と。

「なんで君たちを蹴り飛ばす人がいるのか、なんで飛び降りる人がいるのかなんてわからない。わからないから、どうすればいいかもわからない」

少年の顔は特に悲痛そうでもない。本当に単純な、考え抜いたけどもわからない、というだけの顔だった。

「そうか」

犬はその顔に満足した。この顔の少年少女でなければいけないのだ。そうなのだと、信号を受けていた。そう、これもまた声の主がこの使いにかけた暗示であった。世界の明日を救うのは必ず、純真無垢で、自分の世界のことしか知らない子どもでなくてはならぬ。

少年自身も、相棒との問答をしているうちに決心がついたようだった。

「ぼくにもできることなら、やるよ」

悪い話じゃない。ツンは、それにしては頼りない気もするけど本当に、RPGの案内役だった。ぼくは彼女に導かれて、ちょっとの間だけ勇者になるんだ。目標も先もなんにも見えていないけれど、ワクワクせずにはいられなかった。

「わかった、はじめよう」

ワン、と一つ、少年の選択に犬が吠えた。

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