5.
少女の『友だち』はよほど慌てていたのか、それとも人間に姿を見られて動揺していたのか、足跡をありありと残したまま月影の森を出ていた。もしかしたら見つからないまま探し回るかもしれない、と内心でアルドは焦りを感じていたが、それもただの過ぎた憂慮に終わってくれた。
その姿は、月影の森を出てすぐ、ヌアル平原の端にあった。魔獣の女は崖際に立ち、そこから見下ろせる海を眺めていた。入り江の対岸には、ミグランス城を望むこともできる。あるいは、彼女はそれを見ていたのかもしれなかった。
その横顔にはアルドが危惧していたような、追われる者の焦りや恐怖といったものは見られない。しかし、気配については鋭敏だった。アルドたちが近付くとすぐに振り返った。しかし、何から話していいか分からない様子で視線をさまよわせていた。
「さっきはありがとう」
話の口火を切ったのは、少女の方からだった。急に礼を言われ、魔獣の女は戸惑ったように眉をひそめた。
「礼を言われるようなことはしていない」
「ううん、魔物から助けてくれたでしょう? 初めて会った時もそうだった……街道に迷い出てしまった私のことを、あなたは助けてくれた」
「……私にはああいうことでしか、人間に近付くことはできないんだ。いや、たとえ人間を救ったとしても、人間と魔獣が共に生きるなどということはできないだろう」
そう言うと、魔獣の女はアルドの方へと顔を向けた。
「……その子を王都へと送ってやってくれ。私は人間とは離れて暮らすよ」
「待ってくれ。どうして急にそんなことを……オレがあの時、剣を収めなかったからなのか?」
「それだけじゃない。その子が詩人アルブスを追って王都から飛び出して行ってしまったことを知って、危ない目にあってるんじゃないかと思ってここまで来るのに……私はずっと身を隠し、姿を偽っていた。しかし魔物と戦うとなれば元の姿に戻らなければならなかった」
こわばった顔は、一見すると無表情にも見えた。しかしその瞳には、強い悲痛の色が現れていた。
「……魔獣が人間になることはできない。それが私には辛くて悲しい。魔獣は、そのままの姿では、人間と共に生きることすらできないのだと思い知らされたよ」
「そんなことない!」
少女ははっきりと、共生を諦める言葉を否定した。それがただの感情的な物言いだとは魔獣の女にも分かっていたし、アルドもまたそう思っていた。理想としては実現してほしい。いつかはそうなってもいいだろう。けれどそれは、いまある現実として触れられるものではない――だがしかし、少女だけは感情とは別に、真剣にそう思い、そしてそう願っていた。
「確かに、王都みたいに人がたくさんいるところではまだ一緒にいられないかもしれない。でもそれなら、王都じゃないところで生きていけばいいでしょう? わたしもあなたと一緒にいられるなら、どこへだって行けるわ!」
「無茶なことを。君には君の帰りを待っている人がいるんだお父さんやお母さんと離れて暮らすのは、君だって辛いはずだ」
「でも、それでも……わたし、あなたの言葉を聞かなかったことになんてできないよ。人の作った詩を好きになったことも、同じように詩を作りたいって思ったことも、いまの辛くて悲しいって言葉も全部……わたし、大事にしたい」
感情をそのまま言葉に乗せて吐露しながら、少女は魔獣の女の前へと歩み出た。そして、ノワールから預かった空色の表紙の手帳を差し出した。魔獣の女は首を傾げ、それを見下ろす。
「これ、ノワールさんが……アルブスさんの詩を紡いでいた、アルブスさんの妹さんからもらったの。あなたにって……」
「……!? ノワール? アルブスの妹? 詩を紡いでいたというのは……」
「実際に詩を書いていたのは、アルブスじゃなくて、彼の妹のノワールだったんだ」
アルドは少女から説明を受け継いだ。それは、今回の件を見届けた――否、横でただ見ることしかできなかった自分の役目だとアルドは感じていた。少女にいま必要なのは説明の言葉ではなく、友へと届ける言葉だった。己の想いを落ち着いて言葉にするための時間が必要だった。
「ノワールは詩を作ることで、自分が見ていた美しい世界を、自分以外の人にも伝えようとしていたんだ。けど、見た目の美しさのせいで、詩よりも見た目ばかりを追いかけられてしまった。たぶんそのせいで……世界が醜いものに思えて、詩を作ることすらできなくなってしまったこともあった」
「見た目のせいで……人間同士ですら、外見に苦しめられるというのか?」
「……そうかもしれない。けど、そんな世界から少し離れたら、また詩を作れるようになったんだ」
魔獣の女は失望と微かな怒りに顔をしかめた。しかしその感情がすぐ表に出ることはなかった。アルドの言葉がそれをさえぎった。
「ノワールは自分の詩を、お兄さんであるアルブスに代弁してもらった。それは偽りの姿で語られた想いだったかもしれない。けれど、その想いだけは本物だった。アルブスも結局見た目のせいで人気者になってしまったけど、それでも詩を聴いた人の中には、詩そのものに動かされたひとがいたんだ」
それが誰であるか、語られずとも分かったのだろう。魔獣の女は軽く天を仰ぎ、嘆息に息を吐いた。
「何ということだ……お互いに偽りの姿でいたというのに、それでも詩は心に届いたというのか。やはり彼は、いや彼女の詩は素晴らしいのだな。私が真似できないわけだ」
「真似なんて、しなくていいんだよ」
「なに……?」
少女に言われ、魔獣の女は天から少女へと視線を戻した。目が合うと、少女は「この手帳の中を開いてみて」と言って、改めて魔獣の女へと手帳を差し出す。魔獣の女はしげしげと手帳を見つめていたが、やがて少女の熱意が籠もる視線に押されたように、ゆっくりとその手帳に手を伸ばした。そして、言われたとおりに手帳を開いた。
「……何も書かれていない。空っぽだ」
「その手帳いっぱいに自分の想いを書いてって、ノワールさん言ってたよ」
「自分の、想いを?」
「詩は鏡なんだって。ノワールさんはただ、誰かとお話しするように詩を紡いでて、それ以外のやり方なんて分からないんだって言ってたよ。綺麗なものを書きたいんじゃ無くて、綺麗だと思ったものを教えたかっただけなんだって……」
綺麗なもの、と噛み締めるように魔獣の女は呟き、一度海の方へと視線を向けた。しかしその目は、すぐさま少女の方へと向き、それから二度とそらされることは無かった。
「いまの想いを、見てるものを手帳いっぱいに書いてほしいって――ノワールさんはそう言ってくれたの」
「いまの想い、見ているものをそのまま……それだけでいいのか?」
その言葉には、疑いや嘲りといったものはほとんど含まれていなかった。彼女の言葉と瞳には、確かな希望と、そこからくる意志が宿っていた。
「……ねえ、それでもやっぱり……ノワールさんみたいな詩が書きたい?」
少女の問いに、魔獣の女は静かに答えた。
「いいや……もういいんだ。私はもう、誰かが書いたような詩を書きたいは思わないよ」
「……もう、詩を書くの、嫌になった?」
「違うんだ。私は私の詩を見付けたんだよ。姿を偽らなければならなかったとしても、偽らざる心を、その証を……ようやく手に入れられそうだ」
そう言って垣間見せられた微笑みに、少女は目を見開き、そして同じように笑みを綻ばせた。しばらくの間笑い合うと、魔獣の女はアルドの方へと顔を向けた。
「色々と、世話になった。ありがとう、この子を導いてくれて」
「導くってほどのもんでもないよ。その子が頑張った結果だ」
「それでも礼は言わせてくれ。この子を守ってくれたことにも、私を斬らなかったことにも。感謝する。本当に……ありがとう」
アルドはその言葉を受け止める代わりに、無言で首を縦に振った。人間ですら、ここまで丁重に礼を言われることはあまりない。それが照れくさくて、何をどう言っていいのかが分からなかったのだった。
「この子のことは、私が責任を持って王都まで送り届けよう」
「そうか。バルオキーの村の人たちには、オレから上手いこと言っとくよ」
「……何から何まで、すまない。魔獣を信じてくれる人間も、いるものなのだな」
「オレはただ、詩の作り方を教わろうとした子の友だちを信じただけだ」
アルドにとっては、それ以上でもそれ以下でも無かった。本当は、魔獣に対する負の感情が無いと言っては嘘になる。フィーネを攫われた時の記憶、その時に感じた怒りや無力感、喪失感は未だに生々しい爪痕を心に残している。けれど、心の傷をそのまま力に変えてしまえば、結局誰かの心が傷付くのだ。
「……もしまた会ったら、詩を聞かせてくれよな!」
アルドはそう言って、二人に別れを告げた。魔獣と人間、種族の境界が失われた光景に背を向ければ、目の前には見慣れたヌアル平原の緑が広がる。当たり前の風景の先にあるのは、バルオキーという日常であり、現実の世界だ。そこには、彼女たちが望む美しい世界は存在しないのかもしれない。――だが、アルドにとっては大切な場所だ。どこの誰かも分からない自分を、村の一員として受け入れてくれた。
いつかバルオキーでも、魔獣の詩を聞けるようになるのかもしれない。いや、誰がその詩を紡ごうと気にしなくなるかもしれない。アルドには詩の美しさは分からない。しかし、誰の紡ぐ詩であろうと美しいと言えるようになる、そんな世界はきっと良いものなのだろうと、そう思ったのだった。
空の詩集が紡ぐ詩 羽生零 @Fanu0_SJ
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